不明瞭な不安は、知るという行為によって安堵にかわるか?
女は良くも悪くも言葉に忠実だった。
治療をするにあたって、邪魔になる水を吸った上着を脱がせ、血によってへばりついたシャツの裾をつまみあげると、
スクアーロにそれを切っていいかどうか訊いた。
女の一挙手一投足を目で追い、警戒していた彼は、そんな血みどろなシャツどうしようと別にいい、
再び着るわけがあるまいに、と内心、毒吐きながら、無言を貫いた。
沈黙は肯定としていた彼女は、ぐっしょりと血に染まるシャツにハサミを入れ始める。
それに敢えてなにも言わずにいた彼には、傷の熱で火照った皮膚に冷たい刃先がときどきふれるのが不快でしょうがなかった。
ちょうどハサミがシャツの半分まできたところで、スクアーロは、あたりがやたら静かなことに気がつく。
じゃきじゃきという布を裁く音の他に、二人分の息づかいだけの空間。
あのどしゃ降りの雨はいつのまにか止んでいたらしい。
彼は意地のように顎を引き、腹筋をつかって、走るハサミの先を警戒して見つめていたが、
それに気がついて、何故だか急に馬鹿らしくなってやめることにした。スクアーロは体の力を抜き、
白い、のっぺりとした不思議な天井を見上げて息を吐いた。
不思議な感覚だった。
傷もさっきまでの争いも死も、ハサミを持った傍らの女ですら、すべて遠いことのように思えた。
しばらく、彼はぼんやりと天井を見つめたままでいた。
女は急に態度を変えたような男を訝しんでちらりとみてみた。その視線から逃げるように目を閉じた。
揺れる暖炉の炎の熱を感じながら、自分の背中が体温で暖まった床にとけていくような感覚がした。
静かなことには変わりはないが、目を閉じると、時計の音や暖炉の火の音が聞こえる。
それらはオレンジ色の斜光のような雰囲気に溶け込んで、トクトクトクと、鼓動を刻み始める。
彼の意識は次第にその波音に飲み込まれていった。暗く、暖かく、そして苦悩を忘却するその奥深くに強く惹かれる。
全てを忘れてしまって、満ち足りた眠りのあとか、眠りに落ちる前のような穏やかさに、身を任せ、ようとしたとき、暖炉の火が大きくはぜる。
パキ!
その音に引き戻されたスクアーロは直後にジャキンと布が一刀両断された音を聞いた。
ほんのわずかな時間、気を失っていたらしい。
彼は無意識に咎めるような目で彼女をみたが、彼女は彼を一瞥したに過ぎなかった。
***
女は用意してあった熱湯を盥にあけて、白いタオルを浸して固く絞る。
まずは傷から遠いところから拭いていき、傷付近になると新しいタオルを用意して慎重に血を拭った。
そして、一般人が持っているはずもない、立派な手術用具をとりだした。
女が自分のことを訊くなという理由はこれにあるのかもしれない。スクアーロはぼんやりと思ったが、口には出さなかった。
彼女は透明な瓶を取り出して、その中にはいった液体を注射器に入れていく。
「麻酔」
「いらねぇ」
彼は上腕に巻きつけたゴム紐を振り払った。
「暴れられたら治療ができない」
それでもスクアーロは麻酔を拒否した。
注射器を弾き飛ばし、女を睨む。かまわないからこのままやれと彼は言っているのだ。
彼女はそれを無言で見つめ、使わなかったタオルをひねり、布の塊をつくりだした。
「噛んでろ、歯が折れる」
あわせて長細い塊も作り、彼の手に握らせた。彼女自身も彼の足の上に乗り暴れられないようにする。
慣れている。
やはり医者かなにかか?
彼の中で一つの仮説が生まれた。彼女は裏社会の闇医者なのかもしれない。
「では、始める」