▼ヒト





昼子は、傍らで大人しく従っている白い犬の背中を撫ぜながら、教会をあとにした。

白い犬―――美耶子の盲導犬であるケルブはハタハタと尻尾を振り、まるで美耶子を先導して案内するときのように、 一歩前を歩きだし昼子に向かって振り返る。それに感心しながらその白い尻尾に向かって昼子は歩き出した。

教会へ赴いた昼子のもとへ、暫く経ってやってきたケルブは、美耶子からの 「救導女が神代家から教会にもうすぐ帰る」という知らせだった。

午後の美耶子の回診の時間、“御印”が下ったかどうかの結果が待ち遠しいらしい救導女は、 教会から神代家へと赴き、毎回結果を聞いては神に祈りを捧げる。 その教会を空けたときを見計らい、昼子は牧野のもとへと向かって、知らせのケルブがくるまで、“話”をする。 異界での正しい行動を記した地図を渡したと同時にする“約束”を守って貰う“信用”を得るために。



***




“情報の提供”により、自分の強みを生かしていくことを決めた昼子は、協力して貰う予定の12人の人物と、 可能な限り、事前に繋がりを作っておくことで、地図を渡すにしても、異界で行動を共にするにしても、必要となる、 “この人間は自分に危害は与えない”という印象を持てやすい状況をつくりたいと思っていた。

言葉が通じること。理解できる感情や価値観を持っていること。意思の疎通ができること。

それらが揃うと人間は仲間意識を持ちやすくなる。 反対に、意思の疎通ができず、理解できない感情や価値観を持ち、言葉が通じない者には防衛本能が働き、 恐怖心、敵対心を持ちやすい。村にいる人々の持つ、否子という存在への印象はこれに限りなく近いだろう。 それをせめて緩めたかった。敵対心を持っている人物に、ものを渡すのはとても難しい。 その人にとってこちらのあらゆる行動は、攻撃として認識されやすいのだ。 それに、昼子の場合、渡したかった“地図”を相手に渡せたとしても、状況は良くなるどころか、悪くなる可能性が高かった。

昼子は地図を渡すとき、

・「絶対に肌身離さずに持っていること」
・「8月2日になるまで紙は開かないでいること」

という約束を取り付けるつもりだった。 渡すものは異界での地図。そして、その内容を知ってほしくない相手には、 あらゆる人物の視界を盗み見ることができる力がある。

もし、8月2日になる前に地図を渡された人物が地図を眺め、その視界を内容を知ってほしくない相手が盗み見ていたら、 もし、地図を渡された人物が昼子の言葉を軽んじて、地図を捨ててしまったら。 もし、異界のなかで地図の存在を思いだせないまま彷徨い、“正しく”事が進まないまま、その人物が命を落としてしまったら。

ほかにもあるとあらゆる不安が昼子にはあった。 想像の限りをつくしても、あまりにも他人というものの行動の可能性は、数多に分岐している。 しかし、諦めて成り行きにまかせるという選択は、あがくと誓った昼子にはない。

わからなければ、これもまた会話してみればいい。

その人の人柄を理解して対策をとってみるしか道はない。 また、地図を渡すのは2003年の8月2日の3日前ほどからを目標にした。 ぎりぎりに渡せば約束を忘れる前に異界へと突入するはずであり、覗き見られる可能性も減る。 それまでの短いとも長いとも言えない時間、昼子は協力して欲しい人物達への接触に専念することにした。



***


しかし、出会ってから、いったいどうすれば信用を得れるのか。 もともと、昼子は“否子”。この村の掟では、“無視”をしなければならない存在だった。

まず、話をするまでが覚束ない。相手がこの村の住人ならまず直面する問題だろう。 無視できないように話掛け続けてみても、黒衣で顔を蔽い隠し、 白装束で裸足という格好では、気味悪がられて逃げられる。 しかも、幻視対策としてなら、なるべく幻視できなくなる120p以内の範囲まで相手に近づいた上で話をするのが好ましいけれど、 初めから気味が悪いと思われている者が、はなからそんなに近づくことが許されるだろうか。 加えて否子という存在を知らず、会話をしてくれそうな外部の人間や、 現時点で村の居ない者と会話するすべは今の昼子にはない。

結局のところ、“地図”を用意したところで、
誰も昼子の話を聞かない、聞けない状況だった。

昼子は焦った。
対面できる時間の使い方が問題だった。

昼子の持ち時間は本当に短い。出会って、相手が昼子を否子だと認識して、無視をする、逃げる、 という行動をするまでの時間で、言葉を言わなければいけない。 だから、自分が“知っている”相手をその場に留めるような不躾な話題を選択しまいがちで、 それを言ってしまうと、当然、相手は心の中を読まれたような不快な気分になり、 そんなことをする昼子を理解できずに敵意を持つ。

関係を緩和させたいのに、これでは逆だ。だが、そうしなければ会話ができない。 こちらが立てば、あちらが立たずという風に、初対面の人間同士が行うような当たり障りないの話題を行えば、 相手がこちらを向いてくれることはまずありえない。当然として無視をするか、 困惑しながら無視をして、耐えきれなくなると逃げる。

だから、スタートラインにも立てないこの状況が続くなら、言葉を相手に刺し、 いっそ、何歩か下がってから、歩き出すほうを昼子は選ぶことにした。

そして、今日も。
教会に赴いたが、あまり先行きは明るくなく、 良い収穫は得られぬまま白い犬は現れ、時間切れとなった。

どこまでいっても、昼子は否子で、否子は居ない子供、居ない子供を決めたのは村の掟で、彼らは村の住人。 いくら自分が考えることのできる精一杯の策を講じてみても、 策のなかに含まれている人物達がちゃんと動かなければその策はただの絵空事。

いや、むしろ。

こういうとき、人はとても虚しくなる。 なんの利益も生まない歯車を世界の中心で全身全霊を込めて回しているような気分になる。 自分が立てている計画は、人が絵空事とした異世界や神や動く死体にむけてのこと。 どちらが重要かと問われれば当然現実の平穏だ。映画のなかでの波乱は、平和だから楽しめる。

昼子の言葉や姿は、現実では不気味過ぎるのだ。


昼子は立ち止り、絶えた足音に気付いたケルブが振り返って首を傾げた。 顔を上げてみれば、誰もが心のなかに抱くのんびりとした田舎の風景。棚田が広がり、民家がぽつりぽつりと立ち並んでいる。 平穏という言葉がすっかりよく似合う。

これが映画のなかの話だったらどんなに良かったか。 風景から断絶され、平穏に歪みを与える黒衣のなかで昼子は皮肉に思う。 頭を隠して、死人の服を纏った子供が「どうか平和の話を聞いてください」と道すがら裾を掴んで話しかけてくる。

そんなのは歪だ。

自分を無視する人間達を恨みながら、昼子自身、それにまったくもって同意している。
自分が理解できないものを拒む行為。
それは人が狂うことなく生きる上で、とても正しいことだ。





▼イヌ




草を踏みながらケルブの後を歩いていると、ふいにケルブが立ち止り、頭を上げた。 フンフンと周辺の匂いを嗅いで落ち着かない。 方向からして恐らく神代の家へと、時折抜け出している目の見えない美耶子を導くのと同じように、 ゆっくり向かっていたつもりだったのだろう。 しかし、何かの匂いを嗅ぎつけ、尻尾を地面すれすれまで下げると、飛びのいて、 ケルブは、跳ねるようにして木の陰に隠れる。

その様子を見ていた昼子は、追って自分も木の陰に行こうとしたが、 すぐにザクザクと不機嫌そうになる足音がこちらにやってきて、身を隠す暇もなくその人物の目に触れた。


「…お前!…ここで何してるんだ!」


随分久しぶりに外で声を掛けられて、足をとめてまじまじと見てしまった。

まだ少年と青年の間を行き来しているような声だが、それに含んだ態度はずいぶんと大きい。 “神代淳”は昼子に向かってその存在を問い詰めるかのような目で睨みつけると、フン、と鼻を鳴らした。 神代に将来、婿養子として入ることが決まっている子供。 その為の教育を今まで積み重ねて、無駄を振り落としてきた子供。 この少年が神代へ婿入りするという決定は彼が産まれる前から決まっていたことだったろう。 不釣り合いな機微に感情が疲労したかのように億劫になった気がした。

「淳様」

「ここで何してると聞いている!」

まるで大人が目下を叱りつけるように語気を強めて言い放つ。だが、まだ声が高く、様にはなっておらず、 背伸びをしているようにも、演技をしているように見える。 実際自らが気がつかない演技をしているのだろう。呪われた神代に巻き込まれた子供の一人。 “相応しくあれ”と育てられた子供は、従ってそれ以外を切り捨てようとして育つ。―――それは、まるで呪いのように。 昼子は、小さくため息を吐いたが、黒衣のなかだから見えはしなかった。

「散歩をしておりました」

素直にそう言うと、一瞬、信じられないという顔になり、次の瞬間には馬鹿にされたとばかりに睨みつけてくる。 神代淳がこうして突っかかってくることは珍しくなかった。神代の当主として正しく振舞おうとするばかりに、 神の花嫁である美耶子や、異例の否子である昼子への反応が過剰すぎているような気がする。

けれど、その反応はそれぞれで異なっていた。彼は美耶子のことは気に入っている。 その執着は、籠のなかの蝶を、籠を叩くことで羽ばたかせ、楽しむような歪なものだったが、 昼子に対しての反応はそうではない。次期当主になる予定の少年は、異例の否子に対して、 神代の名を持ってして抑え込む、昼子の父に倣った高圧的なものだ。


「そういうことじゃない!お前は散歩なんてしてはいけないんだ!」

「何故ですか」

「わからないのか? お前は否子だからだ!」

「否子は散歩をしてはならないのですか」

「あ、当たり前だろう!」

「何故ですか」


「掟だからだ!」


そう言い放つと鬼の首取ったとばかりに笑う神代淳の真正面で、昼子は自分のなかに渦巻く淀みを自覚する。
異界が口をぽっかりと開き、現実を飲み込む日。神代淳はその地図を持つことはない。

神代の次期当主として、人を呪う神の血に巻き込まれ、本来の子供なら不必要な、 傲慢を必要とする教育を受けさせられたことは、本来なら、憂慮すべきものかもしれない。 けれど、昼子の知識のなかの神代淳は神を討つ上で、敵に振り分けられる。

なぜなら、彼は、まず、
神代が“尊い”と思っている、から。


それが卵から孵った雛に最初から見せた刷り込みの結果だからかはわからないが、 その価値観は昼子のやろうとしていることの真逆に位置する考えだった。だから、昼子は“神代淳”を助けない。 昼子が行動し、結末が違ったとして、結果的に彼が運命から外れることはあるかもしれないが、 昼子自身が能動的となって“神代淳”を助けることはない。

非情だろう。しかしそういう決断を自覚することでホッとする。
それが昼子が自覚する自らの淀みだ。

「掟」

ルールを課してしまえば、あとはそれに則ればいいのだから、楽。
自覚しておかなければ間違える。自分の手は二本しかないのだから。

この人は味方。この人は敵。それを決めて置くことで、順番にしてしまえば、 あとはそれに則って方法を組み立ててればいい。 選んだことは、切り捨て。敵を味方にするという方法を考える手間が省ける、楽な方法。 そうしなければ、発起した本当に大事なことを遂げられない。

村を歩きまわるのさえままならなかった自分の力の無さは、分かっていた。
だから、あくる日まで、その目標は鋲の先ほどに見極めておかねばならない。

その為なら、味方に区分した神を倒すための仲間という戦力も、 “どこからやってきたのか分からない”確かに“知っている”事と、不可思議な“居ない”自分の存在も、 全て、利用することができる、はずだ。だから、罪悪なんて感じるような良心は、今はいらない。

頬を赤らめ、大人たちに教え込まれた教育を体現して見せたと得意になっている少年を
言葉で刺すことなんてとても容易い。

「その心がけは立派です次期当主様。
 
 けれど、掟を重視するのなら、否子は無視しなければならないということはお忘れですか?」


***


言われた少年は怒鳴りつけようとした口を閉じ、もう一度喋り出そうとして迷い、いくらか顔色が悪くなり、 今、自分の失態に気付いたとばかりに、押し黙った。 しばし周りを確かめてから、捨て台詞を言い放って、そそくさとその場を去っていく。

去っていく後ろ姿が木によって遮られると、隠れていたケルブがあらわれ、鼻先を足に擦りつけた。 心配するかのような鳴き声に昼子は目を伏せた。 決めた目的は“妹の美耶子を血から解放すること”。それは必然的に、昼子自身の救いでもあるはずだ。 けれど、いくら息巻いたところで、昼子自身になにか力があるわけじゃない。 屍人を葬る力も、堕辰子を消滅させる力もない。

いくら考えても、昼子はただ、目標のために、“知っていること”を利用して、幻視を阻む目を利用して、 異界のなかの人物を利用して、より良いと思われる方向へと進める事くらいしかできない。

昼子は傍らに寄り添った白い暖かい毛並みを撫でようとして――――止める。 今の昼子に、この暖かい毛並みが異界にて“美耶子”を庇ったことで冷たくなってしまうことを 防ぐ手立てを行える余裕は残されていなかった。

一人と一匹。残された昼子は、自分の無力さに頭を痺れされながらしゃがみこんで、言われた捨て台詞を反芻し、否定する。


―――「お前は“宮田”にそっくりだ!」



「違う。あの人と私は、……正反対だ」







【犬神憑き】

犬神、四国などに伝わる俗信。
犬神がのりうつったという異常な精神状態、また、その人を指す。





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あとがき



異界で彷徨っていた美耶子を守ったのはケルブ、そしてそのケルブが倒れる声を聞きつけたSDKが現れ、 神を倒す二人が出会う、となるとケルブを助けることは、途中まで“正しく確実に”と決めた主人公には無理になってしまう。 儀式開始のときに主人公がどこにいるのかにもよるのかもしれませんが。

他にもいろいろと無理なことがあって、力のない主人公は切り捨てようとしてますが、 人間、機械のようにスパッとはいかないもので、苦しんでる途中の話。 ジュンジュンはもともとなんて名字だったのかなぁ。