▲幻視三
両目の間、もしくは額に集中して意識の尾を長く長く手繰らせていく。
すると、真っ黒な視界に、蠢くものが見え始めた。
暗闇か瞼の裏で見るような幻は、次第に輪郭を克明にして、色も鮮明になり、
確かな実像として音も耳に伝えてくる。
―――風の音。
―――外の風景。
―――草を刈り取っていく手。
(違う)
判断すると意識する方向を変える。
とても長く、しなやかな棒を手に持って向きを変えるように、横なぎに意識を自分の周りへ見渡していく。
―――山―――人の顔―――文字―――テレビの画面―――。
次々に視界は違う場所に入れ替わった。
しかし、届く距離のギリギリまで“目”を凝らしたが、求めていた白い着物姿の少女は見つけられず、
それでも何度も視界を飛ばしてみて、ついに叶わず、神代家の離れにいた美耶子は、一番近くの視界、
寄り添っているケルブへと暫くぶりの帰還を果たした。
朝の陽ざしを受ける慰め程度に部屋に付属した庭を眺めていたその目は、美耶子の意識が戻ってきた事が分かるのか、
振り向き、何か堪えているような表情をした少女の顔を見る。クゥと賢いケルブが鼻を鳴らした。
距離を測って視界の持ち主へ手を伸ばし、撫でてやると、ワンと鳴く。
毛並みは暖かく、見える自分の顔が、少しはマシになったように思った。
計画のなんらかの事が宮田に露見したらしい日からもうすぐ一週間だった。
宮田に救いを吐き捨てられた美耶子は、それから毎日、幻視を使っては姉の姿を探していた。
無事なのか。計画はどうすればいいのか。このまま、“儀式の日に神の首を打ち壊す”、で、いいのか。
宮田が昼子に何かしたのか、それとも、昼子が何かを言ったのか。美耶子は恐ろしかった。
宮田は神代に従順だ。従わない選択肢など存在しないというような態度で淡々としている。
そういう姿は、ある面、神代にほほ笑み、崇拝している村人達よりも反旗を翻す姿を想像させなかった。
―――もし、御神体を壊す事が宮田に知れていたら。
不安が極まる前に、美耶子はあれから何度も思考の黒い海への防波堤にしてきた考えを取り出して、自分を抑えた。
(……でも、知られていたのなら、きっとああは、ならなかった)
美耶子はあのまま手も足も出せなかったわけではない。
いや、手も足も閉じ込められてしまうに易い美耶子だが、目があった。
宮田を待っている当主の目へと意識の尾を向け、自分を置いて行った宮田を当主の目として出迎えた。
そして、あの日、様子の可笑しかった宮田は、儀式の支障は口にしても、儀式の妨害については口にしなかった。
下されたのは、現状維持―――昼子の無事だった。
直前まで極度に緊張していた美耶子は、体を崩すほどの安堵を得た。
宮田が当主の前から下がるとケルブの背に顔を埋めて息を吐き、当主が目を離すまで無言で去っていく背中を見つめた。
(でも、なら、何を知った?)
診察後、零した言葉には、昼子が外を出歩く事を知っただけでは説明できない違和感がある。
しかし、御神体については知らない。知っていたのなら儀式の失敗を恐れる神代の当主の前で“宮田”が口を閉じたりはしないだろう。
では、何を知った?何を知って、己以外の役割なんて与えられず、などと、宮田が態々跳ね除けて言うのか。
そして、これは昼子の計画の一部だったのか?と思うと違うような気がした。
あの対面で宮田が当主にもう少し踏み込むか、当主が話に興味を持っていたのなら、きっと破綻していた。
今回の事は昼子の意図ではなかった。なら、
昼子は宮田に情報を吐かされたのかもしれない。
考えが至ると、再び焦りが生まれた。
神代から出て車に乗り込もうとしている宮田の目を追う。追って、昼子の姿を探す。
しかし、幻視のできない、周囲の人間の目すら覆い隠してしまう能力を本人が持っているばかりに、
見えたと思うと直ぐに暗闇に飲み込まれてしまい、様子を確認するだけの猶予はなかった。
それは日を跨いでも変わらず、苦肉の策で、宮田以外の村の人間の目を借りもした。
以前から、幻視を阻む距離の範囲外に居る村人の視界に、村を練り歩いている昼子の姿が映る事はあった。
すると、今日までに、何度か昼子の姿を村で目撃できた。
変わらず外を歩けている分、深刻ではなかったのかもしれないし、気を揉んでいるこちらを知らない昼子からなんらかの合図があるわけでもなかった。
「……ケルブ、おいで」
手招くと白い犬は黒い鼻面を体に寄せていた。視界が自分の着ている服で埋まった。
頭から毛並みに沿って背を撫でると、途中、手に当たる感触があり、触ってそれを確かめる。しっかりとした革の首輪。
昔、昼子が美耶子にこれを求めるように言い、美耶子は従って手伝いの者を介して当主へ犬用の首輪が欲しいと伝え、手に入れた。
この首輪の縫い目を一部解き、その隙間に昼子が残した“手紙”が差し込んである。
儀式の日、神の首を壊し、儀式が失敗した後の、道しるべだと昼子は言っていた。
それまではけして開いてはならない。儀式を望み続けている神の従者は幻視の力を持っているのだ、と―――。
(わかってる)
首輪をなぞり、美耶子は見えない目を閉じてうつむく。
昼子の事は信じている。話を聞き、疑問に答え、そして、生贄にならなくていい、と、唯一、言いきってくれた。
幻視の力もなく小屋に閉じ込められていたというのに、昼子は昔から外の事も神代の闇にも詳しかった。
強力な幻視によって情報を得るようになった美耶子は、昼子の話が真実であると知り続けてきた。
夏がどうして暑いのかも、家族というものの形も、自分が村の平穏の為にこの世界から消える役目を担い、
この目を通して見える誰もが消える自分を惜しんでも、助けてもくれないという事、
家族ですら進んで美耶子を神に捧げようとしている絶望。怒り。
“この家の地下から広がる洞窟を幻視できるという意味、そこに居る何者かの慟哭”も。
神の従者が何者なのか昼子は言わずに神代家を出た。しかし、それは自分の傍にいるような気がした。
それが誰か知れたら、冷静でいれる自信が美耶子にはなかったし、昼子もそれを察したのかもしれない。
だからこそ、次に往診に来て憮然とした態度で顔を見せた宮田に、「昼子に何かしたら今度こそ許さないから」とだけ言って、
ほかに何も言わずに考えて我慢した。反面、であい頭にむっすりとした美耶子を見て宮田は瞬きを二回繰り返すだけで、
「診察に参りました」とだけ言った。腹立たしい思いをしたのだった。美耶子は思い返してワシワシとケルブの背をかき回す。
宮田はいつも変わらない。
態度が崩れたのはあの時だけだ。
(あの時、なんで、あんな事言ったんだ?)
宮田以外の役目を求めるな、なんて。
昼子が宮田にそれを求めたのか?なんの役目を?どうして宮田に?
―――昼子。
異変を視界の隅や、一瞬映る黒衣に訴えかけようにも、他人の視界は美耶子の意思とは別に否子を忌避する。
「ケルブ、……どうすればいいと思う?」
問いながら思い描いたのは抜け道だった。離れにある隧道の抜け道。そこから誰にも悟られず、本館に出て昼子の居た小屋にも通った。
上手くやれば家の外に出る事もできる。何度かやった事もある。
……予め昼子の居場所を見つけて置き、外で落ち合い、事情を訊くことは、可能だろうか?
▲老人
2002年11月初旬
「ああ、志村さん。こんにちは」
声に反応して、回りに居た二人も視線を追うと追従して頷くように頭を下げた。
北山の麓に住む住民は、買い出しというと、必ず、村の商店街へと続くこの坂道を通る。
志村の姿を見たのは坂の途中の空き地で井戸端会議をしていた折だ。
下から登ってきた志村は、こちらを一瞥するとそのまま坂を登り続ける。
体が歳の割にがっしりとした、笑い皺の少ない、眉間が詰まった不愛想な老人だった。
かくしゃくとした足取りで、そのまま、先の曲がり角へと消える。山の自宅へ帰るのだろう。
つい、その背に担いだ猟銃が見えなくなるまで黙って見つめていた三人は、お互い目を合わせると困ったように笑った。
「ちょっと怖い感じですよね」
「志村さん?」
「挨拶しても返ってきた事がないので。あと、銃も、持ち歩いてて、なんだか危ない感じが」
「でも、志村さんって猟師だったでしょう。商売道具なのよ、あれ」
「それはそうですけど……」
志村の姿はこの集落では少し異質だ。北の山に一人で住み、偶に罠を使った単独の猟をして暮らしている。
誰とも打ち解けず、笑いもせず、狩猟の期間や買い出し以外、外を歩いている姿も見たことがない。
村の行事にも硬く扉を閉じ、教会の有事の際にも音沙汰ない。
体を弱くした年寄り連中の多い村で、足腰と頭のしっかりしている男性は貴重で頼りになるが、
その絶対的な拒否の姿勢の前では誰も何も言えずにいる。
唯一、姿を現すといえば、昔なじみの葬式には顔を出すらしい。
式が始まる前に御花料を置いて棺桶を見つめるだけで、救導師が来る前に帰ってしまうのだというが。
その暮らしぶりに、村の子供や若い者は志村を見ると怖がるか、噂の種にする事がある。
歳のいった者は「へんなことを言うんじゃない」と窘めるのだが、
子供は事情を汲めるようになるまで、一点に大人は頭ごなしにするので、
余計に反発して、ある事ない事、あの老人に想像を掻き立てる。
そのまま真実を知らされずに大きくなったのだろう、怖がる若い者に訳知り顔で一人が声を潜めて言った。
「そんなに怖い人じゃないのよ、志村さんは。仕方がないのよ。
……例の、……今から26年前のでね。奥さんと息子さんが行方不明になってしまって。
それからよ。厭世家っていうのかしら。顔を出さなくなって」
「あの頃は志村さんも、集まりに参加したり、良くやってくれたものだわ」
え、と驚き、怖いと言った口を閉じ合わせ、二人に言われて申し訳なさそうに目を泳がせた。
「そうだったんですか……。私、その時の事、よく知らなくて……。ごめんなさい、私……」
「まあ、お年寄りほど、あの時の事は話したがらないから、若い人が知らないのも仕方がないけどね。
もし、お屋敷の人達の耳に入ったらいけないし、良くない事を言う人もいるから」
「そうねぇ。でも、志村さんは悪い人ではないから、見かけたら親切にしてあげて頂戴ね」
「はい。……あの、良くない事って?」
ええ、まあ。
苦笑いをして取り持つと、志村老人の話題は、その場で途切れた。
知らないのなら知らぬほうがいい。これは悪意ない親切に違いなかった。この村で骨を埋めるのなら、知らないで居た方がずっといい。
それは潜在するウイルスに似ている。一度知ってしまえば、疑念の種として潜伏し、芽が出るかどうかは宿主次第。
言葉と態度が芽として出てしまえば最後、皆、気の毒そうにその人を見るだろう。触れる事も近づく事もない静かな冷遇。
誰も彼も、神代に睨まれるような事をしたのが悪かったのだと目を反らし、可哀想にと思いながらも自分への火の粉は払う。
あの26年前の災害は神代の行った秘祭の失敗が原因だ。
最初にそれを口にした人物が誰だったのか。
自分の胸に宿ってしまっているそれの謂れは、若者を諫められるくらい歳を取った村人にもわからず、
奥底にしまい込むべきだと、記憶の詮索すら気が咎める気がした。
▲父
背中に返されるものの不足を訴える複数の視線を感じながら、志村晃は山にある自宅へ戻り、
玄関から直ぐ左側の部屋で、担いでいた猟銃と手に持っていた小さなビニール袋を畳の上に下し、自分もそこへと座り込んだ。
自分の体が歳の割に頑丈に保ち続けているのは志村にとっては残された唯一の財産であると思った。
一人で生きていくには健康は不可欠であったし、ただでさえ村は交通手段が少ない。
足が萎えてしまえば、買い出しにも行けなくなってしまう。
しかし、いくら今はしっかりしている志村であっても、いつかはやってくるものはあるだろう。
そうなった時、自分はどうなるのか。どうすればいいのか。
沈黙し、目の前の猟銃に手を伸ばす。手入れ用の道具を出してきて、分解し、磨き上げていく。
ぽっかりと開いた目前の黒々とした不安も、長く鑑賞し続けていると、最初の頃のような若々しい拒否感よりも、
深い闇の中に何があるのか、老人の目はそれをじっと見つめて耐えうるようになる。
すると、現状も未来も過去も、老人の前では全てが平等だった。全てが煩わしい事柄である。
ほっといてくれ。
銃を組み立て終わると、その場を片付け、買ってきたビニール袋を開いて仏壇へと向かう。
中から饅頭を二つ取り出して供えると、祈る事はなく片付いた位牌のみの内側を覗いて、それからすぐにその場を後にした。
村の者達は志村が一人で生活出来なくなったら、きっとなにかと世話を焼くだろう。
近所の縁、同じ村に住む者としての縁、名前を知ってしまっているからこその最低限の縁。
そういうものが小さな村には重要であり、他人事として片づけてしまうには、誰もが明日は我が身だった。
返される恩はなかろうと、恩を売らずには自分が切り捨てられかねない。
その道理を志村は理解できる。出来てしまう。村で生まれ育ったからには、
ものを知らない子供の頃でも、いづれの時でもその恩恵を受けた覚えは根付いている。
それが、
唾棄するほどの憎しみで己の脳裏を焼くのだとしても。
強く目を閉じて、瞼の裏で何かが像を結ぶ前に目を開き、短い己の髪をかくと、志村はタンスの上へと寄る辺を求めるように手を伸ばした。
古い写真が幾つか飾られている中で、一つ、写真立てを持ち上げると、
ガラスの表面を撫でるようにして、付いていない埃を拭うような動作をする。
あの日から、志村の心は、ずっと宙に吊るされたままだ。
無くしたものを見つけていない。大切なものを奪っていっただろう奴らの所業に罪を問うこともできていない。
こんな気味の悪い奴らがいる村を捨てることも出来ていない。口を閉じていた自分を憎みきってやる事も、出来てはいない。
***
志村家は羽生蛇村に気の遠くなるほど昔に根ざして来た。
何故か一族の中に、勘の鋭い者が産まれやすいらしく、同時に何回も選択を迫られてきた。
村の歪みについて黙殺するか、騒ぎ立てるのかだ。
志村晃は一族の中で勘の鋭い者として生まれた。目を閉じていると時折、自分の居る所からでは見えない景色を見て、他人は気づかない異変に気付いた。
始めは己の気が変にでもなったかと思い、重病を抱え込むかのように健全な素振りを見せていたが、
その内、同い年の従兄弟も同じような幻聴や幻覚を見ると知れた。二人で秘密を寄せ合い囁くようになって、
従兄弟は村の歴史を調べているという郷土史家の若者を連れて来て、志村の家の歴史もそこで知れた。
若者本人とも気が合い、意気投合し、最初は夢想を紡ぐような、少しとうの経った男三人で未知への憧れを原動力にした研究を語らった。
その頃は志村にとって最も恵まれた時代だったと今にしたら思う。
妻が居て、幼い息子が居て、気の置けない親類が居て、友人が居た。
だが、それは一時の、人生の道の途中で行き会った関係に過ぎなかった、という事だろうか。
それから少し時が経つと、志村は互いがそれぞれ別の方向に向きつつあるのを否応がなく感じていた。
自分と同じものを見ていたはずの従兄弟は、だんだんと人相を変え、
罠で追い詰められた小動物がするように不安気に視線を彷徨わせていると思えば、他の村人を皮肉り、衝突の絶えない者になってしまっていた。
郷土史家の若者は結婚をし、産まれた息子を連れて遊びに来るのは前と同じだったが、
こちらは村の宗教である眞魚教に偏執し、神と呼ばれる存在や、村の有力者である神代家を尊んだ。
二人とは違い、志村は、ただ、単純に、平穏を望んでいた。
家族とこの村で静かに過ごしていく事が父として夫として最も重要な事であり、
従兄弟が言うような村の秘密も、名ばかりの神や神代も、生活からすれば遠く、無関係なものになってしまった。
幻聴や幻視も慣れればまたかと思うだけに済み、今だに神や神代だ陰謀だ、などと言っている二人に辟易とした思いを感じなかったと言えば嘘になる。
特に従兄弟は精神的にも不調を抱え「俺は気づいているんだ。騙されるものか」と口走って、
大真面目に瞳に敵意を浮かべては、近所で騒ぎ立てるようになって、その影響は、妻や息子にも及ぶ所となった。
そこで志村は従兄弟を窘めるべく、腰を据えて話し合いに、大字波羅宿の従兄弟の家へ向かったが、
結局、従兄弟とはそこで決定的に道を違える結果となったのだった。
後日、従兄弟は狂人と判断され、誰かが通報したらしく、病院へ収容された。
見送った志村は冷ややかだった。
従兄弟が狂っていたのか、それともただ一人真実を叫んでいたのか、その答えを志村はわざと曖昧にして、
自制心の足らない愚かな従兄弟の結末を目に焼き付けた。従兄弟に振り回され、年老いてやつれた叔父や叔母が、
病院へと引きずられながら罵声と泡を吐く息子を見て、今にも倒れそうな顔で柱にしがみ付いている姿。
ああはなるまい、そう志村は誓った。自分には家族がいる。愚かな従兄弟は恐怖のあまりそれを忘れてしまった。
苦々しい気分で自宅へ戻ると、騒ぎを聞きつけた息子の晃一が玄関まであと少しの距離も我慢できずに門まで駆け寄って来た。
玄関には不安げな妻が顔を覗かせていて、きっと噂を聞いて直ぐにでも、
家を飛び出して行ってしまいそうだった晃一を今の今まで何とか宥めていたのだろう。
「どうしよう父さん……! 貴文おじさんが連れて行かれてしまうって……!
貴文おじさんは狂ってなんかいない!そうだろう?
病院になんか行く必要ないって、今からでも、僕がおじさんを迎えに……」
「止めておけ」
理解できない事を言われたような顔をして、晃一が志村を見上げた。
晃一は貴文を慕っていた。男三人が自分にはわからない難しい会話をしているのに、
坊主頭でうんうんと頷いて見せる当時幼かった晃一を貴文はとても可愛がった。
それは神経衰弱に陥った後も煩わしいほど変わらず、貴文は晃一には優しかった。
「どうして?」
「お前に出来る事はない」
言い捨て、自分の父が従兄弟を見捨てたのだと理解して呆然としている息子の腕を掴んで無理やり家の中へと閉じ込めた。
ここで親類が言い縋れば、他にどんな累が及ぶかわからない。
我に返った晃一が言うことは全て退け、志村はこれがきっと一番正しいのだと自分を納得させた。
晃一に害が及ぶのは、きっとお前も望まないことだろう。
心のなかで、見捨てた従兄弟に最後に告げた。
***
それが一番正しいと、志村は選んだ。
しかし、待っていたのは、全てを失う末路だった。
村の歪みに気づいていながら、目と耳を塞ぎ、口を閉じて、普通の村人然としているだけで家族と自分を守り切っているつもりだった。
だが、それだけでは足りなかった。村の秘祭を告げられ外出を禁じる知らせが出ていた夜、襲ったのは土砂と、
神代や教会が主催を務める秘祭が失敗し、罰が下ったというまことしやかな噂だった。
そこで直ぐに憤怒に駆り立てられて全てを台無しにする度量を持てれば良かったのだろうが、志村は逆にますます口を噤んだ。
直後から数年、まだ見つからない家族と友人と親類が戻ってくる希望を捨てきれなかった。
そして、20年以上経った今は、ただ、この村全体の墓守のような気分で、
自分の生命が潰えた時は、失った彼等と同じ場所で眠れればいい、と願っている。
自分が無害で、無実であると証明するためだけに振りまく愚かな愛想だけは捨てて、静かにその時を待つ。
ほうっておいてくれればいい。
従兄弟が話し合いの時に言っていて、志村が最後まで頷いて認めてやらなかった、
“歳の取らない、名前を変えて何度も現れる、しかし誰にも疑問に思われない女”。
日々、必死に見ないふりをしていたそれに鋭く詰るように告げ、恐れて目を反らす志村に、
「お前も他の村人と同じように馬鹿の振りをするのか」と従兄弟は叫びつけ、
「俺は狂ってなんかいない!狂ってなんかいない!どうしてわからない!
狂ってるのはあの女だ!狂ってるのはお前らだ!この村そのものが狂ってるんだ!」
頭を掻きむしりながら気が触れた者さながら、見るのも絶えず背を向けた者へ絶叫し、貴文は蹲って、自分の正気を嘆いた。
両親も信じてくれない。村の誰も、貴文に同意しない。狂気があるのはいつも貴文の方だった。
その従兄弟に志村は「そうだとしても村の有力者には干渉しないほうがいい。干渉しなければ普通に暮らして行ける」と、
言って慰めたつもりだった。顔を抱え込んだ指の間から白々とした光が灯って、それが極限まで見開いた目玉の白目であり、
光を際立たせるのは絶望に染まった黒い瞳だった。
「そんなわけあるものか! あの女は歪みの源だ!
永遠に生きる女! 終わりのない歪みの!
あの女が居る限り、この村は歪み続ける! この村は終わりだ! 皆死ぬんだ!
死にたくないなら、逃げ出すか、あの女を……あの女……あ、あああ……」
みはられている!
そう叫んで、後ずさると、手当たり次第、物を掴んでは志村に投げつけた。叫んで、半狂乱になる。
志村はゾッとした。貴文にはもう志村が見えていなかった。そのまま部屋を出て、そして、別れた。
―――今ならば、きっとアイツに頷いてやれただろうに。
村がどうなろうともはやどうでもいい。自分の命も同じように尊いとは思えなかった。
だから、志村は“あの女”に無言の伝言を送り続けた。息絶えるまで、鎮魂の邪魔はしないでくれ。
志村の生活は閉じている。自分のすり減っていく命を前に老人は石のように座り込んでいた。
写真立てを元の位置に戻し、志村は止められなかった過去の回想に湿った息を吐いた。
代りに湯呑に手を伸ばそうと机の方を振り向くと、視界に違和感を感じた。
少し開いた障子は、朝のまま。障子の隙間の向こう、窓、そこから見える景色に影のようなものを見つけて、
志村は静かに踏み寄った。それを見つけて殺し切れなかった憤りが喉をつく。
玄関の前、黒衣を被らされた白い着物の子供が行き場無く立ち竦んでいる。
頼むからほっといてくれ。
志村はこちらに気づいているとも知れない顔の見えないその子供に断って拒絶した。
今までも買い出しの途中に何度か遭遇し、声を掛けられた。無視はしなかったが、話を聞く気もなかった。
自分が居る場所に狙って現れているようだったので、「猟が始まったら山の中はうろつくな」と、
一方的に言い放って志村は背を向けてきた。
神代の否子(いらず)。神代の子供。神代から見捨てられた子。
その全てはばらばらで、志村にとって静かな心を乱す者のほかない。
志村は隠す気もなく、障子を音を立てて全てを締め切った。
従兄弟の貴文と息子の晃一は主に羽生蛇村異聞の登場人物です。
郷土史家の若者は多聞先生のお父さん(志村さんと大体10歳差)。それぞれの関係性は捏造。
美浜との会話や、安野を残して「逃げ出すとするか」を決行してしまう、自分の命や回りへの無関心さは、
守るものを失った志村の人生の物悲しさを感じます。
欧州版サイレンの公式サイトで志村の考察があったらしいんですが、今はちょっと見つからなかったです。残念。
この章は、書くのも辛いんですが、読むのも胸糞悪くなるような所が続きます。羽生蛇村の罪と罰です。
フィクションと二次創作、捏造を念頭にお願いします。本当に、お願いします。
イエリコの角笛では話の都合上、こういう設定にして書きますが、短編や他の話ではその通りではありません。
sirenという作品から、こういう考え方も出来るんじゃないか?という一例でしかありません。よろしくお願いします。