▼残滓の天秤



これからどうする?



無責任な問いかけが嘲笑うように頭のなかでぐるぐると回った。 昼子は、答えを出せないまま、引きずられるように手首を強く掴んだ手にひっぱられ仏間を後にし、 宮田に連れられるまま居間のソファへと膝を折った。顔を上げる間もなく、項垂れていた頭へと手が伸び、 何を思ったわけではないがギュッと目を瞑ると、頬を布が掠めていく感触がする。

それが頭を撫でていくのを最後に、目を開けると先ほどより周りが良く見えた。黒衣を取り除かれた。 目を伏せたまま投げ捨てられて隣の席へと落ちた黒い布を昼子は横目に確認する。 これで狼狽を隠してくれるものも、不味いところを見られたという失態の表情も隠すこともできない。

再び、問いかけが頭の中に響く。


どうする?


何故、この人が今ここに居るのか。
―――何故、“神様のバチ”などと思ってしまったのか。

後悔は、出ない答えの代わりに次々に産まれ、さざなみのように頭を埋め尽くしていった。 晒されてしまっている唇を噛んでしまわぬように左右に力が籠る。 そのまま、恐る恐る視線を上げると、熱の無い闇の目とかち合った。 否子を無視する村人と似ているが、誰よりも暗いその目は、自分を捉えて離しはしない。 そして、口を開いたのは昼子よりも、上から覗き込んでいる宮田のほうが早かった。



「何をしていた?」



意味のない飾りをついに取り除いた言葉が、突き抜けて縫いとめられる。 その冷たさから、この先、どんな惨めったらしい戯言も吐こうものなら、 無論も妄言に押し込められてしまうだろうと分かった。


これからどうする?三度、問いかけが脳内に響いた。
昼子は、じっとりといつの間にか滲んだ汗を手に握り締める。

そんなことは、決まってる。



「あそこにあるライターが欲しかった」



起こってしまったこの状況を、神が下した罰であり、天明だと諦めてしまうわけにはいかない。 そんな便利な神などいない。希望を潰えるのはいつだって己だ。

昼子は首を伸ばし、同時に、助けを呼ぶみたいにこぼれおちそうになった自分の妹の名を噛みしめる。 押し流されるように消えた思考を再開させ、以前決めておいたはずの“従順”と“信仰”を思い出し、 今、この場でそれを行う覚悟をする。

「何故、私のようなものがライターを欲しがるのか、その理由を話します。
 けれど、長くなってしまいます。貴方の時間を戴いてもよろしいですか」

言い終わった後の僅かな沈黙。相手の反応を目で追い、見逃さずに、思考を考慮する。 提示された不明に対する懐疑を露わにし、先を促すように覆いかぶさる影の目が細まって、それを待つ。 再び喉に唾を送り込むと後は押し黙った。次第に耳に、時計の針の音が響き始め、 それをいくつかとどめると、もはや目を合わせているのも苦痛に感じた。だが、待つ。 確信が昼子にはあった。宮田は、この後、話を聞く体制に必ず移る。


「お願いします」

促しながら、例えば、と思考する。

このまま宮田がこのことを当主に進言したなら、最悪、否子の野放しは止めだろう。
しかし、逆に、今ほど“宮田司郎”が昼子の話しを聞かないなんていうこともない。

信仰を恙無くするという“宮田”の役割を全うするなら腰を入れて挙動不審の否子の理由を知っておこうとするはずだ。 また、ルールを信仰する者なら、ルール破りをした者に憎悪を感じ、多かれ少なかれ激昂する。 だが、ルールに従順であるだけの者は、興味を抱く。何故ルールを破ったのか?ルールを破った者はどうなるのか? その興味が、よりその人を従順にする要因に変わってしまうか、違反者への同意に変わるのかは、告白する理由による。 だからこそ、昼子には、バチなのだと口を噤んでしまうわけにはいかない。

加えて、ここで口を開かなければならない訳はまだある。 今の昼子の現状で、もっともらしく理由をつけてこの事態を誤魔化せたところで、計画の破綻は免れ切れないということだ。

このまま進むということは、地図の分配もできないまま、必要な物も手に入らない。 誤魔化した後から来年の八月までの期間に、“何か”が起こり、分配や、物を手に入れること全てが上手くいく可能性は確かにある。 だが、その“何か”が思いつかない昼子には限りなく低い可能性に思え、それを信じるだけで過ごすということは怠惰と変わらなかった。 だからといって、言葉少なく、ただ悪事だけを白状し、素直に監禁を受け、自由を奪われてしまうわけにもいかない。 口を開くなら、“本題”まで。そうすることで“宮田司郎”がどちらに傾くかを賭けなければならない。

無謀以外の何物でもない。けれど、もう、この状況に陥った後では、賭けをしないという選択は破綻を後回しにするだけだ。 少なくとも昼子はそう思った。


果たして、

産まれた頃から刷り込まれてきた概念によってその身を未来で滅ぼすと聞いた時、 人は概念に対する従順を止めるだろうか、否か。


昼子は、宮田から目をそらさずに、息を静かに吸う。自分が自棄に走っていないことを思考のなかで何度も確かめた。 そして、下された答えはあの時と同じ。


遠まわしにしていても、必ず訪れてしまうものなら、


あがく。




黒衣もなく、直接見つめる二つの目。

その二つに浮かぶのは抵抗の光に違いなかった。
宮田は、もがいていると分かった子供を逃がさぬように、目の前へと椅子を引き寄せ、

鷹揚と腰を下ろした。












▲災厄の子供達





宮田が腰を下ろすと、少女は自分の足元の何かを確かめるような動作をした後、
薄い色の唇を僅かに開いてこちらを見つめ、長い一文をつらつらと言い放った。



「これから話す内容には、私が知るはずのないこと、
 そして、羽生蛇村に住む一般人にとっても知り得ないようなことがあります。
 恐らく何故知っているのかと疑問に思うと思います。

 けれどそれを聞くのは、一通り私が何をしようとしているのかの話が終わってからにしてください。 
 これは隠そうと思ってのことではありません。話が終わったら、必ず、明かします。
 何故、こうするのかと言えば……

 そうしなければ、きっと、貴方と話すこともできなくなってしまうと思うからです」


顔を覆う邪魔な黒衣を取り払ってしまうと、聞こえてくる声は案外と高いのだと気づく。 子供の本質とも言える挑戦的な目を見てしまった宮田は昼子の声を聞きながらそう思い、 その背に見える壁掛けの時計を見た。病院の昼休みの終わりまであと一時間と少し。 これが不必要の子の抵抗のタイムリミットになるだろうと、昼子に頷いてみせる。

その時が訪れたら、午後の往診が始まり、病院に寄って準備をした後、宮田がまず向かうのはこの子供の生まれた家だ。 それなら当主への報告も容易いだろう、と頭のなかで成算をつける。

「いいでしょう。ただし、時間は一時間程度でお願いします。
 それで何か言い足りないことがあれば、その後、私ではなく、御当主様の前で講釈されるのがいいでしょう」

「わかりました」

やはり、キョウダイというものは相反するようにできているらしい。
少女は、挑発を飲み込んで、さっそく息を吸う。長い話になる予感がした。

静寂が言葉によって破られる。




「私が“知っている”のは、この村が呪われているということ、
 そして、その呪いの根源“堕辰子”という化け物のことです」




突拍子もなく始まった話とは裏腹に、昼子の表情は凪いでいた。 思わず顔を顰めた宮田はそれを隠すこともなく、無言でいた。 むしろ、何を言えばいいのかも検討がつかなかった。しかし、昼子は話を止めない。


「この村は呪われている。始まりから今までまで。そして、その呪いは来年、姿を現します。

 羽生蛇村のそもそもの始まりは、今から1318年前の684年。歴史的に見れば飛鳥時代のことです。
 その年は、日照りによって起きた酷い飢饉が村を襲っていました。
 住民は餓えて多くの者が死に、村は消滅しかかっていた。

 そこに現れたのが堕辰子と言う弱った異界の神。
 人々は羽の生えた魚のような蛇のようなその神を食べ、生き永らえようとした。

 このあらましを記した話が羽生蛇村民話集の中に存在しています。
 「空から降ってきた魚」という話。内容は知っていますか?」


民話はあまり身近でない宮田が、話の着陸点も思わしくないと黙っていると、
返答も待たず、続けてすらすらとまるで朗読するかのように昼子は話を諳んじる。


「むかしむかし、日照りが続き、ひどい飢饉が村を襲った。
 村の娘が飢えに苦しんでいると面妖な魚が空から降ってきた。
 娘がこらえきれずその魚を口にしたところ、たちまちに空が曇りて、天から大きな音が鳴り響いた。
 娘は悔いて謝り、これから一匹ずつ魚を天に返すので許して欲しいと神に乞うた。

 そして、そこから生まれた宗教がこの村の土着信仰である眞魚教です。
 信仰の形はこの娘が食べてしまった魚を神にし、方式はキリスト教を取り入れることで確立したものでしょう。
 キリスト教が日本に伝来したのが、確か戦国時代のことなので、
 それ以前での信仰の形はまた違ったものになるのでしょうが、
 本質はそこまで変わってはいないはずです。

 眞魚教の本質とは“罪の許しを得るために神を奉り祈る”という原罪に重を置いたものです。
 そして、罪の許しを得るために行う儀式こそ、神に花嫁を送るというもの。
 だから、その儀式の最中に歌われる奉神御詠歌の歌詞には「我等父母の咎に罰を加え給う事無し」。
 この儀式によって、父と母、つまり現れた魚を食べてしまった先祖の咎を
 許して罰を与えないでくれと神に願っているのです」


そこまで聞いて、内容はともかく「なるほど」と宮田は可笑しく思った。確かにそんな知識をどこで身に付けたのか。 例えばこの話が民俗学等の学問のさわりの部分であり、聞く人間がそういうものを好む者なら、惹かれる内容であるかもしれない。 けれど、宮田自身が学んできたものは医学であり、この後、神が何の隠喩であるかの討議に変ろうものなら、話は聞くに堪えない。 だが、役目として、どこから学んだのか問いただそうにも、昼子の話は終わらないらしい。


「けれど、なぜ、神代の家に生まれた娘を花嫁に捧げることが、罪を免れる免罪符となるのか?

 それは、神代家の先祖が、魚を食べてしまった娘であり、
 儀式は、魚を食べたことで得たもの“子孫”を捧げるという代償行動の表れなのです。
 食べてしまったものをそのまま返すことなんてできない。だから、それによって得たものを返し、許しを乞う。

 また、旧家である神代の成り立ちには幾つかの有名な諸説があり、
 来訪神を迎え入れた為に栄えたというものと、
 逆に来訪神の怒りを受けた為、それを奉る事で栄えたというものがあります。
 この二つは、神を食べてしまったという事実から両立することができ、

 神の血肉を体の中に入れたため、神の力の片鱗を得て栄え、
 神の力の片鱗を得てしまったことで、呪われた、となります。

 その血筋が現代まで続き、そして呪いも続いている。
 ここまでが、羽生蛇村と神代家の主な成り立ちです」

「はぁ」

それが何か?と言いたげに宮田は返答した。ちら、と時計を窺う。まだ数分ほどしか経ってはいない。 昼休みの終わりをタイムリミットにしたが、早めてしまっても構わないかもしれない。と正直思った。 それくらい昼子の話はあまりにも現実から剥離していた。 妄言で煙に巻く気か、それとも、まともな教育を受けずに育った子供の正気を疑うほうが容易い。


「けれど、堕辰子という神は、別に飢饉に苦しむ人間を救おうと思ってその身を捧げたわけでも、
 食べられたことで死んでしまったわけでもない。
 堕辰子という神は不死の生き物であり、今も、食われたその身に苦しみながらその返還を待っている。
 そして、その不死の神の血肉を体の中へと入れてしまい、
 神の力の片鱗を得た神代の人間にも影響は表れた。

 一つは“幻視”。神の血肉を体の中に多く宿している証拠であり、
 花嫁であるものの御印として現れる人ならざる異能の力。
 二つは“寿命”不死である神の肉片は人に吸収されたそのあとも不死であり続けようとし、

 神代の家に産まれた全ての者は“不完全な不死”なのです」


「不完全?」

訊くと、頷く昼子の表情は暗く、老成しきった大人びた表情をしていた。


「老いるけれど、死ねない。

 神を直接食べた女性は、多分吸収した神の肉片が多かったせいか完全なる不老不死になりました。
 けれど、その子供から連なる直系である神代家で産まれた人間は、肉片が足りなかったからなのか、
 成長し、老いるけれど、死ねない。

 肉体が朽ちようと、精神が残り、そして、その精神が磨滅して壊れ果てるまで、自我はあり続ける」

まるで身を食われた神の呪いのように。暗い場所を覗き込む昼子はそう吐き捨てた。
その話が本当ならば、目の前の彼女にも不完全な不死の血は流れていることになる。

「そして、不老不死となった女性と、不完全な不死となったその子供は、死ねないその苦しみに気付いたとき、
 “これは神を食べてしまった罰なのだ”と思った。そして、許しを得るための返還が始まった。
 それは儀式になり、信仰となり、村の掟となった。

 もともと弱り、人間を助ける気もなかった堕辰子は、その身を食われ、本当に弱り果て、
 ただ自分の性質である不死ということだけで生き続け、与えられる花嫁を食らって回復を図った。
 奇しくも、思惑と重なったのです。堕辰子は、贈られる自分の“元肉片”を少しずつ、1000年以上の時間をかけて吸収し続けた。
 そして、来年の夏、今回の神の花嫁である美耶子に二つ目の“御印”が現れ、27年ぶりに儀式は行われます。
 けれど、この儀式は失敗し、




 村は壊滅するのです」





▲毒の杯




「……何を、言っているんです」



それは貴女の妄想の話でしょう。聞き分けのない子供を諭すように言ってやると、少女の静かな目線が返ってきた。 逆にこちらのほうが話を理解できない子供にされたような気がして、宮田は苦々しく思う。 これは、彼女の、いや、彼女等の妄想なのだ、と、思った。 逃げられない役目から意識だけでも救ってやろうと、二人の少女等が作った楽園の創世。 儀式が失敗し、村が壊滅し、次には、生き残った彼女等は自由になるというのだろう。 驕慢な少女の、叶うことのない夢。


「同じことが前回の儀式でも起こりました」

「あれはただの自然災害です」


言い切ると、少し唇を歪めた昼子が堪えるように膝の上で握りしめた手に視線を落とした。 こうして黙っていればただの哀れな子供だ、と思ってやることもできた。 しかし、結局それが優しさに繋がるようなことはなく、 再び言葉を紡ぎだした子供は、宮田にとって絶対的に淘汰されるべき存在にほかならない。 宮田もある程度の権利を持ち、村の公然に頼って生活している大人なのだ。



「―――2003年8月2日。深夜に行われていた秘祭が失敗し8月3日に変わった深夜零時丁度、  村にサイレンのような音が鳴り響き、接する三つの山からの同時に起こった大規模な土砂崩れに村は襲われ壊滅する。  けれど、そこにいた人間はそれと同時に異界と呼ばれる異世界へと飲み込まれます。

 異界は赤い色をした海が延々と広がり、飲み込まれた村は27年前と現代の姿が混ざった形で、
 まるで孤島のように存在している。
 当然、村の外と繋がっていた道は分断され、崩れ果て崖のようになり、
 露わになった地層の回りを囲む赤い水が浸しています。
 その赤い水は、単なる水というわけではありません。それは、弱り果てた神が流す呪いの血潮。
 異界に飲み込まれた人間を化け物へと変える水なのです。

 それに長時間触れていたり、呑み込んでしまったり、
 一定量体内へ取り込むことで体に変化が起き、化け物へと変化する。
 また、異界のなかでは絶えずこの赤い水の雨が降り続き、屋外にいる限り、
 少しずつですが、確実に体内へと“赤い水”が取り込まれてしまう。

 そうして変化し、産まれる、化け物。名前を屍人(しびと)と言います。
 屍人は、最初の方はまだ人の形をしていますが、
 赤い水を大量に体内に含んだ彼らは、もう人間ではありません。
 人格や思考能力は、ほぼ無く、ただ普段していた慣習を繰り返し続ける。
 加えて、彼らには“人間”が“化け物”に見え、人間の姿を見ると襲ってきます。
 倒さなければ、此方が殺される。殺されると死体の体内に赤い水が入り込み、やはり、屍人となります。
 屍人を殺した場合でも、時間が立てば彼らは赤い水の力で蘇り、繰り返していた行動を再び開始する。
 死に絶えながらも、彼らは神の性質に則って不死なのです」


「…なるほど。その世界に飲み込まれた人間は、死なない化け物の隣人に襲われ、
 やがては自分も化け物になる…それは酷な話ですね」

他人事のように宮田はつぶやいた。
自分の気に入らない人間を自分の世界で苦しめる。現実でそれができない人間のよくある想像だ。 先ほどまでの村と神代の歴史が自分たちが生贄にされる“理由”なら、これは“復讐”に当たるのだろう。 黒衣で隠されていた白い細い首と、着物の上で握られた青白い血管が這う手の甲は貧弱であるのに、 虚妄を抱く意思の方は強固らしい。 想像では足りず、何やらその未来のために余計な暗躍をしているらしい否子の今後の身の振り方について、 宮田の中で、拘束、という考えが浮かぶ。


「……貴方はそれを見たことがあるはずです」

「何をですか?」


低く呟いた声は、宮田が頷きつつも上滑りしながら話を捉えていることに気づいている昼子の打ちひしぐ口惜しさがあった。 怪訝そうにした宮田を昼子は答えずじっと見つめ、もう一度、見たことがあるはずだ、と、問う。 だが、宮田に何を見たことがあるのか身に覚えがない。少女の妄想に自分が何時触れるものか、と、視線を流し、 引き続き、これからについて考えていた。 この子供が自らの妄想のシナリオの為に何かをして、儀式に不和があってはならないだろう。 当主に事情を話すとして、否子の拘束を進言すれば、またそれをするのも“宮田”だ。

少女は唇を強く引き締め、促すような視線を送り続けている。
しかし、分からないものはわからない。

自然と思い描いていたのは病院の隔離室だった。あそこなら鍵がかけられ、監視もしやすい。 今、部屋の空きはいくつだっただろう、と考えて、ふと、違和感を感じた。 自分を見つめ続ける子供が、宮田の耳に響いた鉄の音を感知し、息を詰めている。

その違和感に耐えられなくなった宮田がついに声を上げた。


「…私が?何を、見たことがあると?」


昼子が静かに語り出す。

「……異界という場所は、鏡のように相反するけれど村と隣り合わせの空間にあり、
 その影響が現実の村にも染み出ている。
 だから、この村は、普通ではない可笑しな現象が起きることが稀にある。
 そして、異界に満ちているはずの“赤い水”。これも微量ではありますが、村の水脈に染み出ている。
 その水に敏感な者は時間をかけてゆっくりと狂い、まるで異界のなかのように“屍人”へと変化する。



 現実にも化け物はいるんです。この羽生蛇村には」



異界に満ちる“赤い水”。
それが延々と世界というグラスに注がれ続け、やがては溢れ落ちる。

膨らんだ非現実が、現実へと浸食するように。
そして、その水は人間を化け物へと変えていくという。


昼子の言ったことが急激に繰り返し再生される。
化け物は、人の形を―――彼らには“人間”が“化け物”に見え、人間の姿を見ると襲って―――
まるで異界のなかのように―――死に絶えながらも―――


―――不死。


「神代の人間は神の肉片を食べてしまったために、成長し、老いる不完全な不死になった。
 屍人は体のなかに呪われた神の血が入ってしまったがために、不死の化け物になった。

 どちらも果ての見えないものであり、
 村に君臨し、代償を支払い続けるために神代の血を絶やさずに生活するにはバレてはならない秘密です。
 そして、だからこそ、権力を翳して、抱き込まなければならない外部の者達がいた。

 死亡の判断を下す者。
 死体を弔う者。

 神代の人間は死ねるのだと証明する者達です」


それをするのは、神代の他の二つの村の権威、医院、教会だ。


「特に現代はご存知の通り、戸籍が国で管理されています。
 神へと捧げてしまう子ならともかく、血筋を続ける子の戸籍はなければ、婚姻もできません。
 よって、秘密がバレないようにするには、戸籍のある“死なない人間”を
 人としてあるべき寿命で“死んだ”と行政に届けをださなければならない。

 心音を無視するよう命令できる医者が神代には必要で、
 空の棺に弔いの言葉をかける神官もいなければならなかった」


基本的に村人の死亡診断書は村で唯一の病院である宮田医院の仕事だ。 少女の瞳が言っている。「神代家で産まれた人間の死亡診断書を書いたことはあるか?」 宮田自身にそれはない。しかしそれが、神代の者が不死かどうかの証明にはならない。 父の跡を継ぎ、日がそんなに過ぎていないということもあるし、 病院の控えの診断書も26年前に多く消失してしまっている。

だが、非現実と現実との繋がりを意識してしまった今、 子供の妄言にしては不気味な筋書きに思え、宮田は頭の中で情報を整理し始めた。 村の名前から土着信仰、民話、村の権力者達、それらに絡んだ神と秘祭、そして―――化け物。

宮田は、恐らくこの“屍人”と呼ばれるらしい化け物を目にしている。 病院の地下室にある檻のなか。四つん這いで這い寄る老婆。 目はちくはぐにどこかを向き、びっしりと生えた牙のような歯。 子供の頃、地下室のカギを盗み出し、この老婆を初めて見たとき、近づきすぎて腕を抉られたことがあった。
それは、―――今もいる。


地下に訪れ、見る度に疑問だった。この老婆は一体何なのか。 子供の頃からとても年老いた者だと思っていたが、酷く汚れているせいか、今も格好に変化はないように思う。 そして、こんな田舎だというのに、何故か不意に現れる狂人。 信仰に意を唱える人間と同じく、その処理を任されているのは―――。




宮田は我に返り、昼子を見た。

向かい合った少女は、視線を怯まずに受け止める。
宮田の挙動を観察し、落とすべき情報を見極めるために構えている。

再び、宮田は彼女の印象を覆さなければならなかった。
彼女はただ駄々を捏ねている子供ではない。

彼女は、裸で練り歩く王に指を差すことはせず、寡黙なしもべの振りをして、





杯に毒を盛る者だ。







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あとがき




主人公のターン!
「羽生蛇の歴史」で、「眞魚教」を攻撃!
さらにトラップカード発動!
「現実の化け物」が宮田にダイレクトアタック!
手札から一枚カードを守備表示で伏せ、ターンエンドだ!

真面目が限界だったんです。すみません。あと脳みそも。
主人公は普段コツコツタイプだけど、追いつめられると大博打に出る人ですね。窮鼠系女子。