▼ひとつ




その日、昼子は、宮田の家の二階に位置する“否子”の為に用意された、家具の簡素な部屋のなか、 昼食の終わった食事用の小さな机に、図や文字の書かれた大きさのバラバラな用紙を広げていた。 手慣れた様子で、拾い上げては書かれている内容をなぞり、机の上に戻し、すぐさま違う用紙を拾い上げる。 図や文字の書かれた用紙―――作った地図に見落としはないか確認しているのだ。

午前中を使って歩いて確認した移動時間と、村の地形、そして、“知っていること”とを脳内で重ね合わせ、 来る2003年8月2日の深夜から12人が集合するまでの時間を順々に目を走らせて追っていく。 項目に目を通すと、迷わず次の用紙を引き寄せ、再び次へ。何秒とたたず、次の用紙へと昼子は手を運ぶ。 この作業は、地図を描き上げてから何百回と繰り返してきたことだった。指先に迷いはない。

この作業によって発見した修正箇所は過去に何か所も存在したが、今になっては、見落としも、策すらも出しつくしてしまったようで、 確認する時間ばかりが速くなってしまい、慣れた文章に目が横滑りを起こしそうになるのを、我慢できない不安が押しとどめている、という状態だった。 そして、今回も、数分もたたずに全ての文章をなぞり終わり、全員が病院へ、無事、集合できたところで、昼子は地図を机へと置いた。 しかし、結果とは裏腹に、臓腑を掴むような不安が増して、再び用紙へ手が伸びそうになる。際限がない。

いくら確認したところで、机上の空論に違いない。

伸びる手を止めるために腰をかけていたベッドのシーツに押し当てて、 冷静な部分でそう突き詰めると、昼子は、時間というものの恐ろしさに指先を震わせた。

まとめ終わった地図の確認を開始したのは、始めの頃はあがく為。そして、見落としを発見するために。 見落としもなくなった今は、確認もあるだろうが、大部分で安心するために地図を取り出していた。 けれど、安心を求めたはずの地図は、見終わった後に、見る前とは比べ物にならない強い不安を連れてくるようになっている。 これで果たして本当にいいのか?苛めるように自問自答が始まり、同時に自分のどこかが叫ぶのだ。


駄目だ!きっと駄目だ!


けれど、その声に焦らされても、これ以上のものを考えることは昼子にはできないし、策はもうとうに尽きている。 見落としもここ一年見つかっていない。もう無いはずだ。それを地図を見る度に確認した。 それでも、不安を感じた次の瞬間には、あくることなく地図へと手が伸びてしまう。

見落としがなく、これ以上考えることがなくなれば、この地図を確認する時間よりも、 進んでいない村人との接触に時間を割くべきだろう。だが、駄目だ。中毒のように作業に縋ってしまっている。 不安と確認の悪循環。ならば、いっそ、願掛けのつもりで当日まで見ないようにすればいいのではないか? しかし、それを考えたところで、昼子は自分の真意に気がついた。


強い不安も、不安を理由に確認を怠るのも、どちらも現実からの逃避に違いない。



耐えられず、そのまま後ろに倒れこんで、シーツから手を離し、喉に両手を当てた。気のせいのはずがない。 “来年”を彷彿とさせるような“夏”を跨いだ今、残された時間を肌で感じるようになって、自分のなかの不安が高まっている。 一つ前の夏が終わった。これでもう、残された季節はたった一巡だ。

“一”巡。

時間は確実に過ぎて行っている。


―――。


もっとも心配なのは、地図の分配だった。

会話の進み具合に個人の差が大きい。

もっとも進んでいる方なのが、高遠玲子、牧野慶。それから、四方田春海とも、先日、話す機会があった。 だが、四方田春海は昼子が行動を起こすまで、高遠玲子と一緒のため、念のための彼女用の地図は用意してはあるが、 そこまで緊急性はないように思え、また、当日まで会話ができなかった場合には、 後に春海と友人になる予定である美耶子から地図を渡して貰う計画組んでいた。 よって、先日の機会自体はまったくの偶然によるものだ。しかし、面識を持っておくことに越したことはない。 直接話をできたことは運が良かった。


高遠玲子。牧野慶。四方田春海。

そして、結局、

今までまともに会話ができたのは、美耶子を除き、この三人だけだった。 村の外にいる人間には連絡をとる手段がないため、仕方ないといえはそうだが、あまりにお粗末。

しかし、村にいる者といえば、例えば、志村晃の場合、 彼は“神代”の子供である昼子に対して、無視はしなかったが、話も聞かなかない人間だった。 人から離れた山小屋に住む彼は、昼子を問答無用で追い払い、忽然と目線を送る。 その態度は否子だから、というよりも“神代”を嫌悪しているようだった。 志村晃の過去を思えばそういう反応も不思議ではなく、昼子が何を言おうと、騙されることのないように警戒を緩めなかった。

また、前田知子、12名のなかには入っていないが、恩田美奈とも接触を試みたが、 前田知子は悲鳴を上げ、恩田美奈は固まり、二人とも最近ではこちらが申し訳なくなるような表情で、 小さく謝りながら、逃走するようになった。どちらも話ができるような雰囲気ではない。

ほかの、恩田理沙、竹内多門、美浜奈保子、安野依子、須田恭也、

今、彼らは村には居ない。
そして、距離が近く、接触を図りかねている、宮田司郎。


―――。


概念というものは、当たり前とされている分、根が深い。 散々利用してきた“否子”という存在の負の要素をまざまざ見せつけられて、昼子はほぞを噛んだ。


―――これでは、2003年の夏、昼子が介入するまでの彼らは“正しく”行動をすることができるのか。

用意した地図はちゃんと役に立つのか。…むしろ、こんな小細工をしないほうが“知っている”通りに進むのではないか? こんな地図を作る時間があったなら、もっといい案を考えるべきだったんではないのか。 そもそも、どうにかできるなんて、思い上がりじゃないのか。とうに知っていたはずの疑念が何度でも湧いては苛める。



用意すべき、と思った物についても例外ではない。

“伝手”がない。

話をすることができた二人の大人を思い浮かべてみても、二人ともそれぞれの都合からして無理がある。

牧野の場合、話をするといっても、牧野は教会の人間であり、ただでさえ、やっかいな人がほぼ常に傍にいる。 あちらが自分の目を幻視できないと知った今、許容されている行動以外の怪しい行動はなるべく控えたかった。 もし、何かしらのことが判明し、決定的な出来事として、儀式の日まで約束されている命の立場を無くすようなことがあれば、 昼子も、目的である美耶子も、本当にお終いだ。

高遠については、彼女の性格を考えた結果から難しい。 高遠は誠実で責任感のある人間であり、過去に、“今は”と区切りをつけ、待たせてしまっている昼子が、 伝手がないことで弱り、一言でも、“本を借りる”以外の何かを頼めば、高遠は快く引き受け、行動を起こすだろう。

しかし、どこまで行動を起こすのか、と考えると、誠実で優しい性格が災いし、 きっと“神代”のほうにも手を出すのではないかと思った。頼む物である、人数分の腕時計、食糧、水、ライター、懐中電灯。 その内容からして、“母親”が考えつく、それらの物を必要とする“要らないとされた子供”の事情は、きっといいものではないからだ。

それから、2002年の秋の今、四方田春海は、両親を一度に亡くした後であり、一人ぼっちになってしまっているはず。 異界でのことも考えると、高遠には春海を最優先にして欲しい。 最悪なのは、昼子の頼みで行動を起こした高遠が村から居なくなり、春海から“母”を奪ってしまうことだ。


―――だが、他に誰に頼めるのか?


昼子は喉から手を離して、腕で目を覆う。

対策を取らなければならない。考えなければいけない。

腕時計、食糧、水、懐中電灯、それらを用意できないことで起こる不都合は、妥協することができる。 それらはもともと“知っている”記憶のなかで用意されていなかったものだからだ。 あれば、もっと上手くいくかもしれない、とは思うが、無くても仕方ないで済む。

だが、

ライター。

これだけは用意して置かなくてはならないのだ。








▼譴責の火




昼子が介入する行動の内、最も早い時間なのは、2003年8月3日2:18であり、高遠玲子と四方田春海が、折部分校にいるときだ。 途中まで“正しく”としているが、この二人の場合、ほぼ最初のほうから介入するため、 早い段階から、本来の“正しい”ものとは違う道筋になる。


異界に突入する際、深夜行う予定だった“星を見る会”のために、学校の二階、一階に続く階段から最も遠い図書室に二人は居り、 そこで気を失う。そして、未明に目覚め、2:18から行動を開始するのだが、 この時すでに、建物の外へと続く玄関と一階の窓を、“日光から自分を支配している神を守る”という本能がある屍人によって塞がれてしまっているため、 本来外に通じている場所から素直に脱出することができなくなっている。

二人は気を失っていた図書室から、徘徊する屍人を“正しい”方法でやり過ごしながら、一階へと進み、 途中、後に絶対に必要となる“蝋燭”を手に入れ、そして、塞がれている玄関を通り過ぎて、職員室へと入る。 そこで、窓の外から打ちつけられた木の板の剥ぐことのできそうな場所を見つけ、 その板を剥がす“バール”のある体育館に向かうのだが、その時、安全のために、 足の遅い春海を職員室に残して後で迎えに行く選択を高遠はする。

しかし、体育館でバールを手に入れた高遠は、そこで、ある屍人と戦い、 その間に身の危険を感じた春海は職員室を脱出し、どこかに身を隠してしまう。 最終的には、屍人を倒し、隠れた春海を見つけ、職員室の窓を覆っている板を“バール”で剥がし、 脱出するのが最初の本来の道筋だ。


この道筋は、壊すことはないと思う。

なぜなら、危険だろうとも、この過程を守ることができれば、二人が無事なのは確実だからだ。 しかし、問題はこの後、次に二人の居場所が明らかになっている同日23:45。 学校から逃げ延びた二人が身を隠す、刈割の廃倉庫から始まる悲しい一連。

もし、この時も“正しい”道筋のままだった場合、高遠玲子はこの時間から始まる行動により、 春海を残し、早々に命を落とすことになる。これを見逃すわけにはいかない。 だから、昼子は、居場所が分かっている2:18から行動を開始した二人が、学校からの脱出した時点で、接触し、 病院に導くことで、流れを変えようと考えていた。

また、高遠には事前に地図を渡せそうな見込みがあることから、地図に病院に向かう指示を書いておくことも考えてある。 だが、地図への指示の記載は済ませてはあるものの、最初の介入であるこの時間にこの場所へ自分が直接向かうとも決めていた。

“果たして本当に流れを変えることができるのか?”

それを、まず、確かめるために。

だが、ここで昼子の計画通り、二人を病院へ連れていくことができたとしたら、 23:45に高遠がするはずだった重要な行動がまるまる空白になる。 それが、今後に影響を与えるのは明白だった。


この時、

高遠のするはずだった行動は、“神”を滅ぼすことができる武器に宿る力を解放する、儀式めいたものも含まれている。 その時に必要となるのが、学校で手に入れた蝋燭と、刈割の廃倉庫にある“ライター”であり、 昼子の計画通りに、二人を病院へと向かわせると、“ライター”は手に入らず、また、儀式も行えない。

儀式については、人が集まってから、体制を整えて、改めて行えば済む話だが、 廃倉庫にあるライターの代わりは、自分が用意しておきたいと、昼子は思っていた。

流れを変えることで起こる弊害は、流れを変えた昼子が補わなければならないのは道理だ。


しかし、


“ライター”


レジの隣になんとなしに置かれているものや、タバコを吸う村人の手にあるソレ、ありふれたものであって、単価も安い。


だが、“否子”の手には遠かった。


金は与えられていないため、購入することはできない。 牧野や高遠に、それだけを密かに頼んだとして、子供にそれを手渡すことに疑問を感じないかといえば、二人とも感じる性質に見える。 また、高遠に事前に自分で持っておくように告げておくか?とも考えたが、昼子が用意できていれば、必要ない指示であるし、 最初から異界に飲まれた高遠がライターが持っているということで発生するかもしれない事態が全く想像がつかず、 本来、ライターを手に入れた高遠がどうなったか、ということを考えると、むしろ危険かもしれなかった。

そして、計画から考えて、7:13に美耶子と須田恭也を迎えにいくために刈割に向かう予定のため、 その時に廃倉庫に寄って…とも考えたが、これも無理。 その時間、廃倉庫の前には銃を持った屍人がうろついているし、ライターが存在している保証もない。 後に体制が整い儀式を行いに向かう途中、拾っていくという選択肢も、同じ理由、 ライターが存在している保証がないということからこの方法も頼りない。

やはり、一番確実なのは、昼子が事前に用意しておく、ということだ。



しかし、村を歩きまわり、探してみたこともあったが、探してみると油が残っている状態のものが落ちていることは意外とない。 火がつけば、ライターでなくても、と考えた。しかし、死んでも時間が経てば蘇る化け物が無数いる状態で、 あの世界は絶えず雨が降っており、日光もそれほど差し込まないことを考えると考え付いたほかのものでは頼りなさ過ぎた。

そして、いくら無視をしなければならない否子であろうと、人目に付く場所で罪に咎められるようなことをすれば、 ただでさえ恰好で目立っているのだ。行動が見逃されることはない。 加えて、せっかく、無害による暗黙の了解を利用することで自由に村のなかを歩きまわれているのに、 ここでそれが綻べば、それこそ本末転倒だろう。


―――…手に入らない物じゃない。
そう、昼子が本当に手に入れようとあがいいるものと比べれば、容易く手に入るもののはずなのに。



天井を見つめ、考えていた昼子は起き上がり、しばらく、沈黙し、 その後、机の上の用紙をまとめると綺麗に織り込み、脱いでいた黒衣や、着ている着物の帯に仕込んだ隠しポケットへと仕舞う。

地図が発見されるのは不味いため、いつでも持ち歩けるように自分の手で作ったものだ。 布が重なり厚くなっているところを利用したため、よく見なければ分からない。 また、着ている着物と違って黒衣や帯は、洗うと型崩れしてしまうため、世話をするものの手に渡る回数も少ない。 もし、昼子が美耶子と同じような体の線を出す黒のワンピースが普段着だったならなかなかこういうのは出来なかっただろう。 だから、この服装も、ある意味、助けだったかもしれない。

ただ、この服装でなかったら、正体を早々から掴み、周りが無視する回数はグッと減っただろうし、 地図を隠すからと、手放せなくなり、夏にも欠かさず黒衣を付け、着物の帯を緩めることもできないまま、 くらくらすることもなかっただろうに、と思うと、どちらがいいのかはわからない。 そして、否子としての全てを身に付けた昼子は、ベッドから降り、部屋の扉を開けた。


―――こんな風に自分(昼子)の立場を散々利用しておいて、不当だと嘆くのはお角違いかもしれない。


人のいないシンとした廊下に出て、どこか薄暗い家のなかを進む。
ちりり、という鈴の音とともに、きし、と足元が鳴った。


―――けれど、


宮田の家に来て、部屋を用意されたとき、昼子は意外に思った。 預けられると聞いて思い浮かんだのは、旧宮田医院にあったような隔離室だったからだ。

だから、幻視のテストが終わった後、美耶子に一足早く完成していた美耶子用の地図を鉄格子の隙間から渡し、 ケルブの首輪の内側にあらかじめ作って置いた隙間にしまって置くよう指示を出しておいて、 閉じ込められる腹を括ったのだが、こうして、鍵もかけていないことを考えると、 考え付くのは、やはり、宮田司郎という人間の信仰無き従順さだった。

預けられて一日目、それなりに宮田の案内のもと、家のどこになにがあるかを確認した。
“それ”は、その時に、目に触れた。


―――まるで、罰を受けているみたいに


広い家のなかは、二階が洋風で、一階には和風の畳張りになっている部屋がいくつかあり、それは例にもれず皆静まり返っていた。 深い色合いの木目の浮いた階段を降り、一階の奥まった場所にある襖に手をかけると、 黒衣の顔に垂れている布を捲り、襖を開けると目を凝らした。


無知の平穏も、信仰の救いも、行動の手段さえ。


―――目の前に広がっているのにいつも手が届かない。


目を凝らしたそこにあった閉じられた観音開きの前戸は、 前に見たときと同じ姿のまま、すっかり閑寂になりはて、声を潜めていた。 それを確認すると、床から畳へと足を進め、暗闇が森のようにうっそうと覆いかぶさってくるような部屋のなかへと入った。

僅かに鼻に香の匂いが香るが、思っていたそれよりとても薄い。 閉められ、久しく開けられていないのだろうそれは、存在を持て余し、物となり果てているようだった。 正面に立ち、手を握り締める。今日は確認に来ただけ。 もし、儀式の日を迎えるまで、火を手に入れられなかったときのために。


いくつもの保険が必要だった。


力も無い。手段も無い。ただの一人が絶望の前に立つには。


けれど、ざわざわと、心のなかで過去の子供が騒ぎだす。


上の梁に並べられた虚空を見つめる人々の視線が薄暗闇のなかで淀み、自分を咎めているように見える。 それに弁解する気もなく、閉じられた前戸にそっと手をかけた。自分の自責が見せる思い込み。 あれはただの写真。そうわかっている。手が震えた。 その震えに、真っ白な犬の毛並みを撫でられなくなった日を思い出し、とうに踏み出したはずだ、と自らを叱責する。


――― 殺人をすると決めた。他人の命を見殺しにすると決めた。


それでも、行動から生まれる背徳が、まざまざと概念の根の深さを物語った。

きっと、昼子には“否子”を無視する村の人々を責める権利はなかった。 村の彼らが慣れ親しんだ教えを守り“否子”を無視するように、 昼子も過去の自分が受けた教育によって作り出された道徳を捨てられないでいる。


自責。


命を永らえさせる為に生まれたものであるはずなのに、そこに住みつく道徳は、命を永らえようとする行動を阻むことがある。 だが、今、こうして未来に備えるか、それとも、解決に導いてくれる“何か”を待って、まざまざ彼らと途方に暮れるか。




未来を知っている昼子に残された答えは、




一つしかない。








【プロメテウスと火】

ギリシア神話。プロメテウスは天界から火を盗み、人間に与えた罪でカウカソス山の山頂に張り付けになり、
生きながらにして永久に毎日肝臓をハゲタカについばまれる罰を受ける。







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あとがき




やらせようか、やらせまいか。フィクションだからこそ選択できる悩み。

もし、自分が、羽生蛇村に生まれたら。ぶっちゃけすぐに逃げ出したい。
宮田病院をちらっと確認して、聖地巡礼した後、逃げ出したい。