【初日15時25分00秒】
結局、それからもう一度森の中へと分け入ることにした。
住宅が密集している所よりもそのほうがずっと化け物の数も少ないようだったからだ。
移動してから山の中腹辺りを見渡して化け物が居ないことを確認し、身を隠しながら話し合いをした。
私と彼が行った村の地域を出し合って、人が集まれる場所、確認していない場所をすり合わせて検討したが、パッとしない。
今後はこの森のなかで一度交代で休息を取ってから、人の集まりそうな場所の状況を確認しに行くということしか決まらなかった。
体力や精神が弱っているから、だから少し休んだら良い考えが出るかもしれない、と口にしてみたけれど根拠はないものだった。
それでも粘らずに話し合いを早々に切り上げて休むことにしたのは、二人になってもどうしようもなく再び突き当る現実を目の当たりにして、
しぼんでいく希望を押しとどめたいという思いもあったし、話し合いの間の彼の酷い精神虚脱具合が気にかかったというのも実はある。
脱出できない村のなかでようやく出会えた人間の彼の不安は移動中とても目に余っていた。
多少人心地ついたといっても自分自身もそれは否めなかったが、
それにしても、彼は、呆然としてぼうっとする時もあれば、時には私にすら怯えるように見ている時もあった。
それが何故なのかわからず首を傾げると、彼は一度だけ「貴方は本当に私の他に誰か見かけることはありませんでしたか?」と恐る恐る尋ねてきて、
首を当然横に振ると、彼は悲壮して耐えるばかりに口を閉じた。
彼は何も言わない。けれど、その姿を見て思った。
私が家族を捜したように彼も誰かを捜しているのかもしれない。
同じ境遇で家族も家すら見失ってしまったままの私では慰めも何の言葉も出なく同じように沈黙せざるを得なかった。
どうやら村のなかを彷徨った私は彼に逢えたことでとりあえずホッとした安堵を得ていたけれど、
この人の絶望は深く、そうにはなれないようだということを感じとってしまった。
(でも、それもそうかもしれない)
わけのわからない危険な状況で不安な気持ちはよくわかる。
そして、助けに一刻も早く出会いたいと、誰だって思うだろう。
でも、こうして自分を省みてみると、彼にとって私は泥なんかで酷く汚れた何も事情のわからない寝巻姿の女で、
とても頼りないだろうというのもよくわかった。
それを口惜しく無力に思えるくらいに、化け物のいる世界で人に出会えた事が私は嬉しかったのだと思う。
「牧野さんは本当に大丈夫ですか?」
「いえ、さんは女性なんですから」
そう言って先に休息を勧めてくれる牧野さんに少し迷って私は唇を左右にひっぱって笑った。
山中に向かう間にお互い名前を明かして自己紹介をして、“牧野”と名乗った彼が村の冠婚葬祭を務める教会の救導師である事を知っていた。
教会、と聞くとなにかと足しげく通っていた祖父母と、それからふとした話題の中で故郷の小さな村に教会があると私が言って、
それが奇異だと指摘した外で出会った友人達のことを思い出した。
私自身と言えば、中学生の頃までは連れられて休日のお祈りに参加していたけれど、
それからは渋い顔をする祖父母をよそにずっと学校の部活に朝晩忙しく、その部活の関係の大学に上がってからは家も出て、
祝い事も、幸いにして親類の訃報もなく、村の“信仰”というものに縁薄い生活を過ごしていたため、
友人が尋ねた祭事の詳細も、執り行うこの人がどんな人なのかも、どちらも見かけることはあってもよくは知らなかった。
だから彼と直接会話してみて、結構若い人だったんだな、とか、厳格な人ではないのかもしれないとか、失礼にもまず最初に思ったのだった。
温和で、本当に失礼だけど、こんな世界にいるからか気が弱そうに見える。
よくも知らない癖に“救導師サマ”とぎこちなく呼んでみた私に、できれば名字か名前で呼んで欲しいと言い出したのも本人からだった。
年上の男性なので名字で呼ばせて貰った。こうして話してみると案外話しやすい気もする。教会の印象よりもいたって普通の人。
それを新たに知ることになったのが、こんな異常な世界のなかじゃなければと思った、
……でも、思ってみたけれど、もし、私がもう少し真面目に行事に参加するような子供だったならお互いきっと顔は知っていただろうけれど、
“救導師サマ”からもう一歩先の“牧野さん”までは踏み込まなかっただろうし、
「名前で呼んでくれ」だなんてそんな場面、私個人にこの人は言わなかったように思えるような気もした。
それくらい関係性は開いていたはずだった。
譲り合っていても休憩の時間が短くなってしまうだけなので、
お礼を言ってから鍬を引きづりながら少し離れた場所で私はとりあえず座った。
手ごろな木の表面を撫で、地面に転がる小枝や小石を無くしてしまってから頭を預けてみる。
どこかしこも硬く、こんなところで寝たことがなく居心地悪くて身を縮めた。
視界にしめった普段は遠かった地面が横に見えた。心もとなくて鍬の柄を引き寄せ、肩を抱く。
(眠りたい。でも、眠れるかな)
興奮して落ち着かない意識の底に今にも溢れそうな疲労感や睡魔が粘つきながら鈍くうねっているのだけがわかる。
着ているパジャマもなんだかごわごわしはじめている癖にしっとりと肌に張り付き気持ち悪いし、
足の裏なんかも、乾いた泥が重なって何処までが自分の皮膚だかわからない酷い有様だった。
そうなった一連の出来事を追憶しそうになって、無理やり強く目を閉じた。
【初日15時55分45秒】
意識が墜落していったのは意外と直ぐだった。
一晩と昼間、睡眠もとらずに歩きまわった疲労感が溢れだすのは容易かったらしい。
体や瞼がもう重く、とろとろと意識が薄れ始め、全身の腫れぼったさを心地いい冷たい地面が吸い込んでいった。
霞む意識のなかで何度か圧迫される部分を調節しながらもう少し柔らかければいいのに、と不満を重ね、いい位置を見つける。
そして、最後に全てを手放すその瞬間、けれど、やっぱりそういえば一つ気になることがあると牧野さんに目を閉じたまま声をかけてみた。
「何か……あります?」
「何?…えっと…」
「ああ、寝具ではなくて、」
見ると何かの赤い布を懐から取り出そうとした牧野さんに頭を持ち上げて軽く横に振る。
目の前が、くらり、と眩暈がした。
「武器に、なるものとか」
「……いえ」
あんなにしつこかった睡魔が引く。
「持ってないんですか?」
跳ねるような声に牧野さんは中途半端に振り向きながら、それでもわかる沈鬱な顔をして言う。
「すみません…その、良ければ貸していただけませんか?」
「それは…いいです、けど」
差し出した鍬を持って行って、同じ場所に座りなおした彼を怪訝に見つめ続けた。
彼が通った場所は聞いている。いくつか私も通ったところもあった。
そこには化け物が例外なく居たはずだ。
「どうして?」
今頭を預けている木の枝だって、石だって、なんだってある。
私は鍬と鎌を一時も放しては居られなかった。不安で、怖くて。
返ってきたのは沈黙だった。
「…もしかして、襲われないんですか?あれに」
「いえ、そんなことは……」
「そう、ですか」
もしかしてそういう職業の人はあの化け物から不思議な力で守られたりするのかと思ったが違うらしい。
牧野さんは鍬を横に置き、見張りの姿勢へと移って私に完全に背を向けた。
それがまるで訊かないでくれということに見え、なんだか言葉にできない違和感を感じた。
私は身を横に直しながら少し遠い所に置かれた鍬を見つめ、手元に残った鎌の存在を意味もなく確かめていた。
「……一時間、経ったら起こしてください。交代しましょう、ね?」
そう言って、これ以上時間を浪費しないように背を向けて目を無理やり閉じた。
ついに抗いきれない波となってやってきた疲労と睡魔にからめとられる事にして、牧野さんの返答も聞けずに、すとんと、意識を失った。
【初日18時00分11秒】
ぼんやりとした陽が再び完全に陰った。
目が覚めても取りきれない、むしろ体が硬直し、増したような気がする疲労感を抱えながら、鍬を返してもらい、
見張りを交代して自分の腕を抓ったり目を擦りながら過ごして、そろそろ牧野さんを起こそうかと思った時、
再びあの奇妙なサイレンが鳴り響いた。
両耳を塞いで今度こそこの警鐘がなんの危険を知らせているのか察知しようと辺りを見渡し、その気味の悪さに気づいた。
地響きのように高まった音はこんな山中であるのに全然遠くなってない。
ぐわんぐわんと共振して響き、重なり、遠く山の向こうから聞こえてくるようでいて、
一番大きい音は拡声放送の真下にいるような気がするのに出所が全くつかめない。
こんな山中に音を放送する機械などないし見当たりもしない。やはり、この音はもっとなにか別のものが出している。
それが分かった時、聞こえようによっては叫びにも聞こえる正体不明なこの音を頭の中に入れるのは嫌で、耳を塞いだ。
透明な飛行機が山と山の間で旋回し続けているような、村の地中を何かが泳ぎ回って音を出しているような。
そんなものどちらもあり得ない。
(気味が悪い)
集中すればするほど気味が悪かった。
牧野さんも起こさずともサイレンの音に飛び起きて、追い詰められたかのようにくるくると辺りを見て、
耳に手を当てている私を認めると同じく耳に手を当てて顔を凍らせていた。私はそれに頷いた。
たったそれだけでも、音のなかでなにか少し落ち着いた。
その後、サイレンの音は余韻を残して何処から発生しているのか正体を掴ませることなく消えていき、
山のなかに二人きり、静寂のなかでしばらく黙っていた。また夜がくると思うと化け物の人影が薄い山から出るのが辛かった。
お互いに「さあ、行こう」と言い出すのを待っていたのだと思う。
辺りが見えづらい完全な暗闇が来て、また化け物の多い村の中を大した当てもなく彷徨わなければならない。
(でも、ここにいたってしょうがない)
汚れた服を何度か払い、私は自分で自分を奮い立たせながら鍬を握りしめた。
―――数時間前の化け物に追い回された記憶を呼び覚ます。
「……行きましょう」
牧野さんも頷く。
まだ私達と同じように逃げ回っている人がいるかもしれない。私の家族も、牧野さんが探している人も。
きっとまだどこかにいるはずだ。
【初日18時20分44秒】
一日経過して慣れたからか、それとも休憩をちゃんととれたからか、いざ動き出すと深夜や昼間よりもずっと速く移動できるように感じた。
山から下りてきて今のところ化け物に相対することはなく、
閉じた瞼の裏側に見える景色を利用して人が集まるだろう村の主要施設を回る為に施設が集まる村の中央に向かって歩きだした。
まだ誰にも会えずにいた時に考えていた村の集会所や、学校、病院、そのどれでもいいから大半のほかの村人が集まっていることを願った。
二人で歩いていると少しできた心の余裕の分、注意して周辺を見ることができた。
見覚えのある民家もあれば古く感じる民家もあり、
そのどれもが暗い周辺に抗うことなく室内に明かりを灯す様子もなく、とっぷりと闇に飲まれたまま、黒い輪郭だけがまだ宵の口の空に浮かび上がっているのがわかった。
それが見渡す限りであるのだから、視界に入る民家の全部に居たはずの家族の全員が今そこに居ないか、
それとも、化け物から身を守るために息を殺しているかだが、近くを通りかかってもやはり人の気配は恐ろしいほど感じず、静謐としていた。
途中、ほんの少しの時間留守にしただけにみえる見る事のできる室内を順番に覗いて、化け物から隠れながら、ノックをして少しの間様子を窺って見たが、
人口の多い中央近くまで来ても結局一人も人は見あたらなかった。本当に、ここにいた人達は皆どこに行ってしまったのだろう。
最後の家から離れて落ち合った牧野さんに首を横に振った。牧野さんも同じ反応であり、ぐるりと無人に広がる回りを見渡した。
ここから目的だった各主要施設へ向かってみるが、どこから手をつけるべきだろうか、と目にとまったのが錆びたバス停だった。
(これも、見たことない形。古い感じ)
村は、ところどころ古めかしくそっくり入れ替わっているように見えた。
けれど、考えてもあのサイレンの音と同じくそれが何故なのかなんなのかまったく分かる気はせず、
自分でもちゃんと分かるその文字のほうに注目した。
“比良境行き”
確か、と呟く。村の病院ってこの辺りだったはずだった。
小中学と健診や予防接種でお世話になったり、風邪や水疱瘡になって連れて行かれたりした。
でも、それ以降ほとんど訪れたことはなかったし、村に籍があっても病院の存在は曖昧としていた。
ただ、
(比良境のほう)
病院に行くバスは比良境行きに乗るということだけは覚えていた。
「病院はどうだろう」
かつて村を歩いた感覚で、そこが近いと分かった。怪我人ならまず病院を目指すだろうし、誰かいる可能性も高い気がした。
呟いてから牧野さんを振り向いた。そこで、声も無く彼が驚いたような表情をしていて、え、と声が漏れた。
そして、戸惑いながらすぐ内心、否定をした。違った。驚いているんじゃない。
今までの気の弱そうに下がっていた眉や口が引き上がったから驚いたような顔に見えただけだ。
「牧野さん?」
牧野さんは表情が無くなった顔で私をじっと見ていた。
自分が理解できないことを言ったか、何か異常があったか、首を傾げて周りを見渡すと、
ようやく表情を動かし、「そうですね。病院……他に人がいるかもしれません。行きましょう」と、後はまったく彼らしく戻って、
変わってしまった風景のなかをその足で病院の位置に確信を持って歩き始めた。
再び、引っかかるような言葉にできない違和感を抱いて、私はその背中を一拍見つめてから、鍬を持ってその後を歩くことにした。
なんだろうあの反応。考えながら、思い出の中にあって、ぼんやりとしている村で唯一ある病院の印象を掻き集めていた。
(確か、あの病院には、“宮田”って名前が付いていた気がする)
第一話の寝起きから全力疾走までの反応速度や、武器の鍬を振りまわす主人公なので、
運動系に秀でていて健康優良児という設定がプラスされました。