【初日9時01分04秒】
(朝になっちゃった)
ようやく認めたと同時に、目から血を流す化け物は呻いて蹲った。
ぼんやりとした陽が昇りきっていて、あたりが明るくなり、良く周囲が見えた。
自然と詰めていた息を付き、力任せに振り回していた鍬を下して杖にしながら、荒い息を整える。
そうして荒い木目を握り続けていた掌にできて潰れた血豆を見つめながら、考えた。
(朝になっても終わらない)
暗い村の中を逃げ回っていた時、ずっと朝日を待ち望んでいた。
最初はただ、暗いと走りにくく、化け物の姿も見つけにくいから陽が昇ってくれればいいのにと思い、
それが次第に、朝日が昇ればよくある怪談のようにこんなことは終わるんじゃないだろうかという願いに変わった。
それを信じることで頑張ってこれた。
しかし、朝は、目の前の自分の殺した化け物の姿を克明にするだけで、化け物自体を消してはくれない。
震える膝で体を支える気力はもうなかった。へなへなとその場に座り込んで泣き出しそうになるのを堪える。
何よりも終わりがわからなかった。きっかけも何だったのかわからない。
起きた時にすでに村はパニック映画の舞台になり、私はその中で村人の格好をした化け物から逃げる。
なにがなんなのかわからない。誰かに説明してほしかった。
原因不明のウイルスが発生しただとか、吸血鬼が村に紛れ込んでそれで村人を次々に襲い、こいつらを作り出しているだとか。
そして、ワクチンの完成までのカウントダウンとか、村の外から助けが来てくれるとか、そういう区切りが欲しかった。
けれど、出会う者は今まで皆目から血を流す話の通じない化け物ばかりで、その度に私は逃げる。
逃げて、逃げて、まだ夜明けの気配もない頃に、一度だけ化け物に捕まった。
容赦のない力で首に手をかけられて、暴れると引き倒され、馬乗りになった化け物に首を絞められた。
持っていた鍬は、引き倒された時の衝撃で手を離してしまっていて、すぐ傍の地面に手を伸ばして探すも見当たらない。
何にもない地面を擦れば鍬が出現するかのように手を行き来させたが、やはりなく、
その間に化け物の女の手はしっかりと首にかかってしまっていた。
苦しい。そう思った。
鍬を諦め、両手で女の腕をつかんで離そうとした。だが、できない。
信じられない力で、これも信じられないことに躊躇もなく絞めている。
息を吸おうとすると飲み込めない唾が泡立ち、舌の根が引きつって気味の悪い音を立てた。
音を聞いて、それで女がもしかしたら手を離してくれるんじゃないだろうかと思う。
それくらい人の喉から出ていい音じゃない。けれど、女は変わらずに力を込めていた。
死んでしまう。次にそう思った。
足をバタつかせ、手もめちゃくちゃに暴れて女を叩き、皮膚を引っ掻いた。
女は痛覚がないのかびくともしない。苦しい。体の動きが鈍くなる。駄目だ。駄目。頭だけがそう何度も考える。
涙がいっぱいにたまった目を瞑ると、あの不可思議な視界の中で苦しげな自分の顔が見えた。目を開ける。
女は厭らしくニヤニヤと笑っている。
目を瞑ると見えるのはこの女の視界なのだろう。
どうしてそんなことができるようになったのか、仕組みなんかはわからない。
けれど、確かにそうで、そうであることが堪え切れない。
―――こんな奴と同じものを見なければいけないのか。
こんな世界に放りこまれて、わけもわからずに寝巻のまま追われて逃げて、暗闇にびくびくして。
あまりの苦しさに、目を開けていられない。口の横から泡を垂らして濡れた髪の散乱する酷い顔をした女が目を瞑っているのが見える。
―――本当に酷い。
酸欠で意識が遠くなりつつあった。力尽きたように手を女の腕から離し、横たえ、右手を彷徨わせる。
言葉も通じない知恵もあるのかどうかもわからない相手に必要かどうかなのかはわからない。
今度は何度も擦らなくとも確かな感触があった。女は私の顔ばかりを見ている。
気づかれないようそれを握り、腿の横から静かに引き抜く。
引き抜き終わると、ゆっくりと目を開き、もう片方の左手を化け物の頬にあてて撫でた。
そして、一気に、そのにやにやとした顔面を掴むと、頭を反らせて首を見せる。
そうして、知った。
どうやら、こいつらにもショック症状はあるらしいということ。
***
こいつらはゾンビとは違った。
ゾンビみたいに体の欠損を無視して這ってくることはなく、人間の急所にあたる場所を攻撃されれば死ぬ。
こちらに気づいて向かってきたあと、小刻みに攻撃するとと随分長くこいつらは向かってくるが、
背後から気づかれずに渾身の力を込めて頭などを殴れば一発で動かなくなる。
幸いなことに、この化け物達は力はそれ相応だが、頭も機能も悪いらしく、
追いかけられてもそれを巻いて隠れて数分待てば、化け物は忘れてしまうし、行ったり来たり決まった行動を続けるばかりだ。
掴み掛られること、仲間を呼ばれること、それらに気をつけ、こいつらの視界を上手く利用することでどうにかできる。
急所を攻撃すると、まるで本当の人間のようによろよろと地面へと伏せ、機械のような動きで独特なポーズへとスッと変化する。
これがこいつらの死。けれど、これは一時的なことだ。
堪えていないと、化け物の死体を前に泣き出してそのまま精根尽きるまで叫び続けてしまうに違いなかった。
間違えてしまったような気になる。化け物が人の形をしているからいけない。
こうしなければ、死んでいたのは自分だった間違いない。だから。
それに、こいつらは死んでも死なない。
顔に落ちてきた生ぬるい感触がまだ生々しく、何度も何度も拭ったはずの顔にまだ汚れが張り付いている気がして、
パジャマの袖でひりひりとしている頬を擦る。
あれから何時間、化け物が何匹も居て、奴らに会って、その性質も大分わかってきたというのに、
まだ、その行為の嫌悪が飲み込めなかった。
深く息を吸い、立ち上がった。湯気を上げる背中を見つめてみる。
目から血を流し続けるところを隠してしまえば、それはもう人間の蹲っている姿にしか見えなかった。
しかし、こいつは化け物だ。こうするしかない。
(私は、死にたくない)
こんなところで笑われながら、あげくに死ぬだなんて嫌だと思う。
見つめていると、もぞ、と死体の活動が再開され始めた。夢から覚めるように覚束ない動作でそれは始まる。
指が動き、縮こまっていた体制から四肢が解放され、ゆらゆらと揺れながら立ち上がり始める。
それを眺めながら、柄を強く握り、頭上へと鍬を振り上げて憮然と待った。
こちらにも気がつかず立ち上がる様はよわよわしい動作に見える。
頬を伝う血流もやはり涙や負傷に見える。けれど、それだけ。
(化け物)
こいつは死なない。こうやって何度でも蘇ってくる。蘇ったらまっすぐこちらを見つけ、殺しにやってくる。
なんの戸惑いも持たずに。なんの後悔も持たずに。
手に持った凶器でただただ―――やってくるんだ。
ようやくこちらに気づいた化け物は何かを叫んだ。
数時間前はそれが助けを呼ぶ声ではないかと思ったのが信じられないほど、その声は歓喜に満ちているように思う。
化け物は一度殺された私へとバタバタとせわしなくやってきた。なんの躊躇もなくその手に握られた鎌を振り上げる。
(もう……もう、嫌……)
鍬の重さにまぎれて手が震える。
その一瞬だけ、泣きたいのを忘れた。強く、非常に我の強い感情に支配される。
それでも、肉を裂き骨の硬さを感じることは不快だし、生ぬるい液体が飛んでくれば顔を顰めるほど嫌だ。
嫌でなければ、狂ってる。そうでないから、何の躊躇もなくやってくる狂っているこいつ等が腹立たしいと思う。
だから、
(早く死ね!)
頭上のそれに気がつかないで向かってきた化け物に、
先程とまったく同じくして柄をしっかり握り、叫びながら振り下ろしきる。
【初日14時17分33秒】
お昼を過ぎた。
状況はやはりまったく変わっていない。
村は化け物であふれ返り、何匹かの化け物は、拳銃やライフルを所持しているらしく、
なるべくなら身を隠し、見つかれば先手必勝で鍬で殴りつけての村内放浪が続いた。
そのうち、どこから鳴っているのかわからないサイレンがもう一度鳴り響いた。
もう、わけのわからないことがこれ以上起きて欲しくなく、耳を強く塞いだ。それでも鳴りやまないその音に苛まれた。
自宅のあるはずの土地も何度か通り過ぎたが、何度来ても家は見当たらない。
土の緩やかな丘があって、草がところどころ生えているだけのだたの地面だった。わけがわからない。
歩いている間、村のところどころの風景が変わっていたような気がしたが
認めるのが嫌で気のせいだと思いこんだ。だが、自宅があったはずの場所へ来ると顧みざる得ない。
愕然とした。ここは一体どこなんだろう。
そうして、村の外へ出ることを決めて外への方向へと向かった。
だが、出れない。いつの間にか元の場所へと戻ってきてしまうか、地平線どこまでも続く赤い海が延々広がっていて先に進めない。
外部への連絡を考え、ガラスを割って民家に忍び込んだが、電話は通じているのにどこにもつながらなかった。
ふと、思いついて姿の無かった自宅へとかけてみたがこれもまた同じ。呼び出しのコールがずっと空しく繰り返す。
自分以外の人間も見つからない。家で寝ていたはずの家族の所在もわからない。
(… … …)
からころからころと見覚えがあるようで違う村の中を鍬を引きずって歩いた。
音を立てればそれだけ化け物に見つかるのかもしれないが、ちゃんと持つだけの力も気力もなかった。
質の悪い夢だと、最初の頃とは違って強引に思い込もうと思った。こんな目にあってまだ目の覚めない自分の図太さを笑って、
じゃあ、一度化け物の好きなように自らを殺させてみれば目が覚めるんじゃないだろうかという恐ろしい考えに至る。
しかし、いざ、化け物の前に身を晒してその瞬間を享受できるわけもない。きっとみすぼらしく抵抗するんだろう。
苦しいのも、痛いのも嫌だ。死ぬのも嫌だ。家に帰りたい。家族に会いたい。人と話がしたい。
昨日は当たり前だったのに、何故、どうして、こんな世界になってしまったのか私にはわからない。
わからないまま死ぬんだろうか。
このまま誰に看取られることなく一人で野たれ死んであの化け物に死体をぐちゃぐちゃにされるんだ。
睡眠不足のまま村を歩き通し、化け物と戦い、肉体疲労、精神疲労で、弱った野良犬のように
敵意だけで体を引きずって歩いていた。
それでも、目を閉じればなぜだか周囲の化け物の視界がわかり、姿は隠せる。
(この目も、どうなっちゃったんだろう…)
疲れて熱を持った目を擦る。
ひょっとしたらこの目が原因でないのか。
世界があまりにも狂っているので、正常なはずの自分を傷つける愚かな考えばかりが浮かんでいけなかった。
(これからどうすればいいんだろう。どこへいけばいいのだろう)
とりあえず、ちゃんと休みたい。
雨の当たらない化け物のいないところで、ゆっくりと眠らないとどうにかなってしまいそうだ。
脳裏に浮かんだ愛おしい自宅をなんとか打ち消して、ほかの候補をあげてみる。村の集会所はここでは存在しているんだろうか。
村では珍しく小さな事務所の形をしていた建物を思い起こす。
警報や火事やなにかあると集会所は場所を村人に開放してくれるものだった。
だが、こんな状況で機能しているのかはわからないし、存在も不明、
そう思うと集会所へ行くなら逆方向だが、わざわざ方向を変えるのも億劫になる。
集会所に行っても誰かいるともわからない。一人なら、今からまた民家に忍び込んで静かにしているのと変わらない。
それに、もしかしたら、この世界にまともな人間は私一人かもしれなかった。
(休んでいる間に、あいつらに見つかって殺されて終わりかも)
それでもしかたない、と、思った。どうせなら、意識がない時のほうが痛くないかもしれない。
あんなに絶対嫌だった死が、唯一私に寄り添い、親しげに肩を抱く。
「……もう、やだぁ」
やるせなさが湧きあがってきて、足が止まった。
そうなるともう、動ける気がしなかった。
なんで、私がこんな目にあうの。喉が引きつって堪えていた涙が盛り上がる。
ああ、もう、こんな汚くて木目のガサガサとした鍬の柄なんて放り出してしまいたい。
けれど、死にたくない自分が手を離さない。それが惨めで、惨めで、涙が零れた。
こんなに疲れているのに自暴自棄になりきれない。
鍬の細い柄を抱きしめてしゃがみこんだ。あまりに細くてぐらぐらとして頼りない。
しかし、これだけが甘い顔をして誘う隣人の腕を切り落とす手段なのだった。
一通り泣いて、ぐずぐずとする鼻をすすって目を擦っていると、また、視界がどこか別の方向を映し出す。
近い。柄を持つ手に緊張が走った。風景に見覚えがある。先ほど自分が通ってきた場所だ。こちらの方向へ向かっている。
とりあえず、鍬を持ち上げて運び、物陰に隠れて様子を窺う。
なまじ、一人で静かに過ごしているよりも化け物と対面しているほうが、気力は出た。
人の死にそうな顔を見て笑っていた女のことを考えれば、怒りが弱気を消してくれる。
視界の持ち主は様々な方向に視界を向けて歩いてきた。何かを探している。私だろうか。
こちらの鍬の引きずる音を聞き及んだのかもしれない。ぐっと柄を持つ手に力が籠る。
やり過ごすよりも、迎え撃ったほうが良い気がその時はした。
今ここで化け物を倒さなければやるせなさに原動力の怒りが萎えてしまいそうだ。
奇声を上げる背中を見送る最中にでも再び緊張の糸が途切れて足がまた立たなくなってしまうかも。
見える視界のなかの手には意外にも何も持ってはいない。手ぶらの化け物は珍しいな、と思う。
仲間を呼ぶ前に背後からやってしまおう。化け物が近づく。身を隠しているのは家と家の間だった。
なら、一旦、化け物が通り過ぎたら後ろから付けていくことにしよう。
まだ、いろいろな場所へと視界をせわしなく向けている視界を見るのをやめ、自分の視界へと戻った。
足音がする。小走りでまっすぐ駆けてくる。隙間の前を通り過ぎるのを待つ。
ぎりぎりまで建物へと身を寄せ、タイミングを計った。
(―――あれ?)
人影が今、通り過ぎていった。
姿を確認できた。こちらが見つかることもなかったようだ。
しかし、視界を切り替えるのも忘れて、ふらふらと私は通りへと出る。
後ろ姿が見えた。まだ此方には気づいていない。見えた横顔に、血の涙はなかった。
期待と不安を抱きながら、その後ろ姿を見る。
その人物は立ち止り、通りにせり出してきている家の窓をしきりに気にしていた。
「あ、あの」
声を掛けながら、まず動いたのが鍬を持った腕だった。
振りむいて、もし、血の涙がやっぱりあったときを思うとそうするしかなかった。
相手は肩をびくつかせ、振り返る。向けられた切っ先を見て、ひ、と短い悲鳴が上がった。
人間!
とっさに鍬を下して、「すみません!」と言おうとして、悲しいほど舌が絡まる。
夜中から何も水分を取っていなかった。
ともすればあの化け物の言うような呻き声ともとれる呟きになってしまった謝罪に、
相手が恐る恐るこちらを見る。
「……! 大丈夫ですか?」
「……は、い、人間、です」
外国で暮らして母国語を忘れてしまったかのように、ただ、噛みしめて“人間”と言っていた。
相手の男性は、掠れて的外れな返答にも顔を綻ばせ、泣きそうな顔をする。
「よ、よかった…!だ…大丈夫ですか?怪我は?」
「だ、大丈夫です。…その、貴方は?」
「……大丈夫です。よかった、まだ、普通の人が…ありがとうございます」
普通の人。そうだ。私は何度も何度も頷いた。
彼も噛みしめるように“ありがとう”と言ったが、きっと彼よりも私のほうがより感謝したい気分だった。
―――人がいた。ちゃんと話せる人が。
足元から恐怖とは違った震えが起こって手に持った凶器を手放してしまいたい気分になる。
今にも涙が毀れそうだった。
「よかった。―――本当に」
周りのあんまりな事態も今は関係なく、あの、とおずおずと私は口を開いた。
「あの、一体ここは何なのかわかりますか? ここは村なんでしょうか?
あ、あの……化け物を見ましたか? 私の、私の家族も、家族が見つからないんです。
家すらなくて。場所はあっているはずなんです! 確かにあそこのはずなのに何にもなくて。
どうすればいいんでしょうか?どうすれば……これ夢ですか?私、寝てたはずなんです……」
「わ、私にも、わからないんです」
そう言って項垂れてしまった。言葉を止めるしかない。
彼は顔を真っ青にして今にも崩れ落ちそうにしていた。これ以上追及すれば死んでしまいそうな気がした。
手は胸の前で握られていてそれがガタガタと震えている。そうして気付く。
「……あの、教会の方ですか?」
手のなかにあるのは十字架だ。格好もそれっぽく裾の長い黒い服装だった。
訊かれて電気に感電したかのように激しく揺れ、彼は頷く。それが罪の告白でもしたかのように震えも消え、ただただ沈鬱とした。
不味いことを訊いたんだろうか。わからなくて戸惑う。でも、その姿があまりに痛ましいように感じて私はそれ以上の追及を諦めた。
人に会えたという安堵に水を差したくない。
「……ごめんなさい」
声には隠しきれない落胆の色が滲み、もう一度、私は謝った。
「いえ、こちらこそ、すみません」
「……」
首を横に振ると、彼をおずおずと顔をあげてこちらをみた。
私より年上の人だ。けれど、酷く弱って途方に暮れているように思った。
だから、次に口を開くのも私からだった。
「…あの、これからどうしましょう? 何か行き先とか、
どこかに私たちみたいな人が集まっているところとか、心当たりありませんか?」
「…ありません」
「……。 とりあえず、どこか身を隠せる場所に入りましょう。そこでどうするか決めませんか?」
こくり、と彼はただ頷いた。