▼はじまり
1997年。
薄い雲が空に広がり、霞掛かった深緑の山々には、蝉の鳴き声が何重にも重なって反響を続けている。
舐めるように立ち上る湿気が土の匂いを届け、夕方近くになると殆どの者がその匂いと湿気に吐息を洩らして、
飽き飽きとして空を睨む。だが、太陽はぐずる子供のように空にとどまり続けていた。
村を串刺しにするようにして真ん中を流れる眞魚川に沿い、中腹あたりに差し掛かると古びれた駄菓子屋があった。
ずいぶんと通りに開けた風の造りをしており、大きなガラス戸が開かれて店内を広く見渡せる。
店頭には少し台が出っ張り、玩具と菓子がならんでいたが陽が照ってしまっている。
屋根から延長した緑の布製の軒をいっぱいに広げてはいるが、中点からはそれてきたらしい太陽が次第に手を伸ばしてきたのだ。
店の中で夏の暑さに疲弊している老人は気づいていない。
売上を入れる青色の手提げの金庫を背後に置いて、ウチワを片手にひらひらと半分寝てしまっている。
その順調に身を溶かしている菓子をつかみ、少し乱暴に影のなかにつっこむ。
たったそれだけで熱い吐息が吐きだされて嫌になった。
汗がにじんだ腕にくっつく着物の白い袖をはがして、なんとか空気を入れ込む努力をしながら、息を吐く
“昼子”は、くらくらとする頭を振った。もっとも厄介なのは、頭にかぶさった黒衣だった。
黒は太陽光を集め、しかも、せっかくの涼風から顔を遮断し、頭の熱を密閉するのだ。
頭が湯につかっているように熱い。
そもそも、この狭い緑色の軒の作る影に身を縮める羽目になったのは、熱中症の症状が現れたのを危惧したからだ。
今、倒れてしまうことは何よりも不味い。
明るい外と反するように、暗い室内を覗き、一番奥で、横になっている老人を見てから、店内の商品を一通り眺める。
買う気は無いし、買うための金もないが、風呂屋にあるようなガラス張りの冷蔵庫のなかで冷やされているラムネに張り付いた水滴に、いっそうくらくらした。
“昼子”は影のなかにしゃがみこんで、蒸発する水蒸気が作り出す景色を眺めて溜息を1つ落とした。
どうしようもない。
今は、どうしようもない。
追いかけてくる焦りを飲み干し、焼かれるような黒い布のなかで、首の後ろにじっとりと汗をかき、
「そろそろ行こう」と思った時、休んでいた駄菓子屋に、虫網を持った子供が一人やってくる。
初めは商品の棚で見えなかったのだろう、店の前でしゃがんでいた“昼子”を見つけた少年は、ギョッとして、顎を引いた。
しかし、すぐに、頭の黒い布と、着ている白い着物を見て、「あっ」という顔になって、得意げに、すみやかに、
「おばちゃん!ラムネ!」
無視をする。
室内から、白いランニングにくたびれたズボンを捲くった老人が顔を出し、少年と、黒い布を被った“昼子”を一瞥すると、
子供とは違って、目を滑らせるように視線を逸らして、“否子”を無視し、「はいはい、ラムネね」と、もうしわけない程度に接客をしながら、お金を受け取り、ラムネを渡した。
「暑い」
“昼子”はクラクラとする頭に悩みながら、この狂った世界に、途方にくれる。
▼昼子
“記憶”が始まったのは、まだ、本能と母親に頼ってぼんやりと生活していた幼少の頃だった。
まず、不思議だったのは、一緒に生まれた双子の妹と名前が共通して「美耶子」で同じだったことだ。
しかし、その不思議をどこかで感じながら、霞がかかって寝ぼけた頭は「美耶子」と呼ばれると自分と認識し、
頼りない足を動かし、二人で母のよくわからない用を聞いた。
そうして、ころころと二人でじゃれあう赤子を母は微笑ましそうに、しかし、何処かギラギラとした目で見比べている。
まるで、わが子に化けた悪鬼を見つけてやるという風に。
(なぜ、この人は、自分の子供にこんな目を向けているのだろう)
生まれてから数年が経った頃。
そう思ってからは雪崩のように速かった。
―――違う。私はこの人のことを母親だなんて思ってない。なぜならば私にはほかの母親がいたからだ。しかし、私はこの人から産まれた記憶がある。
産まれた記憶は1つしかない。だが、そんな記憶を記憶していることは稀だという。なぜなら赤ん坊はまだ頭がそんなに出来ていない。
前の母から産まれた記憶は無い。前?前があるということは私には二人の母が居るのか。違う。二人の母親を持つ子供なんてありうるのか。ありうるはずが無い、
育ての母、義理の母というわけでもないし、そもそも私は“美耶子”という名前でもない。じゃあ、私はなぜこんなところに紛れ込んでいるのか。
自分の持ちうる記憶と違うこの小さな身体はなんなのか。分からない。しかし、自分の意思ではない。私は、
―――私じゃない!
その瞬間、やっと今の自分の特異さを実感できるようになった。
無心の赤ん坊だった頃の記憶はツーと遠くなり、まるで、夢のなかで何かに追われ、思うように動かない自分の身体にやきもきしたおぼろげな記憶と同等な、意味のないところに落ちていき、当たり前なことにも気づかなかった自らに失望を感じた。
私は子供じゃなかったはずだ。そして――――
これが所謂、前世の記憶なのか、それともなにかの錯覚や障害なのか、そんなことを考えても答えは出そうにない。
とりあえず、疑えるだけ正気なのだろうと自分を慰める。
そうしてから、やっと、自分の周りを黙して静かに観察し、状況を見定める努力を彼女は開始した。
***
「こちらの美耶子は目が見えていないだと?」
「はい」
観察を始めて3年くらいの事。身体が6才を迎えた頃と思われた。
双子の妹とされる子供が、実は先天的に目が見えてないことが判明した。
奇妙だ、と、彼女はまず思った。
自分達が産まれたときにも産婆とともにいた白衣を着た不機嫌そうな男は、キョトンと目を見開いたままの少女に、
煌々と灯るライトの光を押し付けながら、瞳孔の様子を見ていた。
そして、この家の教育方針なのか、人と接する機会が少ないからか、
ようやくちゃんと口を利くようになった少女に「眩しくないですか」と敬語で問う。
「なにが?」
少女の黒々とした眼は少しもひるんだ様子を見せないまま、光を間近に捉えている。
少女と両親を見比べ、原因を探った。母は、口元に手を当てて、眉を顰めて絶句している。少し顔が青い。
眉を潜めた父は、医者に訊く。
「しかし、今まで不自由をした素振りはみせていない。本当に目が見えないのか?」
「恐らくは、強力な “ゲンシ” を持って、当たり前のように使っておられたのでしょう。」
父の言い分はその通りだった。妹が生活に不自由している様子はなかった。
ただ、ときおり、「見てくれない!」と駄々をこね、泣き喚いたりすることがあった。
それは、構ってくれない!と幼い子が駄々を捏ねることと同じだろうと捉えていたが、どうやらそうではないらしい。
“ゲンシ”―――幻視。
邪魔なほど記憶がある頭の片隅にその単語は引っかかり、背筋をゾッとさせた。
「幻視?本当にそんなことが…」
あたりは一瞬、沈黙に包まれた。だが、母はすぐさま隠した口元の手の覆いから飛び出すほど三日月のように口を歪め、
ライトを見てケラケラ笑う少女に向かって、「美耶子!」と盲目の少女の方を呼んだ。
笑う母。訳も分っていないままの“美耶子”。そして、おのずと、父の冷たい目が此方に向いた。
判別されずにいた双子は、今、分かたれた。
そうして、改めて名付けられた名前は“昼子”といった。
【ヒルコ】
不要の子供である否子につける名前として、良く使われるもの。
ヒルコとは、古事記に出てくる奇形の子供の名前“蛭子”のことである。
イザナギとイザナミは一番初めに産まれた蛭子が不具の子だったため、葦舟に入れ海に流し、捨ててしまう。
▼はじまり・二
頭上で風鈴が音を響かせる。
ラムネを買って、足早に少年は出て行った。
老人は居心地悪そうに咳払いをして、手持ち草に、ウチワを仰いで埃を飛ばすような素振りをする。
“否子”は居ない者。掟を守るなら、無視しなければならないから、邪険にすることも本来はできない。
けれど、店先にこんな縁起の悪いのは置いておきたくない。そんな感じの動作だった。
「少し休んだら、出ていきます」
掟では、周りの者は否子を無視しなければならないが、否子本人が無視をする必要はないだろう。
ほとんど屁理屈のような持論をもってして、背を向けたまま昼子が言うと、後ろにコトリと何かが置かれる。
振り返ると、コップに入った水が置かれてあった。
「……ありがとう、ございます」
のっそりと何も言わず部屋の奥へと消えていく老人に告げる。返事はなかった。
これをやるから早く出て行ってくれということなのか、こんな存在を哀れんだのか、
沈黙する曲がった背から意図を汲むには難しい。
ただ古臭い掟だった。この掟が始まったという遠い昔の時代、“否子”の扱いは、今とは違い、
無視に留まらなかったという。けれど、こんな飢えも闘争もない生ぬるい平和のなかでは、
冷たい水もぬるくなるように、隔たりは否子という認識でしかないのだろう。
辺鄙な村とは言え、電話もテレビも車もある。こんな風習を続けている家すら、この村で、もう、1つしかない。
だが、その1つがこの狭い村の世界で中心を担っているのだから、生ぬるくは成ろうとも、境は消えない。
「昼子様」
神代家。
村人達がこの廃れそうな風習を守っているのは、力のある神代の家に従っているからこそだった。
神代の名前は字のごとく、神に代わって地上を統べるような力を持っているという。
そして、8才の子供に敬語を使うこの男も、家に縛られ、掟に縛られている。
「昼子様、またですか。勝手に抜け出されては困ります。」
“居らず”としなければいけない否子に話しかけるのは、外からの逆光で黒く染まった白衣を着た男。
産婆と共に、昼子と美耶子をとりあげ、神代の余計を引き受ける宮田の当主。村の暗黙の家の男。
白髪混じりの頭を短く刈り上げ、どこか青白い肌は厳格そうな表情と合わさり、蝋で作られた人形のような印象を受けた。
店の老人が、ちらりとこちらを見たようだった。テレビのボリュームが上がり、こちらの会話が耳に届かぬように取り計らったのが昼子の耳にも届いた。
「帰りましょう」
底知れぬ、闇を丸めて固めたような瞳からの視線を感じながら、影のなかで昼子はコップの水に手も出さず、ただ、頷いた。
―――今は、どうしようもなく、自分は無力だ。
それを悔しいほど自覚する。だが、昼子は、足掻かなければならないのだ。
幻視という名前を聞いたその時のように、背筋をゾッとさせながら、目の前の男の後ろをついて行く。
その背中を見ていると、呪いのように言葉が浮かぶ。―――なぜなら、昼子は知っているからだ。
―――この男の血のつながらない息子は、名前すら越えて、後に救導師となるのだろう―――
遠く遠くで雷鳴が聞える。
時系列がつかみにくいことこの上なしですが、この話での宮田の当主は、皆の撲殺天使宮田先生ではなくて、
原作では出てこないお父様のほうです。よって、捏造です。前に書き忘れたけど神代の当主も捏造。名前は原作通り。
本当に、この話、捏造だらけなので、ご注意ください。
あと、お父様の名前を「三郎」にしようかと思ったんだけど、別に「司郎」って四がつくわけじゃないですもんね。