▲内と外
2002年
季節は順調に飽和する命を減らし、消える前の灯のような、芯に触れる虫の音があたりに響くようになった。
あんなにも遅い秋の歩みに焦れていたというのに、気がつけばもう空は抜けるように高くなり、蝉の声が絶えている。
次からは鏡を用意する、と昼子に宣言した宮田は、あれから目の役を再び引き受けることはなく、
病院と神代家と自宅を行き来する日々を過ごしていた。健康診断も恙無く毎回行われ、
美耶子のほうも、姉の顔を見てからというものの、翌日から随分と落ち着きを持ち、
宮田の診察を大人しく受けるようになっていた。
その変化を静観する一方で、腑に落ちない宮田は、その日、大人しく自分で熱を計っている美耶子に向かって、
「これからは目の役は引き受けない」と言い、鏡を使った幻視の方法を提案して先手を打っておくことにしたが、
不安そうだった前日とは違い、美耶子は、ふてぶてしく「もういい」と言い放って、不敵に笑った。
「ひとりではないから」
まるで、救いでも見つけたみたいに。
生贄の少女が、不要な少女に一体何の救いを見出すのか。
どちらも大して違わない結末を抱えているというのに。
生贄の子供が言った、「一人ではない」ということが、なんの慰めになるのか、
宮田にはわかる気がしなかった。
***
都心から離れ、緑豊かな、一昔前の面影を色濃く残している村の真ん中を、村の水源である眞魚川の本流は流れ、
そこから枝分かれるようにして水を引き、そこらじゅうに棚田を広く展開させている。
山々に囲まれ、谷の底、ほんの僅かにできた平野に住居を並べ、それを縫うようにして、
山の裾からこぼれた木々が村の中に、斑模様を描くようにして森を作っている。
言わば、盆地と呼ばれる地形ではあるが、真ん中に通っている川のお陰か、空気が淀むことはないように思えた。
ただ、日本特有の肌に纏わりつくような、薄い浮く水の中にいるような、しっとりとした夏の空気だけは、
川の力を持ってしても排出できないようで、村の夏はそれなりに暑く、避暑地とは言えなかった。
また、冬は雪が積もるほど寒く、谷の底には冷気が泉のように溜まり、骨まで冷えるような日もある。
村の歴史は古いが、もともと、閉鎖的な村であって、独特な信仰もあり、
国の歴史というよりは、村独自の歴史という見解のほうが正しい。
よって観光業が発展するはずもなく、外部から好き好んで村に来るものも少なかった。
そして、1920年代頃、外部との流通のために村が用意したものは、
村の山から採れる特殊な鉱石の採掘事業であって、
明け渡さず、身を削るその体制はまさに、籠城ともいえた。
それは、現在でも続き、
羽生蛇村というのは、ほかの地域から隔絶されている。
村の中での生活というのは、こじんまりとしながらも、
村の内側で完結できるよう、必要なものはそれなりには手に入るように整っていた。
しかし、モノは手に入るが、都会から見れば、それは、古いか、主流とはちょっとずれた品であって、どれもこれもにクセがある。
だが、そうであっても、“外”を知らない村の住人にとってみれば、知る由もない。使えれば、別に構わないのだ。
それからわかるように、彼らにとって一番大切なのは村での生活であって、効率ではない。
そもそも、効率を考えたなら、こんな場所でジッと、不便を強いられながら生活をするはずがない。
不便を覆うのは、慣習か、愛着か。それとも、未知への恐れと面倒さ、からなのか。
他人から見れば、単なる下らない執着に見えるかもしれないものが、村と住人を確実に結びつけている。
宮田がそれを顕著に感じられるようになったのは、大学に進学し、村から離れ、“外”を知ってからだった。
大学のある町では、交通機関は分刻みで道をかけめぐり、町は目まぐるしくその姿を変え、一時だって、人を留めることはなかった。
道や店だけでなく、食事や人ですら、あるとあらゆる“代用品”が満ち溢れ、少しでも良いものがあるのなら、
ボロボロと、“今まで”を手から落としたって構わない。まるで村とは正反対であり、その形状で成立できている。
そのどちらが正しいか、宮田は、院と研修を修めた後も、答えは出すことはしなかった。
ただ、薬が切れたからと、現状が良くもならず、悪くもならず、診断の合間に世間話をしながら、
町に出て、手術をすることを拒んでいる老人の相手をしている自分を思うと、
疑問を持ちながらも、どうにも前者であるらしいと、宮田は村から結びつけられている不可解なモノの存在を自覚する。
結局のところ、
資格をとった後に、完結しているこの村へ、村唯一の病院の医師として、
逃亡せずに帰って来たのは、自分のほかにないのだ。
いつもと同じように、いつもの薬を処方し、それらを受け取って杖をついていく老人が病院を去ると、今日の午前の診察は終了だった。
老人が6人に、子供が1人。狭い村であるから皆顔見知りであり、声をひそめながらも待合室で世間話が途切れることはなかったが、
人が去れば当然と静かになる。病院のスタッフの足音だけの空間に、息を吐いた。
「さっきのお婆ちゃん、やっぱり、手術は嫌だって言ってましたか?」
診察につかったものを取りにきた恩田美奈に向って宮田は頷くと、背もたれへと深く背を預けた。
机の上には、まだカルテが置いてある。今日最後の診察を受け、今帰って行った老人は、膝を患ってずいぶん長いようだった。
原因は老化によるもので、膝の軟骨が削れ、炎症を起こし痛みを発生させていた。
それにより溜まった水を抜く治療を何回かしたが、どうにも老化という絶対的なものに対して、それは付け焼刃程度でしかないようだ。
痛みを取り除くには、人工関節してしまうのが一番だったが、本人がそれを拒み、
いつもと同じようにその場限りの治療で済ませてしまっている。
別に経済的に苦しいわけでもなく、手術に耐えうるだけの体力もある。
体に物を埋め込むという手術が恐ろしいとは言っていたが、
宮田が思うに、老人の口ぶりは、手術のために“村を出る”、というのが、手術を拒む最大の理由らしかった。
「リハビリもありますし、なるべく早いほうがいいんでしょうけど…」
「強制はできない。本人が決めなければこっちはどうしようもないだろう」
そう言ってカルテを手渡すと美奈は眉を下げ、宮田を物言いたげに見つめたが、何も言わなかった。
医者は、患者が承諾しなければ治療はできない。それを十分に承知しているからだ。
患者の体にメスを入れるような医療行為というのは緊急時をのぞき、
治療を目的としていること。承認された方法で行われていること。患者本人の承諾があること、を必要とする。
どれか一つでも欠ければ、医療行為ではなく、それは傷害や暴行に値してしまう。
例え、それが患者にとって、どんなに最善の治療であってもだ。
「ここでその手術ができればいいんだけどねぇ…」
今日、何度目かの手術の説明を聞いてから、そう弱く零した老人は、宮田に向かって、不満と懇願を混ぜたかのような、
自分の弱さを知っている人間特有の目を向けていた。
宮田は内科医だが、土地柄、簡単な手術なら行うことはある。
だが、今回の手術について問題なのは、その後のリハビリだ。
村で唯一の病院ということもあって、宮田医院はあらゆる病気への対処が求められるが、
施設や設備、人員に関しては、いまいちついていけていないところがあった。
だから、普段から、病気の原因を突き止めたその後の治療に、長期の入院や、リハビリ、
専門的な機器を用いる難しい手術が必要なときは、町の大きな病院へ紹介状を書き、
患者が負担にならないように、送り出すようにしている。
今回の件もそうした方がいいだろうという判断は既に下していたはずだった。
人工関節の手術をしたところで、立って歩けるようになるにはリハビリが何カ月もかかる。
付きっきりにできる人員がいないからとはいえ、まさか一人でやらせるわけにもいかないし、
訓練を受けていない者が中途半端に手を出して、途中、転びでもしようものなら、台無しだ。
村を出て、施設と設備と人員が整った病院へ行ってもらったほうが本人にとっても、何倍もいいはずなのだ。
だが、それを何度説明しても、老人は頷くことをしなかった。
縋るような目をして村に住み、不便を飲み込みながら、ひたすら“何か”を待っている。
待っていても、なにも訪れることはないというのに。
その様子を思い出していると、チリ、とこめかみを焼き付けるものが走り、宮田は目を細めた。
色濃く、その姿を見せつけてくる、村と住人を結び付ける不可解なもの。
それは己にも結びついていると、自覚していたはずだった。
だが、老人の疑わず、待っている姿を見ていると、それがとても異様に見える時がある。
ここは、裏も表も、しがらみが多い。
しかし、そのしがらみを掻い潜り、村を脱出しながらも、
脱出したその先で、また新たなしがらみに巻かれた人間もいる。
どちらがマシなのか。既に村に絡めとられてしまっている宮田にはわからない。
だからかもしれないが、あれから黙って、宮田が居座ったままの診察室の片づけをしているその横顔に宮田は問いかけた。
「妹のことはどうなった?」
恩田美奈から妹のことを聞いたのは、相談がある、と彼女が持ちかけてきた先週のことだった。
相談内容は、上京し、一人暮らしをしながら働いている自分の妹が、どうやら悪徳商法にひっかかり
やっかいなことになっているということで、それを聞いた宮田は、深刻そうな顔で自分にその対処法を訊いてきた美奈に対して、
逆に、何故そんなことを自分に訊いてきたのかが気になり、問いかけることにした。
すると、
「その、宮田先生は、一番、町で生活してた期間が長いからって、先輩方が…」
と目を泳がせながら美奈は答え、ようやく場違いということに気づき、謝った。
確かに、病院内で働いている面々と比べれば、宮田は一番、外のことに詳しいかもれないが、
悪徳商法について相談するのなら、警察や弁護士のほうがいいだろう。
その時はそう言って話は終わったが、とくにどうなったとは、今まで訊いてはいなかった。
だが、どうやら、あまりいい現状ではないらしい。
美奈は宮田から急に振られた話題に微笑み返そうとして、妹と聞いて、その微笑みは萎んでいった。
「まだ、落ち込んでいるみたいなんです。
もともと、あんまり周りと馴染めていないみたいだったから、外が余計に怖くなっちゃったみたいで」
「警察には?」
「あ、それは大丈夫です。先生に言われた通りに、妹に言って、相談するように勧めておきました。
一応、そっちは解決したみたいです」
「そうか」
「あの時はすみませんでした。…けど、ありがとうございます。宮田先生」
そう言って、幸せそうにほほ笑むと、まるで子供のように見える。
そして、いそいそと機嫌良く、片付けを再開している姿は、教師にに褒められた優等生と重なった。
そう見えるのも可笑しくはない。宮田は思い出す。彼女はまだ21だ。
その彼女が、引く手数多な看護師の資格を持っていながら、看護学校を卒業し、
この閉ざされた村に戻ってきたのが他人事のように不思議だった。
妹も今回、外で災厄に見舞われていたとしても、それまでに、外に行く選択をし、普通に暮らしていたのだから、
その姉が、都会の利便性や特典に憧れを持ったとしても不自然ではない。
「君はなんで村に戻ってきたんだ」
「え?」
「望めば向こうで就職もできたはずだ。
確かに村との性質の違いはあるが、普通に気をつけていれば何事もない。
こんな村より、外のほうがずっと…、便利だったろう」
こんな村、と言い捨てると美奈は驚いたあと、困ったように笑う。
チリ、と先ほどよりかは生ぬるいものが駆けていった。
子供のように見えても、その表情は“年上”や“大人”特有のそれだった。
「…そうですね…でも、私はこの村のゆっくりとした…穏やかな感じが好きです。
都会のほうはなんだか速いっていうんでしょうか、それに自分が振り回されてしまいそうで怖くって。
妹の話を聞いてるせいかもしれませんけどね」
チリ、
「それに看護師が必要なのはここも同じですから。村はお年寄りが大勢ですし」
「そうか」
「…って言っても、もっと経験のある看護師の方のほうが、病院の力にはなれるんだろうとは思うんですけどね」
「いや、君は良くやっている」
「あ、ありがとうございます!」
宮田がその華やいだ笑みを直視することはなかった。伏せた眼の奥で揺れているものがある。
こんな村、に含んだ印象はきっとそれぞれで違うのだ。
美奈は、交通や、設備のことを思い、宮田は、それもあったが、増して、
隔絶されたこの村に根を張っている“掟”を思った。
そうでなければ、この村を“穏やか”と形容することはできない。
思わず過った感情を宮田は抑え込み、思う。
無知だからだ。
無知だからこそ、“何か”を待って時間を享受できる。
チリ、と先ほどまでのなかで一番強い何かが頭を通り過ぎていく。
痛覚の無い頭のなかを引っかき回し、ただ光だけを走らせる、幼いころから覚えのある、癇癪の爪。
その爪が肉体を抉る瞬間、一瞬、黒い縄が宮田は見えた気がした。
どす黒く、わずかに腐臭のする縄。それが自分の首に巻きつき、村の奥深くぽっかりと空いた穴へと繋がっている。
腐臭はその奥から立ちこめて、縄にしみ込んだ赤が首の皮膚にぬめりと正体を明らかにする。
声がする。
“あの大きな口は”
“食べるのよ”
“娘の内を”
“はらわたをね”
「あ」
チ゛リ、
顔をあげた宮田が、何の変哲もない目の前の灰色のデスクに気がついたのは、美奈が不意に上げた声がきっかけだった。
頭で鳴る音は止んでいたが、じわっとこめかみに汗が滲んだ。“今は夜じゃない”そう自分に言い聞かせ、息を吐き、
一拍開けてから、宮田は声を上げた美奈を確認した。
驚いたように窓の外のなにかを目で追っているらしく、一体何を見ているのか、宮田の位置からは見えない。
しかし、それを訊く前に、美奈はすぐに目線を反らし、釈然としないような顔で片づけを手早く再開しだす。
気になった宮田は“爪”の与えた妙な倦怠感を感じながら、椅子から立ち上がり、窓へと近寄り、その姿を見た。
―――。
言いようもない、頭のなかを、ざらりとなぞられる感覚にとらわれた。
「先生?」
無言で踵を返し、部屋から出ていく宮田に美奈の声が掛る。
それに最も端的に言葉を返して、宮田は先を急ごうとした。
役目が自分を突き動かす。
「否子が村を出歩いている」
「え?」
美奈の不思議そうな声がして、宮田は眉を顰めて振り返った。
まさか、“隠されていること”のみならず、村を穏やかと称した人間は“否子”の存在すら知らないのか?
だったら、なぜ、あの姿を見て、息を飲み、“掟”に従い、不器用な無視をしたのか?
そんな宮田の怪訝な顔に対して、美奈は言う。
「いえ、その、そうじゃなくて。先生…
知らなかったんですか?」
【生命倫理学の本】
書庫に忘れ去られている古い本。
そのうちの【医療の倫理ジレンマ】の項目に、走り書きがある。
[医療の倫理ジレンマ]
例えば末期癌が発見された高齢者にその結果を告知するべきかどうかという問題に対して、
拠り所になる倫理原則によって、導き出される結論が、「告知し、死に備えるべき」という結論と、
「患者にショックを与えないために告知しない」という、まったく逆のものになってしまうというジレンマ。
祈りを放棄し、麻酔を受け、医者の治療を受けることは、神を疑ったことになり、
それは罪となりうるのか
ということで、外を出歩いていることが宮田先生にバレました。
なんで宮田先生が主人公が出歩いていることを知らないのかというと、
宮田先生が村を出てから医者になるまでの時間が関係しています。
病院のあれこれとかはざーっと調べただけなので、恐らく間違いだらけだと思うのですが、
フィクションだと思って目を瞑って頂けるとありがたいです。
一般的な医者になるには、医学部のある大学で院まで進み、その後臨床研修2年を終えなければならないそうなのですが、
そうだと、ぼんやり計算ですが、宮田先生は18で大学に行き、6年(院含み)で24歳。
その後、臨床研修2年で26歳。…そうすると、なんということでしょう。
医者として村で過ごしたのはたった一年弱ということになってしまうんです。
なんか、印象が違います。多分、宮田先生のオーラのせいかと。(院長ですが?みたいな)
そして、それに主人公の年齢を当てはめるとこんな感じ。
大学→研修→医者
18歳→24歳→26歳
5歳→11歳→13歳
主人公は6歳のときに“昼子”となり、8才のときに外をぶらぶらし始めたので、
5才のとき、もうすでに宮田は大学に行っており、村に戻ってきたときには、外をぶらぶらは村の暗黙の了解となっていたので、
伝える人が居ない、そして、昼間、宮田先生は病院に勤務しているので、結局のところ、知る機会がなかった、という感じです。
(美奈は主人公が外をぶらぶらしてた時、高校生なので、知っているという)
研修を宮田医院でやれば…とか思ったんですが、研修をする病院にも決まりがいろいろあるらしく、
そこまで風呂敷を広げられる気がないので、とりあえず、こういう感じにしときます。
若いうちから病院に村の医者として居たっていう設定や、
長期入院できるっていう設定も、美味しいのですが、この話ではカットします。
それから、イグイの美奈さんの印象は、しっかり者だけど天然、後に、癒し系だけどヤンデレです。