動物だった頃の本能は人間になって何になったのか?
彼女が出掛けて随分たった。
いつもなら、家の周りの畑の世話や、買い出しくらいなものだが、今日は時間がかかっているようにスクアーロは思った。
そう思ったのは、左手の手入れを終え、義手を取り付けたときに感じた違和感だった。
いつもなら、この作業の終わりは彼女の足跡が聞こえてくることで終わりになっていたのに、
今日はというと、自分が満足するまでやりきっており、気がついたときには義手を取り付け、一息ついていたからだ。
体を起して作業していたせいで、腹の筋肉が捩れ、ひっつれるような痛みがしたが、思ったいたよりかは、
普通にできないこともない。そろそろ、行動を起こす頃合いになったかもしれないと、
スクアーロは意味もなく、今手入れをした左手を掲げてみる。
この深い森のなか、その身一つで暮らしていけそうな家に住む人間の正体を知るために、
自分を助けた人間に刃を向ける覚悟が揺らぐことはついになかったし、
もし、その正体がボンゴレに仇なす者だとすれば、向けた刃を振るうことも厭わない、と、スクアーロは思う。
ただ、最初、彼女が正体を聞くな、と言ったその頃は、
それとなく行動を見ていればおのずと知れると思っていた節があったため、
未だにわからないことが少し不満ではあった。
今でさえ、彼女の正体に関する考察を重ねれば重ねるほど、よくわかならない人物のほかならない。
例えば、
人と関わり合いを持ちたくない世捨て人、にしては、淡泊ではあるが人を嫌っているようなところはない。
何かから逃げ、隠れている人間、にしては、家を構え、荷物も多く、怯えているような風でもない。
一番可能性のあった闇医者という線も、決定打に欠けるように思えた。
確かに、治療は適切であったように思えるが、それを生業にしているにしては、薬臭くもなく、
ペンダントトップをすがるように握りしめていたその仕草が、
科学のうちの医療を掲げている医者にはあまり似合わないようにみえた。
なら、とスクアーロは考えてみる。
同業者か?
しかし、このようなところで一人。組織に属するものにしては異端だ。
上げていた腕をもとに戻し、起こしていた体を横たえて、やっと腹から力を抜いた。
とにかく、脅して聞いてみればわかるだろう。そう思って、果たしてどのタイミングで行こうか、と考えた時、
ふと、彼は初歩的なことに気付く、
この刃を喉元に突きつけてやって、正体を明かせ、と言ったとき、彼女がその質問に答えるのか?
「答えそうにねぇなぁ」
想像のなかの彼女でさえ、ただ、むっつりと黙り、静かな目線をスクアーロに向けているだけだった。
***
彼女が返ってきたのは、それから一時間も経ったあとだった。
珍しく慌てているらしく、バタバタと足音が家の中で響いていた。
途中で、部屋に通りかかったらしい彼女がドアを開き「体調は?」とスクアーロに訊き、
それに「悪くない」と答えると、すぐに頭が引っ込み、再び、歩きまわる。
それを不思議に思ったが、想像のなかの彼女の、静かな目線と、
「黙秘する」の繰り返しにイラついていた今は、訊く気にもなれず、
スクアーロはだんだんと落ち着いていく足音を聞きながら目を閉じていた。
結局、慌ただしい足音の理由が判明したは夕食でのことだった。
スクアーロは皿の上にのった ソレ を見ると、昨晩の会話を思い起こして、彼女へと視線を投げた。
食事を見つめるその表情は、無表情にみえるが、少し、してやったりとした感じに見え、口が引きつった。
なんのつもりか、と訊いてやってもいいが、癪なので、黙ってそれを一口食べてみる。
「まずい」
「何故!?」
思わず、といった風にスクアーロのつぶやきに反応した彼女はこちらを向く。
それに、スクアーロはうんざりとしながら言う。
「なんのつもりか知らねぇが、一回、冷凍して時間が経ったやつだろぉが、こんなのは認めねぇ」
その答えに、何か言いたげに口を開いて眉を寄せる彼女は、皿の上に目をやって睨むように見ている。
言いたいことはわかる。ここは内陸にあり、冷凍したまま長時間運ばなければならないくらいに海から遠い。
だから、仕方ないのだが、舌は素直だ。
海から引き揚げられたものを瞬間冷凍して、そのまま運ぶならともかく。
この距離では移動している間に溶けて、細胞が壊れ、水分が抜かれてしまった赤味は、とれたて新鮮ものから考えると味気ない。
それが好物であるスクアーロは、ソレが売っている場所から家に帰ってきて、
急いで冷蔵庫に物を突っ込んだり、慣れない食材を調理して、と、忙しかった彼女の努力を見ないふりして「認めない」と言う。
一重に、
マグロは現地に限る。
「貴方が言ったんだ。マグロのカルパッチョなら食べるって」
そう咎めるように言う彼女は、自分の分の皿から、一枚、切り身をフォークで掬いあげると、
口に含んで、寄せていた眉間に皺を無くして咀嚼する。そうして飲み込むと、こちらを見る。
まるで「なんだ、まずくないじゃないか」と言いたげだったが、スクアーロはその視線から逃げて、
いかにも億劫そうに、二枚目を口に含んで食べ、「まずい」と繰り返した。
「どこが」
「てめぇ、本場のもの食べたことねぇだろぉ」
「そうだが…」
「なら黙ってろ素人が」
そう言って憮然としているスクアーロとは違って、どうやらソレが気に入ったらしい彼女は、
だんだんと軽快に食事を進め、舌鼓を打ち始めた。
その姿に大義そうになりながら、スクアーロは昨日の会話を思い起こす。
昨日、毎回の、あの味の薄いスープと柔らかいリゾットばかりの食事にいい加減嫌気がさしていたから、
勢いで好物の話にはなっていた。だが、要求したつもりはまったくなかったし、
この土地が内陸にあるということも重々承知していた。だから、スクアーロ自身は、あの会話はすぐに忘れてしまっていたのだ。
加えて、淡泊で泰然とした態度の彼女がわざわざ持ってくるとも、思っていなかった。
彼女の人物像について、また、わからなくなる。
「…好物なら、…食べると思ったんだ。いつも食事が嫌そうだったから」
「……」
「体に負担をかけるのはどうかと思うが、工夫はするから、食事はしっかりと摂ってくれ」
そして、と、あの静かな眼差しがスクアーロを見る。
「早くこの家から出られるように」
言われなくてもわかっている、と、スクアーロは答える代りに、切り身を一枚掬いあげて頬張る。
彼女は、それを見届けると、二人は静かに食事を進めることにした。