▲孵化



2000年。

牧野は教会の眞魚字架の前に膝をついていた。
床張りの木は石のように冷たく、膝からその気配が痺れのようにせりあがってくる。 気候はそれほどといって寒くはないものだから、ついこの前まで見逃していたが、 そういえば、もうかける布団を手放したくなるようなことはもうなかった。 季節は順調に廻っているのだろうとわかる。頭の片隅で留まりもしない時間の砂を手繰る振りをして、 真実、考えるのは以前のことばかりだった。

黙り込んだまま祈りの姿勢を続ける牧野には誤魔化しきれない閉塞感が募っている。
頭のなかにいつもあった極薄い漂うような不安と違和感がここ最近では煮詰まり鉛のようにどろりとしたものへと変わりつつあった。 その正体がなんなのかすでに牧野は知っていた。これは眞魚字架の前で手を合わせるのを一瞬阻むものの正体だ。しかし、分かっているからといって、八尾や村人がこの教会を大事にしてくれていることは明らかだったし、救導師の牧野が祈りをあげないわけにはいかなかった。

降り積もるものを無視して日々は変わらず過ぎて行き、村や牧野は信仰を続けている。 休日になれば手を合わせ祝詞を唱えるのは生活のサイクルだ。けれど中身はどうだったであろうと考えると、冒涜だと身を竦ませる。祝いの言葉を吐く口と、子供の頃必死に暗記した言葉をただ思い起こすだけの頭のどこに神への愛があるというのだろうか。ただ、自分の背後で自分とは違って純粋に見える祈りを捧げている村人と、きっと自分の背を見守っている救導女の手前、祝詞を止めて「もう自分は変質してしまった。違うのだ」と告白して落胆されるのが恐ろしい。そう、祈る意味などもうただそれだけに思えた。
そして、これが牧野の不安の根源であり違和感の正体。救導師の博愛とは真逆の自愛のために作り上げた自らの“役割”だ。 他者への諂いの為に膝を折り、敬っていることを自覚していたから、祈りの最中は祝詞を唱えながら誰よりも懐疑と畏れと後ろめたさで満たされる。自分が穢れたおぞましい生き物のような気がする。後悔をする。生まれ出でてはならなかったのだと。

牧野はぐっと組んだ手に力を入れて、観念してゆっくりと目を開いて眞魚字架を見た。

そうでしょう?

問いかけても、神の象徴だという奇妙な形の金属は静かにそこにあるだけで、やはり一言も牧野に言葉をかけてはくれない。

―――結局このようにしても、罰という罰は訪れていない。

自分の安否を確かめては息を吐く。その息は、牧野自身が他人に恐れてやまない落胆のため息の音をしていた。祈りの姿から組んだ手を解放するとき、安堵が生まれ、胸に詰まっていたものの一つが息と一緒に消えている。その度にぼんやりと父の姿を思い起こす。無くなったものは父に繰り返し言い詰め込んだ誓いに違いない、と思う。

―――「はい!立派な救導師になります!」
父さん。

痛みが胸の真ん中を貫いていった。
神という存在を疑っていながら、神に問いかける。矛盾するその行為は牧野の心中そのままの姿なのだった。 神を信仰したが儀式を失敗し、何もなくなってしまって弁解の機会もなく 責任に押しつぶされて自ら命を絶ったその彼は、真面目で、儀式の失敗からか自らを父とする自信すらなかったが、善き人間であろうと生きていた、と思う。そして、彼は、慶と名づけた親類でもなかった子供に少なくともちゃんと優しさを持って接してくださったのは事実だ。

これは裏切りの痛みだ。

最期に神と離反した父だったが、それまでは実直に生きてきた。そして、何の罪も犯さなかったはずなのに 不意に神が悪戯に起こした越え難い酷い試練のせいで烙印を押された。それまでは村人に慕われ、神を崇拝できる正しい救導師だったろうと牧野は思うからこそ、その彼に育てられていづれ儀式に臨むというのに、父の自殺は別にしても、神を信じることができないことに罪悪感が沸き起こる。 こんな後継ぎを残して逝ってしまった父を哀れに思う。 そして―――牧野は思った。

―――神様にもない義務をどうして人間が負わなければならないのです。

彼女がそう言ったとき、「ああ、やっぱり」と思った。 思ってしまった。 自分への慰みかと思いながら、同時に父を思った。 “その責任は、貴方のものではない”その言葉を生前の父にもし誰かが伝えられていたとしたら。それがもし、自分であったなら。不信心と落胆するのだろうか、痛ましいものを見るようにしてささくれた棘をまつろわせる為に肩を掴んでくるだろうか。いつか“自らが死を選ぶ”という形で訪れるだろう神への離反をあらかじめ口にした子供に対してうろたえながら。それでも、今、父がここにいないことが、辛い。そう感じるくらいには、口を開いた“もしも”のその先に期待をしている。

「自責……か」

盲目に神を信仰するだけでは神に裏切られていた父は生きれなかった。 少年が愛した家族のような些細なやり取りだけでは烙印を付けられ救導師として生きてきた父は救われなかった。 そうして、置き去りに現世にいる牧野は思わずにはいられない。黄泉というものがあるのなら、もしくは魂というものがあるのなら、自分がちゃんと救導師としての役目をこなすことで、救われなかった父の慰めに、あるいは“救い”そのものになってくれるんではないか?そして、それが牧野の責務であると。


掛けられない絶対の声を渇望している。
無機物に宿って奉られる神に。土葬され形を失ったであろう父に。あるいは凍てつく瞳を向けるだけの自らの“片割れ”にも。 自らから発生して糾弾する自責に駆り立てられ、神を疑いながら救導師を行う罪。罪に駆り立てられていた父に気づけず逝かせてしまった罪。片割れに目を瞑り続けてきた罪。誰もその罪を牧野に授けてはいない。誰もが黙している。その中で罪悪に息を荒げる。償いの機会を待ちわびている。罰を待ちわびている。そして全ての罪を清算し終わった真実救済の瞬間を、待ちわびる。
全ての罪を洗い流し、楽園へといたる日を。

―――けれど、どうやって?

そんな完璧な救いはどういう形でやってくる。

―――自責を奉り、苦しみを捧げ、救済を望んでも、
       自分を責めるのは自分なのだから、救いなんて降りて来るはずがない。


そう言う少女は自らでもって自らを救えたりているのか。

次に訪れた静寂のなかで自然と手を合わせていた。 そこにはなんの懐疑もないが、何に向かって祈っているという意識もなかった。 ただ、強く、強く、牧野は時間も忘れて手を合わせていた。



***



村は夕闇に呑まれていく。昼子はそれを窓から静かに眺めていた。

異界について口を割った日から今のところ、信じられないくらいそれほど大きく変わることのない生活を続けていけていた。昼子は相変わらず変わり映えせずに村を回って会話を試みて計画の確認をして、宮田は病院に勤めて職務を全うしている。神代は沈黙を続け、静かな日々が続いていた。秋の気配が深まる今、急激な変化はない。解放の瞬間も、絶望の瞬間も、まだ。―――それでも、胸のなかに安堵が宿っていた。
異界について話したと同時に喉に詰まっていたものも吐き出してしまったみたいに息が楽だった。 そうなって初めてあの晩まで呼吸苛めていた苛烈な不安の正体を思い知る。

宮田に本当の目的がなんであるか看破され、自らを覗いて嫌悪し、今になって鑑みてみるとあるのはシックリとした納得だ。姿が変わって名前が変わっても、やっぱり自分は自分である。一つ終わったと思い、その先で再び瞼が開いた時、そこに己という意識がある限り、別の人生などではない。あるのは“続き”だ。 そして、己という人間の真ん中には“穏やかな死への憧れ”がずっと居座り続けていて、神代という不死の肉を纏っていた。それを認める。すると、やはり散々歩いた揚句に最初の場所へと出てきた気分になる。逃げ場がない。けれど、同時に慣れ親しんだ場所だと気がついた。“良かった”と、思う。“ここはよく知っている”気づけないままいるよりはずっと良い。 自分の願いの正体が何であるか分かった。すると掠めていた逃亡の意思は完全になくなっていた。決して繰り返してはいけない。

そして、心境だけではなかった。ずっと懸念だった異界へ持っていく持ち物の件が解決しそうな見込みがある。 神代から生活費を預かっているとしてその後宮田は必要なものを用意する旨にとりあえずは頷いてくれた。基本的に高価なものではないから恐らく用意はできるはず。それに伝手が決まれば、もう少し無いものねだりに物に頼った作戦を作ることができた。竹内多門のように銃を購入するというのは無理だが、屍人相手なら安物の音の鳴るタイマー一つでもあれば、 鳴る音に引きつけて屍人から身を隠すことだってできる。戦うことよりも身を隠して守る方法のほうがずっと想像しやすかった。その為には色々道具が必要になるのだから、まるでマッチポンプだったのだけれど、ようやく光明見えてきたところだ。

けれど、忘れてはいけないのが当然として、宮田に事情を話したということで起こりうるかもしれない事態がどういうものかということだ。 まず、宮田の真意はまだ測り終えていないということ。 異界の話を当主にしなかったということは黒幕の接触がないことから恐らく本当だろうとは思われる。こちらを探るために今は泳がせておくという判断を“彼女”がしたとするには昼子のした話はこの村には危険すぎるからだ。けれど、“彼女”ではなく宮田自身が判断して昼子を泳がせているという可能性は大いにある。……可能性というよりも確定的にそうだろうと思われる 宮田は昼子の話の真偽が判明する刻限と否子の価値が費える刻限は、同時か、嘘とわかる瞬間のほうが早いということをわかっている。真偽を確かめたい宮田からすれば、否子の言う来年を役目をこなしながら待っていればいい。何も起こらなければ異界は“嘘”になり、8月3日を待たずして美耶子が花嫁になれば否子は天戸へと送りだされる。もし、8月3日に予言どおりに村が異界に呑まれれば、ようやく宮田のなかで昼子の話は本当になるのだ。

宮田は異界ことを信じるにも嘘だとするにも、どちらにも振り切れないものがあることに賭けて昼子は異界の話をした。よしんば直ぐに全てを信じてくれるとも思わなかったが、それでも、やはり村にいる誰よりも異界を信じやすいと踏んだぎりぎりの賭けだった。そして今、なんとか昼子の人としての命を繋ぎ、落ち着いているように見える。その代わりの代償といえば、夢のなかで宮田に声をかける者の正体についてや、屍人の生態、宮田は異界のことについて昼子に聞かずにはいられないということだろう。昼子も宮田の信用を得るためにいくつか知識の提供をすることになる。それは、同時に、自分の他に情報の戸口を作ることを意味する。神代に正気を疑われるのは困ると宮田は言ったが、真実を口にしている立場の昼子にとってみれば、まるでいつ底の抜けるのかわからない盥に水を入れ続けるようなものだ。宮田が一言でも当主に何か断片的なことでさえ呟いたりするものなら―――昼子は真っ逆さまに歴代の神代の血肉に塗れることになる。

加えて、 宮田が来年の8月3日までの期間に危惧するだろうことと言えば、否子が美耶子を見捨て、村の外に逃げおおせて姿を消し、役割を全うできずに神代に咎められることだ。前に昼子が用意したいとしている懐中電灯や水や食料によって連想する事情が良いものではないとした。その疑いを晴らす為に用意してもらう物は儀式の日取りギリギリかいっそのこと宮田に持っていてもらおうかと昼子は考えてみる。しかし、不思議なのがそれを宣言する前の今でさえ、泳がせるにしたって、用意された部屋に鍵が付けられる気配も隔離病棟に移される様子もなかった。不気味に思いはするにしろ、宮田に問うのも藪蛇なのではと勘繰ってしまって足踏み状態だ。

そして、これらは計画を今まで通り進めるにあたっての進んだ事情である。

昼子は不安の正体を知った。

何故、計画を見直す度に「駄目だ!きっと駄目だ!」と上がる叫び声があったのか。
何故なら、この計画の真意は美耶子を助けるためではなく、昼子が“安寧の死”を実現するための計画だったから。全てを皆殺しにする為の計画。それに生贄の少女の救いを見出した振りをして被せたにすぎない。―――村も、村人も、異界を彷徨う人間も、不老不死の女も、美耶子も、誰も、何も、起きなければそれがきっと一番良いこと―――それは分かる。けれどそんな方法などない、と昼子は思う。

儀式の前に“彼女”が自ら身を捧げてくれさえすれば。堕辰子を滅ぼせれば。そうして、残りの神代の人々の体に含まれる堕辰子の肉片が力を失えれば。もしも、そんな計画を思いつければ。―――ようやく一歩進んだ今の計画に疑問を持ってしまう。そして、この計画が昼子のものであったなら、美耶子にとっての本当の救いは何なのだろうか?

生贄の役目から解放され、村人の屍の上に築かれた自らが決める寿命と不死を殺す炎に焼かれるまでの延長された将来を過ごすことが本当に望むことなのか。美耶子の幼い怒りは本物だと思う。村人と神代と神への憎しみ。そこから発生する村への殺意。しかし、遂行したその後、大人になった美耶子はどんな一生を送るのだろう。汚れた村を滅ぼして故郷を失い、汚れた血を抱えてさ迷う。それが二人なのか、一人なのか、それとももっと多くの人数なのかわからないにしても、しがらみは形を変え存在し続けている。生贄になるよりかはマシだっただろうと、あとは好きにすればいいとでも言うのか。そして、それは結局、昼子が目指して言った役割を無くすことが出来たと言えるんだろうか。

「……ごめんね」

呟いて、昼子が暗い窓ガラスに額を押しつけると昼間の温もりをまだ感じた。

美耶子に会いたい。



***



「お帰りなさい」


窓硝子越しに見えたライトの光を確認して昼子は握っていたカーテンを引きなおし、部屋を出た。 用意されている夕食を電子レンジに順番に突っ込んで暖める。一食分を仕掛けてから、踵を返し、玄関の電気を付けに向かって言った。 返答は未だなく、冷たい、けれど相変わらず戸惑ったような視線を受ける。

「……食事は?」

「これからです」

白衣をハンガーにかけている宮田を置いて温め終わっていた電子レンジのほうへと向かっていく。夕食を机に並べ、残りをレンジに突っ込み、宮田が席に着くのを待つ。ウーと唸ってオレンジ色に照らされて回転する夕食を眺め、終わったら並べ、それからどちらともなく食事を開始した。そして、ポツリポツリと会話をする。医師としての生活、否子としての生活で合わさるのは食事の時間しかなく、それぞれ別の部屋でとっていた食事はこんな風に変わっていた。 宮田が一人で座って使っていた四人掛けの重そうな光沢のあるテーブルの長さは横に120p、向かい縦に90p、向かい合えば昼子の幻視を防ぐ範囲に入る。話題は、異界についてだ。

この食事中の会話が始まってからまず話したのは“彼女”の幻視の力と、120p範囲の安全地帯についてであり、宮田はこれにとりあえずは頷いた。 快活に諒解されたようには見えなかったが、それでもこの閉鎖された空間でのみ、近寄って異界について話す理由を事前に知って貰えれば良かった。 昼子は話が外に漏れる事、宮田は狂気を疑われる事、わざわざお互いに危険な橋なんて渡りたくないのだ。







▲卵殻




「こんにちわ」

鈴の音が近くへとやってきた時、よどみない動作で立ち上がり、顔を隠した少女にむかって牧野は曖昧に微笑んだ。 慣れた動作だった。この村への外聞をはばかる面会はひっそりと続けられていた。最初「貴方と話しがしたかった」と、そう言って帰っていった昼子だったが、会話をして用がすんでしまったのかと思えば次の日にも教会へと訪れて、そして、数年もそんなことが続いていた。

牧野に迎えられた昼子は、その場で立ち止まって「こんにちわ」と返す。 そうして、まず昼子が近くのベンチへと座り牧野も続いて少し空間を開けて隣に座った。 昼子は牧野が座ったのを確認して、他愛無い話をし始める。

「最近は、ようやく涼しくなってきましたね」

「そうですね」

背丈ももうずいぶん伸びて、時折はっとするほど大人へと近づいたというのに、受け答えの感覚は彼女が幼かったはずの当時と変わらなかった。むしろ、小さい頃よりも似合った風だった。それを不思議に思うことはすれど、訊く必要性は牧野にはないような気がした。 昼子という少女はそういう子であり、彼女のなかにだけは変わらない時間が流れている。それに触れるとき心が落ち着いた。15歳の頃、制服を脱いで死ななくてはいけなかった心が牧野の中に影として存在している。その魂がもはや無い居場所を求めて伸びた手足に痛みを抱きながら徘徊しつづけるなかで、 同じように、動かない時間を抱えているような昼子に身を寄せている。そんなような気がする。 もっとも、そう思えるようになったのは昼子の訪問が始まって最初の一年が過ぎて、その一年の季節を十分に話きった後のことだ。それまでは掟を破ることに対する怖れと、少女の容赦ない話は息苦しさしかなかった。

しかし、暑いだの、寒いだの、天気がどうの、どの家の花が咲いただの、という村の誰とでもする話題に次第に変化していってからというものの息苦しさは消えた。気づけば残った恐れもどこへと行ったのか姿を隠した。もしかしたら、掟を破る恐れは、年端もいかない少女に居ない役をさせ、ただの普通の話題の声を無視し続けなければならないという罪悪感に打ち消されたのかもしれなかった。けれども、そうなると可笑しいのは、昼子が普通の他愛ない話をする度に安堵する面と落胆する面が牧野のなかに確かにあるということだ。それは、懐疑を持ちながら祈る牧野に罰をくださない神に対するものを小さく切り取ってきたかのように同じく心のなかで疼いては、昼子の話題に乗りながらも次に少女がなんて口にするかと待っている。

「夏が長引いて参ってしまいそうでしたから、やっと助かりました」

「ああ、そうですね。着物は」

「帯の下はどうしても汗をかきます。それに黒衣も」

「黒は光を集めるそうです。昼子様の黒衣もやっぱり熱くなりますか」

「もの、すごく」

うんうんとあまりに言葉を強めていうものだから、牧野は笑ってしまった。
昼子は笑う牧野に熱い黒衣を揺らしながら返す。

「でも、それを言うなら、貴方のほうがもっと暑いでしょう?」

示されて牧野は曖昧に頷いた。

「そう、ですね。夏物でも型は変わらないものだから…」

口にして根強く反応する己の上面な信仰心に苦く笑った。
身にまとった黒一色のキャソックの裾を撫でているとこちらを向いている昼子が何も言わずに牧野の顔を窺っている。意図が分からず撫でる手を止めて首をかしげると、佇まいを正した昼子が改めておずおず訊いてきた。

「それ、夏物とか冬物とかあるんですか?」

「あ、あります! さすがに調節しないと倒れます!」

昼子は布に隠れて笑っていた。
珍しくからかうような調子を滲ませていて、牧野は瞬きを多くした。

「どう変わるんですか?」

「布の種類とか…だと思いますよ。冬はモコモコした感じので、夏はサラッとした薄いのに」

頷いた昼子は残っていた笑いを引っ込めて、ふと辺りを見渡している。そうする時、牧野は自然と出口に視線を向けてみる。白い犬の姿はまだない。 昼子は言わないし尋ねたこともないが、ここへと単身やってくるケルブの役割は神代から帰ってくる八尾への接触を 避ける為のものだろうと慣れた牧野はなんとなく察していた。毎回、ケルブがやってきて昼子がどこかへと行き、すぐ八尾が帰ってくる。なぜわざわざこんなことをするのか。それは八尾が、牧野や昼子と違って熱心な神の信者だからなのだろう、と勝手に思っている。そして、八尾を避け牧野のもとへやってくるということは昼子が牧野の神への不信を知っているということだ。 あの“救済と義務”の話だって始めた理由があり、どこから牧野の心中を昼子が知り得たということだ。一体どこで?しかし、やはり疑問は口から出ない。

「…ずっと、思っていたんですが」

周りを確認し終わった昼子が唐突に口を開いた。

「私に、“様”は必要なんでしょうか」

「え?」

「私は美耶子の姉妹ですが、だからこそ美耶子や亜矢子様のように役割があるわけじゃない。 様をつける者ではない」

「それでも、神代の産まれの方ですから」

そう言うと、黒衣はこちらを向いたまま何か言いたげにじっと見つめた後、ゆっくりと視線を外していった。 望んでそこに産まれてきたわけではない。そう言いたかったのではないだろうかと思う。

「私の立場は曖昧ですね」

「異例、だそうですから」

ぽろっと口を開いて言い放ってから牧野は後悔した。
異例故にこんな格好をさせられている子に酷いことをした、と思った。

「やっぱり様は要りません」

「でも、」

「私は……」

少女は怒るでもなく、何かを言いかけ、首を横に振った。

「よかったらそうしてください。ここで呼ぶ分でも」

なんとか頷きならが牧野は消沈して思った。酷いことは言葉だけじゃない。
否子の昼子と牧野が会話を交わすのは二人で座るベンチから教会の建物の中だけのことだった。 この鈴の音が響く空間だけが牧野と昼子が普通に喋ることのできる箱庭。昼子はここから外に出た牧野に話しかけたりはしないし、外で通りがかっても気にも留めない態度を保つ。そしてその時も思った。村人らの目のあるなか、いつものように昼子が自分に話しかけてくることを恐れ、その心を読んだように傍を素通りした昼子に安堵を隠せなかった自分の心根は酷く、今も昼子のセリフに納得した自分を醜く思う。

ざわざわと心の中心が波立つ。何か、言うべきだと思う。この子供に向けた言葉は沢山ありすぎて、沢山あるからこそ狭い喉に詰まってしまう。その内、隣から昼子が立ち上がった。出口を見ると白い犬が息を荒げてこちらを見ていた。
今日はここでお終い。

「…でも、やっぱり形が決まった服っていうのは上手く調節が利きません。
 夏は帯と黒衣が暑くて、冬でこの着物は寒いです。

 脱いで着替えてしまえばいいんでしょうね」

「そう、ですね」

きっと殻がなくなればその内側は、醜く惨めだろう。





【ペルソナ】

ラテン語。古典劇にて役者が用いた仮面、もしくはユングが唱えた心理学用語の人間の外的側面のこと。
個人の感情や欲望を押し殺し、周囲の望む役割を演じるために形成された社会的人格である。
人が外界で接するにあたり必要なものであり、社会に属する限り無くてはならないものである。
母なら母親としての、父なら父親としての、子なら子供としての設けられた役割があり、
同時に、家族へ接するときの自分、学校にいるときの自分、会社にいるときの自分、
職業に置いても、例えばスーツを着る、それぞれの制服を着る、言動に気をつけるなど、
自分の役割のそうあるべき仮面を人間は複数持っている。





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あとがき




確かに美耶子が普通に学校へ行って普通に暮らせれれば一般的に幸せかもしれない。 けれど、それは一般的に考えた幸せの形であって、 エンディング後に須田と一緒にジェノサイダーを続けていくのだってもしかしたらまた違った幸せの形なのかもしれない。

実は宮田の誕生日の短編ととある矛盾が発生しそう。
ほ、ほほ本筋はだだ大丈夫ぶ……なはず。