▲救いの主
2000年。
不入谷教会。
届いた知らせの手紙を開く。内容は、やはり御印のことではなく“今回の美耶子”がどんな様子なのかを知らせる定期的な、いつもと変わらない手紙だった。
文章を毎回読み取ってみて合わせて考えてみると、今回の美耶子は、どうやらとても強い力を持っているらしかった。
読み終わり、牧野は手紙を丁寧に畳むと、決まった木製の箪笥の引き戸のなかへとしまう。
手紙の姿が見えなくなると、息をついた。
この感情が安堵なのか不安なのかわからない。けれど、手紙から読みとった“強い力を持っている花嫁”という事実が、
牧野に一握りの希望を与えているのは確かだ。
それは、まるで、
待ちかねた天の導きが具現化したかのように思えて楽になれる。
不安な牧野はいつも確かなものを欲しがっていた。
そして、今回、示されたことは牧野の安心に繋がっているものだ。
天の意思ならば、きっと儀式は成功する。
それは、牧野の気持ちがどうであろうが、何をしようが、天がそう望むのなら、
見えない力に引き寄せられ、運命のように強引に“そうなる”。
だから、牧野は従順に一心に天に祈るだけでいい。そうすれば、この重い役目の山場を終えることができる。
しかし、
膝をつき、祈りを捧げていた体制から頭を上げ、牧野は合わせて組んでいた掌を崩しながら、息を吐いた。
喉元から頭上へと突き上げるように祈っていた思いの泉が枯れる。
今回の花嫁はとても強い力を持っている。それは選ばれた証がとても強いということだ。神に望まれた最も尊い花嫁。
だが、今回の花嫁には、強い力に加え、今までなかった“特異”もあった。
“神の花嫁”の“否子憑き”
否子とは、神代では、次の花嫁を産む姉と、神の花嫁である妹以外に、稀に産まれる子供のことだ。
ほとんどが姉の双子として生まれてくる否子は、産まれた時点で不和を起さないために、すぐさま、
神代と教会を繋ぐ地下の道よりもっと下にある“天戸”へと納めることになっている。
しかし、今回の否子は“神の花嫁”との双子であり、御印である幻視の力が判明するまで、どちらか分からなかった。
わかった後も間違いのないように、儀式の日まで、異例の否子の子は村にいる。―――生かされている。
毎回、それを思い出すと牧野のなかの安心は続くこと無く霧散していってしまう。
花嫁の力を喜ぶ一方で、花嫁の双子の姉にあたる特異の否子が、儀式が失敗する証に思えてしまうのだ。
そして、その存在を思う度に、はっきりとわかる恐れもあった。
自分は、
“昼子”そのものを恐れている。
その恐怖は、自分の弟と向かい合う時に感じるものと酷く似ていた。
***
牧野慶という男は、“両親”というものを知らなかった。
父という役割を担う者は居た。
独特の信仰を持つ羽生蛇村でその祭事を取り仕切る重要な役柄に籍を置いた“救導師”と呼ばれる男。
しかし、牧野慶は、“救導師”である牧野怜治の息子でありながら、彼を父として素直に慕うことはできなかった。
今は亡き父を思うと、まず思い出す場面と言葉がある。
「お前は、あの酷い土砂崩れのあった後に、お前の両親から直接私が預かったんだ」
そうことあるごとに言う父は、自らを父と呼ばせるが、自ら父親であろうとしたことは無かったように牧野には思えた。
いつも父は“救導師”であり、師であって、父ではない。
その顛末を初めに聞かされたのは、牧野が記憶する最初の記憶に等しいほど昔であり、
その事実を伝えることで、父が、「私は、お前の父親じゃ無いんだ」と釈明しているようだとも思った。
そして、その話のあと、必ずと言って父は自分に向って謝罪をする。
「だから、お前は私の跡を継ぎ、“救導師”にならなければならいんだ」
そうして謝り続ける真っ黒な服を纏った男に、どう答えるべきなのかは、
すでに何度もこの場面に立ち会っていた幼い牧野にとって習慣であり、体が勝手に動いて答えてくれる。
ただ、なるべく無邪気を装い、「はい!立派な救導師になります!」そう言って笑う。
そうすれば、父は安心したように笑い、傍に控えていた八尾は頭を撫でてくれる。
牧野には、この、父と、母と、そしてその子供のする些細なやり取りのような団欒が一等心地良く、
そして、その心地よさを壊さぬように、馬鹿の一つ覚えのように、迷いのない返事を吐き出し続けた。
いや、
今、よくよく探ってみても、このときは本当に、その台詞に嘘はなかった。
父が居て、母のような八尾が居る。そして村人も牧野には本当に親切だった。
救導師になるための勉強も難しいが、勉強の合間は、父とずっと話しができたし、頑張って覚えれば八尾が褒めてくれる。
だから、救導師になることに、その頃は迷いはなかった。
ただ、この関係性に、自分が何を求めていたのか。
それは、幼いころから残酷なほど無意識にわかっていたのだから、ほろ暗い悲しみは、離れることなくいつも寄り添っていた。
初めて心から祈ったのは、中学1年の頃だ。
父が死んだ。
自殺だったが、村の重役である父の自殺に対する村の者の動揺を恐れ、持病が急に悪化し、亡くなったことになった。
“父”が死んだという実感をその時の牧野はなかなか感じることができなかった。
もう勉強を見てくれない。話もできない。それは悲しいが、牧野にはまだわからない。
自我があるうちに経験した、初めての戻ることのできない喪失だった。
寒い日だった。雪のちらつくその日に、冷たい床に置かれ、ビクともしない棺のなかに父がいる。
それはなんだか恐ろしくはあった。
だが、それよりもなによりも、牧野の感情を支配していたのは不安と正体不明な焦燥のような感情だ。
まるで次に訪れるだろう孤独を知ってたかのように、戻れなくなる場所に進む車輪に翻弄された。
その感情を強めたのは、牧野の“母”役だった八尾の、怜治をみる冷たい目線だった。
あんな目線は今まで見たことがない。牧野は八尾はきっと本当に悲しそうに泣くだろうと思っていた。
その隣で、八尾を見本にして、“正しく”悲しみ、感情を昇華することができると牧野は信じていた。
けれど、八尾が自ら命を絶った亡骸に向けたのは冷たい一瞥のみだった。
この行動は、家族として、母として“正しくない”。
その瞬間、牧野のなかでエラーが生じた。
“父”と“母”を慕い、見本にし、成長する“子”であったはずの牧野は、そのエラーに戸惑って、
“父”を失い、“母”を見失った不安に取りつかれた。
加えて、今自分が纏っている黒い服も不安を増長していた。
これは“父”の服だ。自ら命を絶った父の救導師の服だ。
裾を上げ、腕を巻くって纏う服はとても重たい。
服の中で発生するぬくもりがかつての幻を見せては頭をくらくらさせる。
そして、周りで自分を見つめる親切そうな笑みを浮かべた村人の目には、
今までなかった爛爛とした光が見えるような気がして、それが体の芯を凍らせてはキシキシと力を込めて堪らない。
怖い。
何もかもが変わってしまった世界に一人で放り投げ入れられたような不安が暴れ、
なんとか、この不安を取り除こうと、救いを求め、迷いながらも、別人のように見えた八尾にすがるような視線を向ける。
すると、八尾は不思議そうな顔で首を傾げたあと、ハッと我に返ったように、いつもの微笑みを浮かべたのだ。
「大丈夫ですよ。救導師様。」
その時だ。プツンと、世界と自分を繋いでいたか細い糸が切られた。
子供が不器用に取り繕ってところで、それは簡単に“子供じゃないもの”に破かれてしまう。
その糸の先端を持っていた、いつも柔らかく「慶」と呼んでいた唇は、ついにその名前を必要としなくなった。
牧野は、不安とよくわからない感情が噴出しそうになりながら、通常を続けようと、口と、表情とが、笑みの形をつくった。
牧野にとって、彼女は“母”だった。けれど、八尾は牧野に“子”の役を求めることはついに完全にしなくなった。
「はい」
目だけがいつまでも絶望を見つめていた。自分の返事が、何に納得したのか牧野にはわからない。
ただ、せめて、と安心できる庇護のない少年は、彼女の要求を飲み干した振りをして、凍った笑顔をしてみせる。
「八尾さんが傍に居てくれるなら」
道理はいつも同じ。求められる役を演じることが出来れば、社会から求められる。
毛並みのいい従順で盲目な無垢の子供は世界中で愛される、はずだ。
一人にならないためには、今度は、彼女の求める“救導師”にならなくてはならない。
その日から、絶えず牧野は心から神に祈りを捧げ続けた。
救導師に必要ない、疑いや、不安や、悲しみを昇華するように、神に向かって。
だが、その祈りは、どこまで行こうとも根本は大地にあり動けぬように、そこから生まれる幹や枝はどうしたって、
天に届きはしなかった。
牧野の不安は絶えず、救いを求めているのは自分であり、救いを与える見えない救導師に自分を嫌悪した。
そして、ついに巡ってきた救導師にとって最も重要な“嫁入りの儀式”の“花嫁”が決定したという知らせを聞いてからも、
改善するどころか、不安は増し、それを解消するためにますます神に空っぽの祈りを捧げる日々が過ぎた。
祈りは、叫びに代わり、疑問を問いかけ、真に“正しい”導きを求めて懊悩する。
たった一言でもよかった。
たった一言でも、天におわす御主が答えてくれたならば、その一言で、牧野は救われるような気がしたのだ。
▲神と義務
「こんにちわ」
まだ幼い発音を残した声の挨拶が、午後の祈りを捧げていた牧野の背中に掛けられた。
ピリ、と走った緊張に背中が強張る。もう、これで何度めだろう。声をかけられたのに、振り向かず、
気付かない振りをしながら罪悪感を噛み潰すのも、ずいぶん数をこなしたというのに、未だに牧野には慣れない。
もの言いたげな子供の視線が背中に突き刺ささり、そこがじわじわと焼けていくような気がする。
しかし、それでも、牧野は子供のほうへと振り向かない。
振り向いてはいけないからだ。―――“否子”は居ない者としてふるまわなくてはならない。
昼子が神代の家から抜け出すようになり、なぜか時折、この不入谷教会へやってくるようになって随分経った。
初めこそ、村の誰かが声をかけたのだと思い、振り向いて、居るはずのないその姿に驚いた。
否子が村をうろついているという話を聞いたこともあったし、
その姿を遠目から見たことも牧野にはあったが、まさか、教会に赴いてくるとは思っていなかった。
だが、暫く続けば、図ったかのように、救導女である八尾が不在の時に現れる為、回数が増える度に、予想がついてきて、
ああ、やっぱり来た。と牧野は声を掛けられる度に、その場で、憂鬱を飲み込み、必死に掟に則った行動をして耐えるようになった。
いつもの通りなら、こうして、暫く祈る振りをしていれば、子供は自然と姿を消す。
今回も、牧野はそうすることにした。しかし、昼子にそのつもりは無いようだった。
牧野は焦った。教会の入り口から、こちらに向けてぺたぺたと湿った音とともに鈴の音が近づいてくる。
否子の足首には、周りに存在を知らせるために鈴がつけられている。そして、本来出歩かない筈なのだから、
靴なんて用意されるはずもない。軽快な足音なんてしてこない。
そのぺたぺたと湿った音と、鈴の音が、自分の背後のごく近くを最後に沈黙する。
気のせいかもしれないが、子供特有の高い体温が背中に当たってきている気さえした。すぅと息が吸われる音がする。
「いくら祈っても神様は答えてくれない」
その沈黙する神の正面で祈りを捧げている振りをしていた牧野は震えた。
とても近い場所から告げられた言葉だった。祈りの姿勢のまま、見えるはずもないのに瞳を背後に向けるように神経が寄る。
「神様は助けてはくれません」
そうだ。居ない者とされてしまった否子は、生きている限り、救いは下ってこない。
見分けがつかなかったばかりに、生かされてしまった否子は、もう随分、天への時間を延ばされてしまっている。
牧野には、もがき苦しむ挙動をする者の失望と、それに救いを示すことのできない自分の無力をまざまざ見せつけられたような気がした。
けれど、昼子が言いたいことはそうではない。幼い声が低く響く。
「それは当り前だ」
昼子は、牧野ではなくその背の先にある神の象徴を射抜くように見つめていた。
噛みしめるように。戒めるように。
「誰かを救う義務なんて本当は誰も持っていないんです。神様も、もちろん人間である貴方にも」
祈りの姿勢は力が抜けていくように崩れていった。
両手はバラバラになり、牧野は無視しなければならない後ろをゆっくりと振り向いていた。
耳元に囁くように近づいていた黒い袋に包まれた少女の顔が、音もなく遠ざかっていき、
膝をついてやっと同じ身長になる少女は姿勢を正した。
「神様にもない義務をどうして人間が負わなければならないのです」
頭を包む黒衣のなかで、沼のように深い二つの闇が見えたような気がして、身が竦んだ。
―――聞いてはいけない。しかし、少女の言葉を牧野は瞬間的に渇望していた。
自分は何かを待っている。ずっとこの言葉を待っていたような気がする。だが恐れてもいる。それしかわからない。
―――聞いてはいけない。これは悪魔の囁きだ!
そう思い、弾かれたように必死に神へと向き直り、祈りを捧げるも、
静かに、浸すように溢される言葉に、耳を傾けてしまう。聞いてはいけない。壊されてしまうのだ。
牧野は思った。
父が自ら死を選んだときのように。八尾が死体に嫌悪を抱いた時ように。
「義務じゃない。だから救えなかったという責任で生じる罰はない。
だってそうでしょう?
そんなものがあったら誰が救いの手を差し伸べますか?
神様は沈黙する。人間の手は短くて届かない。しかし、救いが果たされなかったことで生じる罰はない。
例えば、
“そうであれ”とされてしまった“救導師”でも同じじゃないでしょうか」
―――ああ、やっぱり。
牧野は両手で耳を押さえ叫んでいた。なんと言って叫んだのかはわからない。
意味の無い呻きだったのかもしれないし、神への祝詞だったかもしれない。
ただ、掌で包んだ耳で、膜の内のように一枚隔てたところで、自らの叫びを聞いていた。
叫び終わると、体は萎えて、両手を地面につけ、力の抜けた体を支えた。
まるで悪夢から覚めたみたいだった。
響く騒音が晴れると午後の穏やかな鳥の鳴き声や、風が稲穂を撫ぜる音が聞こえ出す。
腹から空気を絞り出した分を補給するために、息を繰り返し、恐る恐る後ろを窺うと、
外の光のなかで、もう随分遠くを歩いている白い着物と黒い黒衣が見える。
それを確認すると喉の奥が震えるのを感じた。すでに遠くに行ってしまった昼子の言葉がぐるぐると頭の中で回り続けている。
救えなくとも、罰は下らない。―――そういうことじゃないんだ。牧野のなかで、言えなかった反論が喉元で渦巻いていた。
そういうことじゃない。自分は、罰が下るがどうかで救導師をしているわけじゃない。
だからといって、英雄願望や自尊心は欠落しているのだから、自己は昼子の言葉に絡めとられた。
そうだとすると、自分はなぜ救導師という立場であり、その役割を享受しているのか。
・
わからない振りをしている。
しばらく項垂れ、息を整えると、牧野は座りなおし、視線を上げた。
先ほどまで祈っていた5本の直線が重なり合うような形をした神の象徴は、当然としてそこにある。
崩した手をそのままに、じっくりと、向き合ってみると、その象徴はただの金属の塊なのだ。
神を疑うことはいけないことだ、と牧野は父に教えられてきた。
救導師とは神の教えを人々に教え、救いへと導くものなのだから。誰よりも一心に祈りをささげなくてはならない。
けれど、父の言っていたことが正しく、すべてのことが神の思し召しだとしたら、
稀に産まれ、産まれてすぐに天戸へと葬りさられる“否子”とは一体なんのために産まれてくるのだろう。
そして、それは“否子”だけではない。
全ての人間は平等とは程遠く、理不尽な差別と区別を受け、苦しみのさなかにいる。
世界を作り出したのが神であるというのなら、理不尽を作ったのも神だ。人はそれを試練といい、神を慕うことは辞さなかった。
けれど、神のほうはどうだろう。理不尽を課し、苦しみの中でもがく人間を天から見ながら、言葉も救いもお与えにならない。
神は本当に人を愛してくださっているのだろうか?
人の手で造られただろう厳格に作られた金属の塊から牧野は目を反らし、黒い装束に身を包んだ己の矛盾に苛まれる。
こういう疑問を持つからこそ自分は救導師に相応しくないのだと余計に思った。
自分には絶対が無い。誘惑に打ち勝つための信念が無い。その信念を神を信じることにしろと父と八尾は言い、
そうしている振りを必死にしてきたが、本当はそうじゃなくなっている―――皮肉にもその父の死によって。
神を信じ、救導師としての役割をこなしてきた父ですら、最終的には神と離反した。
父は自ら死を選んだ。死に行くその最期の瞬間まで、彼は、村の救導師だったはずなのに。
―――父は罰を受けたのだろうか。
父の死は、父の罪から産まれた罰だったのか、牧野はそれは違うような気がする。
それはもっと単純で、博愛と真逆のとこで地面を張っているものの為。
そしてそれは自分が救導師をしている理由と近いような気がしてしかたがないのだ。
イグイはあまり宗教関連について詳しくないので、細かいところはスルーでお願いします。
そもそも、眞魚教の形式なんて深いとこまで分かるはずないですしね。