▲触穢
……。
きしきしと縄の音が耳に響いていた。
強い衝撃を受け、はっきりしない意識のなかに自問をする。
―――何を。
答えを出す前にふつり、と思考が途切れた。
頭上から黒い影が落ちる。夜の部屋。つる下がり傘もなく点った裸電球の作り出す陰が、ふつり、ふつり、視界が暗く、明るく、暗く……。
あれの光が思考を途切れさせている。そう気がつく。途切れされるから深く沈んでいけないのだろう。
顔を覆ってしまえば……。しかし、凍えた体は重く、容易には動けそうもない。
何故、こんな寒いところに居なければならなかった。首だけ動かそうと試みるとギクリと体が拒否をした。
そこで少年は駄目なのだと気づいた。
それら全てしてはならないのだ。恐れがじわじわと上がってきた。
視線を釘付けにして置かなければ、見えてしまう。
見たくない。見たくない。見たくない。
見たくはない。
だから、堪えて体を硬直させておかなければならない。
そうすることで全ての災難からやり過ごすことができると盲信して思うことにする。
ただ、臭いは誤魔化せなかった。動かない体にも這ってやってくる。そこにいる限り免れることはない。
震えが始まってしまう。柔らかいもののように装い、包み込む。もう出られない。絶望が駆ける。
死が血を巡る。死が血を巡る。死が血を巡る。
狭い奥でぶつぶつと男が何かを言っているのが聞こえていた。
内容の理解はしなかった。掻き回された脳は鈍い。
ふつり、ふつり、揺れるそれを見ないように、遠くに倒れた木の丸椅子を見つめながら、その呟きをぼんやりと聞いていた。
【死の受容のプロセス】
エリザベス・キューブラー=ロスが提唱した、人が死を受容するまでの経過を5段階に分類したもの。
第一段階:否認
第二段階:怒り
第三段階:取引
第四段階:抑鬱
第五段階:受容
▲死骸
「重要な事は、行動できる屍人は、人間だった頃と比べて思考能力が低下しているという事です」
夏の終わりから、神の加護とは真逆の能力を持ち、幻視が利かなくなるという範囲だと言って夕飯時に正面に腰を掛けるようになった昼子が食事の手を止めて言った。
相変わらず淀み無く言葉を吐き出しながら、反面、その表情が黒衣を取ってしまうとありありと良く分かった。
何故、あくる日の美耶子が頑なに“宮田の眼”を指定したのか知りえることになった宮田は、その不思議な目を追いながら、
自らが直前尋ね、予知に対して身を入れて聴くことになった最初の理由、“屍人”という化け物について、食事をする素振りを続けて聞いていた。
「屍人は生前行っていた習慣とパターンにはめられた行動を繰り返していて、記憶力もほぼ無いに等しい。
ただし、人間を発見した場合、追って攻撃を加える、叫び仲間を呼ぶ。こういう行動が基本です。
これのほかに特殊に例外的な行動を行う場合もありますが、
避ける、戦うという点に置いて不利になるものではないと思っています」
人間を発見した後、逃げる、もしくは知性を取り戻して話掛ける、という行動。
後者と相対してしまった場合、知性を一時的に取り戻すことができたといっても、
一度、屍人となってしまった人は人間に戻るという事はない。
神代の血も、一度なってしまった状態を戻す事まではできず、その時会話出来てもいづれ再び人を襲い始める。
もはや、目から血を流していることを確認したら倒すか、やり過ごすしかない。
そして、神の血が人の体内に入ることで手に入れる“幻視”の力。
当然、同じく神の血が影響した存在である屍人にも備わっている力ではあるが、
屍人はその力を有しても利用することはない。人からすれば屍人の視界を一方的に知ることができ、
姿が見えない相手でも場所を掴むヒントになる―――
「―――この辺りが、不死である化け物と戦う人間が有利であるという点ですね。
代わって不利な点をあげるとすれば、まず、異界の屍人はそれぞれ武器を予め手にしている、という事」
「武器?」
小鉢の取り箸に持ちかえながら言った昼子に宮田は聞き返した。こくりと頷いた。
武器。意外に思って宮田は気づく、思考能力の無くなった化け物達は、自然と動物のように噛みついてくるか、
爪を食い込ませてくるものと無意識に思っていた。地下にいるアレの歯や爪は十分に鋭かった印象が強い。
「生前行っていた習慣を繰り返すというところからの縁からなのか、
だいたいその人が日常使ったことのある物を武器とします。
畑仕事なら農具、料理をする包丁、猟師だったら猟銃。
…日常使っていた物のなかでもその殆どに殺傷能力があるのは“人を襲う”という行動のために
選んではいるのかもしれませんが。とにかく、屍人は武器を有している。
加えて、赤い水の大元に当たる堕辰子のために行う行動があり、その為に金槌を手にしている屍人もいます。
人から屍人へと変わって得た本能であり“神”を陽光から守るという行動です」
これは以前言った、“引きずり出したところで陽光にあて弱らせる”という
堕辰子を倒す方法があったと思います。と、確認を取る。
「堕辰子は死にはしませんが太陽の光に弱い。
働き蜂が女王蜂に尽くすように、屍人達も堕辰子を敬い、陽光から守ろうとする。
廃材や、どこからか持ち寄った木材を使い金槌で打ち付けて各家の窓や出入り口を塞ぐのです」
宮田は首を傾げた。
「何故、家の窓を?それがどうして堕辰子を守ることに繋がるのです?
以前聞いたことなら、堕辰子は儀式を済まさなければ現れない、と」
「そうです。けれど、肉片を取り戻した時に出現する場所は決まっている。
堕辰子が最初に現れ、そして陽光によって瀕死となり身を横倒らせた場所。
秘祭を行う現場。深層の異界への位置口。
“村の中心部の眞魚岩付近”。
そして、屍人達はここ周辺を重点的に覆い隠そうと三日間のなかで
複雑に入り組んだ陽が入らない巣を作る。……のですが、それにしては、
眞魚岩から離れた関係のない場所の家や、学校や店舗にも陽光対策をとるようです」
これは、私の推測になってしまうんですが、と昼子は言う。
「恐らく、屍人にとって堕辰子は自らを生み出した“神”であり“母”でもあります。
その本能的な敬いの心が眞魚教の信仰心と結びつき、
それぞれの家にある仏壇の神の偶像を堕辰子になぞらえ、
それを守るためにそういった行動をするのではないでしょうか?
実際に、崇める対象の正体は民話で語られた結局のところ堕辰子になりますし。
そして、偶像のない信仰する神様のいない建物の窓を塞ぐのは……
―――言わば、“幻視”という力はある種の感覚の共有、に、なりますよね?」
「まぁ」
言いながら、ああそうか、と宮田は考え至った。
神代に住む盲目の少女が持つ力。医学では説明しきれないその能力は他人の視界を自分の物にして、
離れた場所の景色を見て、音を聞く。まるで、視界の持ち主に自分が成ったかのような能力。
昼子は考え込むかのように視線が下に向き、じっと取り皿に取った煮物を見て考えが纏まると口を開いた。
「重ねて推測です。
堕辰子の血は実態的にアメーバのような存在なのではないでしょうか」
小さな細胞一つで生を持ち、群となって、液体になっている。
肉体から出た血が他種の生き物の体内に侵入し、その生き物の体液を押し出す作用を考えると、
生き物の体内で、ある一定の数が揃うと増殖するような性質であり、
侵入した生き物を自分の性質に変えながら乗っ取り、最終的に吸収してしまう。
血は本体から発信される信号か何かを感知していて、その通りに乗っ取った体を操作している。
血によって操られる屍人は堕辰子にとっての腕であり足であり、耳や、“目”であり、
だから、血を体内に含んだ存在は“幻視”という形で他の人の視界を覗くことができる。
同じ堕辰子の体の一部であるから。
「……けれど、手足である彼らに個人の思考能力は無く、
本能によって行動した最初の一つの固体の情報の信号が伝達することで
“窓を塞ぐ”という単純な命令に従っている。と、いう風だと私は思うのですが」
「陽の光がある、ということはその場所にも朝や昼があるのでしょう?
単純に窓を塞ぐのは血によって生まれる屍人も陽光が苦手であるから、
なるべく陽から身を守ろうとするからでは?」
「いえ、そんなことはありません。昼でも屍人は普通に行動をしている」
「……そうだとして……。つまり結局、幻視が出来てしまっている時点でその人間は既に神の一部になる。
じゃあやはり遅い。儀式が失敗した時点でお終いだ。
それに、その正体が貴女の言うような性質を持っているというのなら、
異世界に満ちているという赤い水はどうします。完全に滅ぼすなどできるのですか?」
「でも、個人の意識がある時点ではまだ成りかかっているに過ぎない、と思うんです。
血の侵入も、村に住んでいる限り、水脈である赤い水の漏れ出ている眞魚川の水をほぼ毎日飲んでいる。
それに直系は神代であり、生贄の意味を持つのも神代だけですが、
神代以外に枝分かれた“彼女”の血筋もある。幻視はできなくても、もう既に、村の中に蔓延している」
聞いていて宮田は顔を顰めた。
「……気分の悪い話だ。
幻視を使える美耶子様が村人の目を借りれるという事が、ですか。
しかし、だったら、貴女はどうなります?
幻視を防ぐと言うそれは、赤い水が体にまったく入っていないということになるのでは?」
「……逆に、だからこそ、神の肉片の何らかが作用しているんだと私は思っています。
だって、私が神代の生まれなのはこの姿からしても事実であるし、村の水だって飲んでいる。
影響がないはずがない。幻視が作用しないのだって、私の目だけというわけでなく、
半径120pの範囲に影響を及ぼすという実験結果がありました。
私にも堕辰子の何かがあって、都合良く、そういう効果が作用しているにすぎない」
「なるほど」
「よって、神代でない村人であるのなら、幻視が出来てもそれ以上進行しないように気をつけることが重要です。
一定の量を揃えて体内で増殖し始める辺りが恐らく引き返せないタイムリミットなのでしょう。
……それから、滅ぼすことが難しいということも、まだ無い、と思う」
「何故?」
「そんな例外な力のある不死であるはずの堕辰子が、
千年経っても自己修復しなかったのは何故か?という事です。
少なくとも残った体を異界に移動するだけの力はあったはず。けれど、そこで回復はしていない。
それは、何故か?
思うに堕辰子は自らの肉を増やすことは出来ないのではないかと思うのです。
人間で言うところの新陳代謝がない。」
「良く、分からない」
困惑して言うと、昼子も困ったような顔をして答える。
食べ物を摂取し、エネルギーに変換し、身体構成物質へと変換する生物の基本構造を行わないモノ。
少なくとも人間と同じく肉や血という物質は存在しているのに、そんな根本的なところから乖離しているらしい。
なるほど、“神”と言われるだけあるものだ。
「言って正しいのか私にも分からないのですが……けれど、こうしか考えられない。
かつての肉片を体に宿している神代の花嫁を得て回復を図っていることからしても、
堕辰子は自分の怪我を自分で治癒することができない。
完全無欠な存在であるのなら、逃げ込んだ陽の差し込まない深層で、
さっさと自己修復すれば早いはずでしょう?
―――自ら増殖し、別の生き物を乗っ取ってその肉体を自由に改造する血と相反して、
自らの肉を増やす術がない。そして、肉を食べた女が奇妙な力を自在に使って村に溶け込み、
花嫁が自我を保って幻視を行って異界でも屍人に成らないことからしても、
“肉片”の方に力や支配権のようなものがあるのではないでしょうか?
肉片を持つ堕辰子本体をどうにかすることで血である赤い水のコントロールは失われ、
無力化し、同時に異世界を保っている力も消失する。
異界は消え、溜まっていた赤い水は分散し、結果、無害なほど薄まる」
言い切って、少女は長年沈黙していた分の息を吐くと、軽く唇を噛んだ。
その煮え切らない歯がゆさの通りに、「推測ばかりだ」と宮田は零してやった。
昼子も分かっている。しかし、試し様が彼女にはない。
「とりあえず、推測からは切り離すことにしましょう。
貴方がどれだけ事実を知っていてその内、真実がどれほどあるのか私には判断がつきません。
確かな事実として屍人と言う動く死骸がある。
……なるほど、物証として病院の地下に本当にそれらしき存在がいる。
それだけは確かだと言って置きます。私もそれなら確認ができる。
いくつか、気になった部分があります。それを訊いてもよろしいですか?」
頷き、ようやくへたへたと食事に手をつけ始めた昼子に暫く宮田は考えを巡らせ、まず、と前置いた。
読みにくかったのでちょっと変更(2013/10/23)
さらに二つ分け(2014/01/26)