▲否子




季節は夏だった。
8月を過ぎ、緩やか過ぎるほど遅い秋の歩みに焦れるようにして、青いすすきが黄色い小さい花をたらし始めていた。 大字粗戸の商店街を過ぎ、田園風景の広がる刈割では、ほとんど水が張られたままの田んぼの中で、 重い実を抱え込むように頭を垂れている稲穂が、慰めにもならない風に揺れ、さらさらと黄色みを帯びた緑の波を作っている。

少し見ればわかった。去年よりも、緑の面積が減っている。
てらてらと、何も植わっていない田んぼの水面が顔に反射するのに目を細め、この季節の流れのような、 緩やかに土地が死んでいく様に落ち着きを感じずにはいられなかった。

人が減り、土地柄、山に囲まれているせいか、そのまま声を外部に漏らすことなく山に飲まれて、 この村は消えていけるような気さえさせてくれる。それが待ち遠しく、同時に絶望を感じさせていた。 その死に目に自分は存在しない。きっともう自分が死んだあとにこの村も死ぬのだろうという予感を感じていた。 自分の一つ前の父のように。その父のように、その父のように。自分から続く先は、いつかは途切れるのだろう。 けれど、今の自分ではない。それが絶望へと繋がっている。

しかし、これは強制された絶望ではなかった。
たとえ、この村から解放された日が明日やってこようとも、恐らく自分は何も変わりはしない日常を続けるだろうとも思うからだ。 村の死を望む自分自身が、この村以外の生活を知らない。知る気も起きないまま。 そして、だからこそ、じわじわとやってきている緩やかな荒廃に、安堵している。

死は何者にもやってくる。

命は勝手に与えられるのだから、死ぬのだって勝手に命を奪われるのが条理なのだろう。

そして、自分はそれを冷めた目で待っている。



***



陽はもうすでに傾きかけていた。
もともと、大きくのっぺりと、地面に張り付くように展開されたこの神代家の室内は、どこであろうと薄暗い雰囲気を作り出していたが、 斜めになった陽の光から遠い上座は、墨を濁らせたように暗い。 そこに座る人物達の表情も、その墨を被ったかのように不思議なほど看過してしまう。 その対面、まだ畳の目を確認できるほどの光が漏れた障子を背後にして、 宮田司郎は、自分を呼び出した神代家当主、神代政太郎に向かって、深深と頭を下げていた。

神代から連絡を受けたのは珍しく昼だった。
丁度午前の診療を終えた時間であって、知らせを聞いた宮田は、すぐに閉業の準備を済ませた。 突然の午後の診療の取り止めに、難を示したのは、今年入ったばかりの恩田という若い看護婦だったが、事情を知ると、 最終的に納得した風だったのは、彼女もこの羽生蛇村の出身であり、時々予告なく休診となる病院を知っていたからだろう。

その納得は、この村全体に広がっており、急患でもなければ、ほとんど常備薬をもらいにくるばかりの高齢者であれば、 誰もが話題にすることもなく納得し、疑問にも思わずに、神代という存在を諒解しているのだ。 それほどまでに、この羽生蛇村という閉ざされた村では、神代の力は絶対だった。 そして、その力の行使がもっとも効く家が、宮田家であり、その当主として宮田司郎は、 その命令に向かって是を唱えなければならない。

今回は一体、どのような名目か。

神代家当主の押し殺したような声を確かに頭に留めながら、宮田は、視線をほんの少し、ずらし、 当主の隣に座した、恐らく少女と思われる人影を見た。 恐らくというのは、暗い墨のような陰にもまして、暑い盛りとまではいかないが夏の残った気候のなか、 黒い布をその子供は被り、すっぽりと頭を覆ってしまっていて、判別がつかなかったからだった。 衣服は、白い着物であり、それを纏めている帯は、血のように赤い。どこか禁忌的な存在だと受ける印象は、 恐らく間違いないのだろう。何か、やっかいそうなことだ。宮田がそう思い、 子供の着物の襟が普通とは逆になっていることに気付いたところで、当主が言った。


「否子だ。」


当主は“いらず”と言った。
ああ、と納得の声を音は出さずに、宮田は当主へと視線を戻す。


「コレは、異質ながら美耶子の双子の姉として産まれた。名前を“昼子”。御印をもたない“不要の子”だ。」


13年前。今から26年前の災害で“神の花嫁”を無くしてからというもの、10年もの間、神代家は娘が産まれなかった。 これは、儀式が失敗した呪いがまだ続いているからだ、と言う者もいたが、10年経って、長女である亜矢子が産まれ、 3年跨いで、次の花嫁である娘を妊娠していると分かると、村はやっと儀式の失敗を拭い去る機会を得たと和気だったのだった。 しかし、その“神の花嫁”である美耶子が産まれたと同時に現れた特異は村に不和をもたらした。 それがこの娘であり、名を昼子。俗に“否子”と言われる、不要の子供。


「“否子”は、本当ならば産まれ落ちると同時に“天戸”へと納める取り決めとなっていた。  だが、今回の“否子”は、事例の無い“花嫁”との双子だ。これでは、赤子の時点でどちらに御印があるかわからず、  ゆえに葬ることはしなかった。だが、産まれて数年が経ち、盲目の美耶子のほうに強い御印があることがわかった。  そして、こちらが昼子。“いらず”となったが……もう、我々に失敗の余地はないのだ。  美耶子の儀式が終わるまでは、こちらも保険として、引き続き生かすこととなっている」

“否子”は必要とされている姉妹のうち、主に次の花嫁の母となる姉の双子の妹として稀に産まれるのが殆どであり、 神の花嫁の双子というのはこれが初めてだったのだという。異質中も異質の“否子”。 不要な子供として、黒衣(くろご)を被り、右の襟を前にした経帷子を模した着物を纏って、居ないものとする。 宮田は、保険として生き残った子供の話を聞きながら、再び視線をずらし、その、昼子と呼ばれた子供を見た。 暗い影を背後に、沈みこむようにして座る子供は、話を聞きながら微動だにしない。

まさか妹が盲目なら、姉は聾唖なんてことはないだろう。ならば、自分の生き死にを自分の父親に、 こうもあっさりと振り分け続けられるその心中とは一体どんなものだろうか。 酷く悲しいか、と考えて、いや、どうだったか…と宮田のなかで少年が首を振る。 残っていれば悲しいが、残っていなければ、空っぽだ。或いはそんなものを感じる経験など無いかもしれない。


「しかし、儀式も間近になり、これから美耶子は“花嫁”として二つ目の“御印”を賜る大事な期間へと入る。
 “否子”の子供は不和の種。故に、保険といえども、美耶子のそばには置けぬ。…宮田司郎」


薄い幕のその奥で、白く浮かび上がるような輪郭は、のっぺりとしているように見え、当主に頭を垂れてからは覗き込むのを宮田は止めた。 暗い影の中では、どんなに覗こうとも、少女の顔はわかりはしない。それに同じものを探しあてるには、幼すぎた。 象徴と存在を奪われた抜け殻は、役割に準じるだけなのだ。




おおん、おおん、と、増築を繰り返し、複雑になった屋敷に響く家鳴りは、不気味に鳴き呻く。 その日、神代に生まれた“余り”の“要らず”の子は、 神代の“余計”の“要らず”を引き受ける宮田に転がり落ちた。

それは、2002年のことだった。








【否子(イラズ)】

意味は「要らぬ子」。親が望まないのに産まれてきてしまった子供のことであり、忌みを込めてその子供を呼ぶ。 あらゆる意味のなかで特に神代の家で生まれる、次の実を産むための姉、 神の花嫁となる妹のほかに、稀に産まれた子を指す。否子には居ない子という意味も持ち、 ひたすら回りから無視をされる扱いを受ける。

その子供は、目印として、黒衣を被り、経帷子を模した白の着物に赤の帯を締め、足首に鈴を付け、
名前は、古事記の「ヒルコ」にあやかった名前を名づけることが多い。



【天戸(アマト)】

不完全な不死である神代の家のものが年老いて、ある年齢に達したら、村の者が不審に思わぬように篭る地下洞窟。 神代家の地下から教会の地下へと存在しているが、その存在は神代家と一部の人間しか知らない。










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あとがき


洞窟はありますが、「天戸(あまと)」という名前は捏造です。元ネタはヒルコと同じく古事記から。(天岩戸の別称)
否子は存在自体まったくの捏造ですのであしからず。

名前変換は無い感じで進んでいく予定なんですが、どうなんでしょうかね、これ。 なんというか、宮田さんの自分の名前に対するアレやコレとかを投影できる感じにしようかなと思ったら、こんな感じに。 ヒルコじゃない本名が呼ばれることがあるなら、あれですね。お話が終わってからです。