嵐の晴れ間は果たして本当に安全か?
足はふら付くことなく地面を踏み締められる。手の握力も問題ない。
腹の傷は普通にしている分には痛みもなく、力が入る咳やくしゃみをすると引き攣れるが、それも問題ない。
いつものごとくなぜ彼女が持っていたのかわからないサポーターを傷の上に巻きつけ、
外出用の外套を纏った彼女が「大丈夫そうか?」と身支度を整えた彼に訊く。
「あ゛ぁ」
それに返事を返しながら、スクアーロは一体どこで彼女に彼女の正体について訊くかを頭で巡らせていた。
***
家の扉を開き先導する彼女は、家の位置を分からなくするために
家が見えなったらぐるぐると森の中を歩き回り、方向をわからなくすると、律儀にも事前にスクアーロに説明をしていた。
そのため、長い時間、森を彷徨うことになる。そういうことも含めて「大丈夫そうか?」という先ほどの問いかけをして、
完全とは言えないが、それなりにもう立って歩ける彼は返事を返した。
彼女が案内する場所は、森からスクアーロが入った道まで、ということになった。
そこから町まで自力でたどり着けば、あとはどうにでもなるだろう、とのことだ。
それにも頷いた彼はとりあえず、ターゲットに止めを刺した林の当たりに目星をつけて、彼女を脅す手立てを組み立てる。
そこまで行けば、最悪、一人でも、道に出ることはできるからだ。
そうして、未だに想像のなかで「黙秘する」と言い続けている彼女の印象を抱いて、スクアーロは歩みを進めていた。
おそらく、これは第一印象のせいだろう。ともすればどこからともなく拳銃を出して、応戦してこようとする彼女に対して、
一体何者なのか、と、冷静さと、人間臭さと、医学を学んだことのあるような節に、
堂々巡りな考えが浮かんで舌打ちをしそうになるスクアーロは、力を込めて土を踏みしめた。
白い家を外から見ると、やはり外観も珍しいつくりをしていた。
やはり、角が無く、のっぺりとして子供が粘土を捏ねて作ったような形をしている。
その割には、ちゃんと生活に必要なものを取りそろえており、柔らかそうな外見からはどうにも不格好だった。
屋根は無く、やわらかい四角い輪郭に、周りの緑をくり抜いたかのような真っ白な壁で、
不思議なことに、今作られたかのような印象も、遺跡のような印象も、どちらも受ける。
それをまず見とどめて、スクアーロは、振り返ることなく先導していく彼女にならって足を進めることにした。
やがて、幕引きのように、空に向かってまっすぐに生えた針葉樹の木々が視界を狭くして、家を隠していく。
その姿がもう、ほんの僅かにしか見えなくなったところで、スクアーロは振り返るのを止め、
前で歩く彼女の足取りに集中することにした。
森のなかで歩みを進めている内に、思ったよりも深い森だとスクアーロは怪訝に感じた。
頬を流れていく汗の道筋にひんやりと森特有の冷たい空気が撫ぜ、
見上げてみると、木の葉が茂る上のほうは霧がかかり、ぼんやりと陽の差し込む角度を描いていた。
何百年も経っているだろう木に、人の侵入をうかがわせない厚い緑の鮮やかな苔。
それを踏みつけると、足跡の形に少し濃い色合いになる。
前を歩く彼女の踏みつけた足跡に、自分の足跡が重なり、それを見て、今どのあたりなのかを考えた。
果たして、普段の彼女はこの道を利用しているのか。
買い出しと称して時折出かける彼女は、彼の好物を買いに行ったときを除き、二時間三十分ほどで家に戻っていた。
町から、道を通り、林へ辿り着くには、二時間ほどだったので、
家はそんなに深くのほうにはないだろうと、スクアーロは思っていたが、この様子をみるとそうではないらしい。
家の位置を分からなくするために歩き回るとは言っていたが、家から出てすぐのところで、
もうこの苔の絨毯は広がっていたので、家は森の深いところにあるというのは間違いないだろう。
しかし、そうだとすると可笑しい。
スクアーロが気絶をした場所から家に彼を運んだのは彼女だ。
こんなに険しい長い距離を女の腕で、人ひとりをどうやって運んだのか?
ここに来て、また新たな疑問がわいた。
スクアーロが髪をかきあげて、自分の意思とは関係なく流れてくる汗を散らしていると、彼女が振り向いて「大丈夫か?」と訊く。
それに、「あと、どれくらいかかるんだぁ?」と尋ね返すと、少し考えたあと、彼女は「少し休もう」と言った。
まだかかるらしい。
ますますその疑問がもたげた。
***
「あと、もう少しだ」
視界を埋め尽くすように背の高い木々の密度がだんだんと開き、陽が差し込むようになって、頭上の霧も大分晴れた。
地面も、茶色い本来の色が覗くようになってすぐに、彼女が平坦な声でそう告げた。
纏った外套を頭から被り、前を向いている彼女の表情は見えないが、
その声の印象が一番最初の全く感情を伴わないくせに、「驚きだ」と言ったものと似ているように思い、
スクアーロはフードを被ったその後頭部を見た。
少し休もうと言った場所から、丁度一時間、家からの分も含めると二時間。あと30分で町まで行けるかというと、それは不可能だ。
歩き回った分を引けば、とも思えるが、スクアーロの感覚からして、途中歩き回ったとしても十分に、家と森の出口までの距離は離れているように感じた。
そして、その距離を女が気絶した人間を運ぶとなると、到底不可能。
一体、どうやって?
スクアーロは目を細めて、少しずつ、彼女との距離を詰めた。
彼女の足音に自分の足音を違和感のないように自然に紛れ込ませ、歩くたびに僅かに揺れる後頭部へと視線を止める。
林と森との間くらいの印象になった周りに、後頭部からその先、見覚えのある風景が彼の脳裏へと焼きつく。
あの時は夜で、激しい雨が降っていた。
タイミングは、「ココだ」と彼女が振り向く瞬間にしようと思った。
その時、首ねっこを掴んで、彼女を引き倒す。同時に左手の義手から刃を出し、首から離した右手で彼女の利き手を掴む。
おそらく、懐に忍ばせているだろう拳銃を撃たせないように。
スクアーロは、そう頭のなかで次の瞬間の行動を組み立て、不自然にならない程度に足を速める。
その速度に髪が後ろへとスッと靡き、頬から首の後ろにかけて風が通り抜けていく。
左手の重みが顕著になり、そこから熱が生まれた。どくどくと、久しぶりに沸き立つ。
白い家の中の生活は退屈だった。それを深く思う。
やっぱり、
どんなに弱ろうとも、
頭を押さえられようとも、
敗北を食らわされようとも、不当な許しを授けられようとも、
例え、
誇りを無かったことにされようとも。
自分は、戦いのなかにこそ意義がある。
近づいた彼の手が上がる。彼女は、足を止め、振り向こうとしていた。
伏せた瞼が上がり、思ったよりも近い彼の姿に見開かれる。しかし、彼の手はそれよりも速く、
振り向きかかった彼女のフードの首辺りを掴んだ。それが力強く引かれ、彼女はわけのわからないまま横転する。
予想外だったスクアーロの行動に、しまった、と、体を横たえた彼女が懐にある拳銃を取り出そうとすると、
すでに右手が掴まれていた。なら、左手で、と自由だった左手を動かそうとした、そのとき、
すぐ近くの地面で、二度、爆ぜるような音がした。
「間一髪だったなあ!」
地面に身を横たえ、自分をぽかんと見上げている女に対して妙に嬉しそうに笑い、
掴んでいた右手をすぐに解放し、スクアーロはその身を起こす。あたりに漂う、火薬の匂い。
それがこんなにも懐かしい。
「二度目はくわねぇぞぉ!」
そう言って、木の茂ったほうへと、ようやく姿を現せた左手の剣をひるがえして、彼は笑った。
彼女はようやく状況を了解し、自分に背を向け、森のほうへ叫んでいる彼を見ながら、身を起こして拳銃を懐から取り出した。
それを手に持ち、セイフティーを外し、彼が声を投げかけているその先へと目を凝らす。
自分と彼を狙った二つの銃弾。それに思ったことは「やっぱり、やっかいなことがある」というかつての予想の証明だった。
死にかかりだった彼を彼女が見つけた時、雨に濡れ、命を奪っていっていたその傷は銃弾によるものだった。
倒れている彼の手に拳銃はなく、だったら、ほかに銃を放った誰かがいるのは道理だろう。
そして、彼女は悟る。今、彼の御蔭で地面に着弾した銃弾は二発。彼だけでなく、自分にも放たれている。
それは、もうすでに、自分がやっかいなことに完全に巻き込まれた後だという意味だ。