「それでは、その出来事によって生まれた強い動揺が、情動を引き起こしたと?」

あえて確信を持ったように問いただすと、鷹揚として瞼はゆっくりと瞬きをする。それを留めた上で、答えを待つ。

―――いいえ、これは私の性分なのだと思います。

引き出される言葉の羅列を信じるならば、そうあれかし、と唱えるべきだと思った。 その言葉に潜んだ無意識の代弁を理解しようと、じっくりと耳を澄ませることとする。


▼南の犬が死んだ


―――きっかけに過ぎないのです。
とても大きく大それたことでさえ、ドミノ倒しのように、きっかけは微々たるものでこと足りる。 もとより、私という生き物を鑑みて、これほどまでに生き物としてアンバランスで矛盾を抱えるちぐはぐなものは 他にないだろうと、いつも思っていたことだったのです。

そもそも生き物というのは自分の生存に対して、存在と対をなすほど貪欲でなければならないものだと思います。 生きる意味、生きる価値などいくら命あるうちに討議しようと、答えなど出るはずがない。 意味も価値も、その人の鼓動がやっと絶えてはっきり判明するのです。

例えば、今わの際で、子孫たちに言葉を残し、綺麗に息を引き取れば、それは語り継げられる美談となります。 その最期は価値も意味も十二分にあるものです。人生を終えたからこそ、残せた価値であり、意味です。 ある面では、人がその瞬間まで生き抜いた意味とは、一見一回のなんの変哲もない最後の瞬きにあるかもしれません。

「けれど貴方は、その必ず訪れるものを待つことができなかった」

割り込むように言うと、彼女は「そうです」と、言葉を遮った不躾な台詞に大して反論も持たずに続けてすらすらと述べた。

―――けれど、それだけならば、私以外の人間だって同じことです。いえ、同じなはずです。

存在価値とは、死ぬ瞬間までわからない。
そのことを肌で理解した瞬間、この地上にある生き物の内、もっとも知恵を持つと言われている人間達は、虚しさに戦慄くのです。 それはなんて気の長いことだろう。そう感嘆を漏らして理由を考え始めてしまうのです。 趣味や恋愛、仕事。のめり込めるなにかを探して。

理念のために事をなす唯一の動物として、私たちには長すぎる猶予があり、 ようやく知ることができた次の瞬間には、虚無へと意識が投げ出される自覚と危機感がある。 命なんて、ただの空しい顛末ではないかと憤る予期もありました。 きっと、なんと言われようと人間は不器用な生き物なのです。

動物たちが当たり前のように、“生きるために生きる”なか、 人間は長い人生を思い“なんのために生きるのか”と苦悩し、 それを本当の意味で得られるのは、死の間際であるということに気がついて、代償の大きさに今更戸惑う。 結果には行動があり、行動には理由がなければならない。 本能に反抗した優れた脳は、教育により、よりまどろっこしいものを求め始め、 死を迎えるまでの仮の目標を掲げるのです。それには、存在理由と名がついています。

命の正しい観測を諦めた人間は、思考にそれを求めるという枷を誰しもが持っているのです。 自分とは何者か、他人にとっての自分とは何者か。 それらを追求することで、三次元の体からまた違う思想的な立ち位置を定め、 理由により自分を立たせることに躍起になりました。 しかし、同時に、それに夢中になることで、より生々しい物体としての自分を忘れていく―――

「よくわからない」

―――簡単に言えば、私たちには理由が必要なのです。 何のためにここにいるのか。それが見いだせない限り、存在する意味が無く、 存在する意味がない者が、理由を求めることを通常としているこの世界に居るのは、……そう。 “とても辛い”。―――ということです。

「存在できる環境だから存在できている。というものだけでは足りない、と」

―――そうです。頭の大きい人間は、思想の置き場に困って、居心地の良い住処が欲しくなるのです。
けれど、これは時間の問題なのかもしれません。人間は子供から大人になります。 自己としての完成が終わると、人は名を子供から大人へと変化させ、 理性的であり、社会が求める自己の仮面を被り生活するようになる。 社会が求める人物を演じることができれば、社会から求められますから、存在理由が生まれ、楽になれます。 けれど、同時にそれなくしては生きられない、生きてはいけない場所へと移される。

物体的自己を忘れた人間は、統制され終わった存在理由を自分の命の形として認識し、 それを自分が生きる上での支えとします。ここまでくると、ほぼ死ぬまでその形は変わることはないのだと思います。

そこまで、聞いて、ようやく、彼女の理由が露わになってきた。
それが彼女がここにいる理由、とても小さく、根源にあったきっかけ。

「つまり、君は、理由を無くしてしまった」

―――そう。

何にしても、例外というものはあるのです。
統制され終わった存在理由がなんらかの形で壊されたとき、人は生きる支えを失う。 挫折というものです。そして、もし、その人物が、統制について、とても従順であった場合、 もはや、物体としての本能はほとんど忘れかけているでしょう。社会が求めるのはいつだって理性です。 社会が求めるものを提供し続けた人物が、存在理由を失った時、残るのは液体のような地面です。 歩くのはほぼ不可能。それは生きる道筋を諦める原因ともなります。 本能には「ただ生きたい」というものも含まれていますから。

機能的であるようにと教えられ、もっとも機能的であろうと実行し、役割を得て、 それを取り上げられたとき、残るのは深刻なシステムエラーであり、己という存在の矛盾です。

そして、

結局のところ、そのエラーを自己修復しなかったのは、私の惰性なのでしょう。

「……」

―――…人間とは、環境のヒエラルキーの頂点に立っていながら、 底辺の微生物達が当たり前にできていることをできていないのかもしれません。 命の形の認識を困難にしているのは人の知恵です。 確かに楽園と呼ばれる場所から追い出される理由に足るのかもしれませんね。

「それが君の宗教か」

―――…どうなのでしょう?わかりません。 私自身、そのことについて詳しいわけではないですし。 ただ、そのへんの皮肉だけは、頭に焼きついていただけなのかもしれません。

生物のなかで突出する力の源である知恵が、人間を幸せから遠ざける。幸せになるために知恵をつけたはずなのに。 そうですね。突き詰めれば、国籍も年代も越えて、賛同を得るというのはきっと多くの人と共感する部分があるからじゃないでしょうか。 そこだけは素直に凄いと思います。そして、何よりも、私が気に入っているところがあります。

その概念の中で、私という存在は永遠に許されることはない――――

「…そろそろこの問答は終わりにしたいと思う」

 終わりと聞いて、壊れた笑みのまま、彼女はゆるゆると頷き、窺うようにしてこちらを見上げる。
その目に浮かぶ感情は、戸惑い、安堵、不安。そして、ついに、耐えきれなくなったのか、口を開いて問う。

―――これから、私はどうなるのでしょうか。

「これからを知りたいと?」

―――……いえ、どうなろうと、もう仕方ない立場ですね。そうなろうと思ったのも、私です。

「君の言い分が、そうであるならば、そうなるだろう。」
頷いてやれば、残ったものを振り払うようにして、重苦しい息を吐き、達観したまま、身を任す。

―――そう。あとはまっすぐに、落ちるだけ。










南の犬が首を括って死んだ。

主人に「死ね」と言われて、待てを知らない犬は、それはそれは潔く。
貰った首輪を首に巻きつけ、ただ一息漏らして、
あとはまっすぐに―――。

【南の犬の唄】




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あとがき


愛が重くて書けなかった奴をじわじわ始めたいと思います。次から過去編。