【初日2時40分56秒】



深夜、叫び声によって目が覚めたその瞬間、化け物の老婆が眼前に鎌を振り上げていた。 混乱しながら、転がって振り下ろされた刃をなんとか避け、通りに這い出たところで出くわしたのは何者かの持つ銃口で、 それにたたらを踏んで別の方向へと走り出した。間も開けず、おそらく弾丸が極近い足元を跳ね、熱が掠めていく。 もはやそれに振り返ることもできるはずもなく、すぐ脇の森へとでたらめに逃げ込んだ。

森に入って左右に振れながら奥深くへと複雑に走り抜けた。 踏み固められた泥から降り積もったやわらかい腐葉土に足元が変わり、 木の根に足取りを危うくして転げながら進み、後ろに誰かいるのかいないのかわからなくなっても足は止まらなかった。 一度火がついて走り出すと、止まってしまうこと自体が恐怖で、いつまでも追尾の足音が聞こえて来たような気がした。 しかし、いつまでも急きたてられて走り続けることなどできるはずもなく、その内息が尽きてその場に昏倒した。 そのまま地面に肩を擦りつけながら、吸っても吸っても苦しくて、喉の奥のざらざらとした痛みに蹲り、 土を握りしめて、吸っていながら吐く呼吸を繰り返す。焦りも続く。

苦しみのなかでずるずると体を引きずって進み、 小さく上がる意味のわからない悲鳴や咳の狭間に、誰かの足音がしないかと、耳を澄ませ続けた。 地面を這っていると、涙でぼやけた視界のなかに人一人ぶんの大きさの木の根が降りて土の壁に出来た洞を見つけ、 考える間もなく、身を縮めて入った。周りが見えなくなって、ようやく足が止まる。

それから少し経ち、延々続くような苦しみが治まり、静かななかで息が整った頃、この異常なことに我に返った。


(さっきのは、なんだったの?)


私は、住んでいる村の山のなかで、真夏なのに震えながら膝を抱えて蹲っている。







【初日3時50分55秒】







こんなのは可笑しい。


生ぬるい土の間に挟まれ、泥だらけの汚れたパジャマのままようやく私は考え初めた。 背中が冷たい。雨が降っていたような気がする。足の指をじっと見つめ、あまりの汚さに動かすと、 パラパラと乾いて張り付いていた土が落ち、後は湿って指の間を粘つかせる。
私は自宅の寝室で寝ていたはずなのに、いつの間にか外にいて、格好は寝たときの寝巻のパジャマのまま、 靴もはいていなかった。なんでいきなり外に。いや、それよりも。思い起こすと目の前にチラチラと見たくない光景がかすめた。 老婆や、銃口や、老婆の持っていた鎌。凶器。危険物。
それが向けられた。自分に。

どうして? 

夢?

でも、老婆の振り上げた切っ先は風が頬に当たるくらいリアルに自分に向かってきて、 影の中にいて輪郭しか見えなかった何者かの放った銃弾の掠めたふくらはぎは今もちゃんと熱く、痛みがある。 この異常事態がもし悪夢だったなら、もう何度も起きるタイミングを失っている。 今だって、バクバクと大きな心臓の蠢きに飛び起きたっていいはずだ。


(夢のわけない。だったらなんで、どうして、なにが起こったの?)


散々無意味に悩んで考えを巡らせて、思い当ったのは、家族はどうしただろう、ということだった。

木々の間から見える村では、深夜だというのに絶え間ない甲高い小槌の音と、 肌が泡立つような恐ろしい獣のものじゃないだろう叫び声がわずかに響いている。 人の居ない森の中に逃げ込んで今こうして息を自分がしていることを思うと、 恐ろしい音達の聞こえる方向にある家にいる家族が心配になった。 私も家族と同じく家にいたはずなのに、どうして。繰り返し思う。  そして、状況を確かめるというよりも、義務感が強く自分に訴えかけた。

帰らなくちゃ。

洞の土壁から背中を離す。自分の息すら騒がしい一瞬を飲み込み、 獣のように、じんわりと寝巻に染みる山肌を感じながら、 四足になって洞から出た。舐めるように、闇に見つからないように、村の方向へと向かい始める。

幸い、ここが村の東の山だということは分かった。目につく村の造形はしっかりしている。 それでも冗談のように震える足のせいで何度も子供のように物陰の地面にべったりと腰を下ろしながら、 時間をかけて、ようやく村の道のすぐそばの背の長い草原のなかにたどり着き、村の中の道を息を殺して伺った。




【初日4時20分22秒】




夜中のいつの間にか降り出していたらしい雨がやはり村に降り注いでいた。 そこに人影は見えない。先ほど、途中まで追いかけてきていただろう老婆の姿もなかった。 しぃんと当たりは静まりかえり、すっかり夜の帳が下りている村は時折響く可笑しな声と小槌の音以外は通常に構えている。 空気はざわめきをすっかり内包していて、まるで草に隠れて様子を窺う私を嘲笑うかのようだった。 そう思ってしまうと、ふと、怯えばかりだった心のなかに疑いと駆けていくようにある可能性が過っていく。

(まさかね)

記憶の中にある、言葉にならない叫び声をあげて向かってきて鎌を振り上げたその老婆に抱いた印象は、ただただ恐怖だった。 しかし、思い返すと身なりはしっかりしていたように思うし、昼間、近くの畑で仕事をしている近所の人の格好そのもののようだった。 疑い始めると、記憶はそんなはずがないと思いながらも次第に焦点をずれ始めていく。 数々の疑わしい個所ばかり目についた。

老婆の握りしめていたものは本当に鎌だった?―――多分、それはそうだった。 あれは本当に襲いかかってきてた?老婆の言葉は急なことで寝ぼけて理解できなかったのでは? そうだとすれば、老婆は一体何を伝えたかったのか?

―――助け?

老婆自身が、自分に銃口を向けてきた何者かによる被害者だった可能性だってあったのでは。


(……)


記憶のなかで恐ろしく変化しようとしている老婆の顔面は最初から血の汚れのようなものがついていた様な気がする。 もし、この目に見えない範囲で、血みどろになって絶命した老婆が転がっているとすれば。 ―――その姿を想像してしまい、「まさか」と冷たい汗が滲む。 自分が走っていたとき、山のなかで膝を抱えていたとき、銃声や悲鳴は響いていただろうか。わからない。 その時の記憶がほとんどない。枝のない進行方向や、膝の上についた泥を見つめてただただ近しい場所の音に気を配っていたような気がする。

もし、老婆が誰か恐ろしい猟銃を持った人に襲われ、私を見つけて助けを求めてやってきていたのなら、 そして、まだ生きているなら、これからだって警察や病院に知らせに走るべきだ。


―――けれど、近くに老婆がいるのなら、銃口をむけてきた人物もまだいるのだろう。


(……誰か)


祈るように思った。
収まってきていた震えが再び大きくなり、思いとは裏腹にその場で身を縮めた。 老婆に急きたてられ走り出したその先にあった、ぽっかりと空いた銃口がこちらを向いた時の息苦しさを思い出してしまった。 助けにいかなければならない。だが、足は重く、呼吸すら上手くできない。


(誰か)


しかし、人気も、民家も、公衆電話も、寝巻の格好で寝ていた自分に電話をかける持ち合わせもなく、 人を呼ぶ為に捨て身に叫ぶ勇気もついにない。


(…とにかく、家を目指そう)

家にたどり着いたなら、このことを話して警察に連絡し、 その後、家族や近所の人達を引き連れてこの場に戻って老婆を探すことだってできる。

そう思い至って、膝立ちになり、恐る恐る目の前の草を掻き分けた。そして、がくがくと頼りない膝を叱責して立ち上がる。 生まれたばかりのように立つことに慣れない歩行で、開けた視界の左右を見渡し、道の真ん中に行くのは危険なような気がして、 転びそうな小走りで、向かいの小屋の壁へと張り付いた。そうして、ずりずりと、手を這わせ、次に曲がり角を見る。 ここを曲がって歩いていけばいづれ、川に沿って開かれた大通りへと出るはず。 しかし、いざ張り付くと、ここから飛び出す勇気が出ない。ここから先、うまく隠れる場所があるかどうかもわからなかった。 それに、タイミングを計り、頭を出したその瞬間、待ち受けていた猟銃に打ち抜かれるような気がする。 そんなわけがないはずなのにそう思ってしまう。 けれど、いつもの通りに自宅で寝て起きた場所が外で殺されかかる可能性だってそんな杞憂と同等だと思う。

張り付いたままの姿勢で停止したまま、雨でパジャマがぐしゃぐしゃになっていった。 小屋にやもりのように張り付いているだけなのに、膝の震えは倍の振れ幅を叩き出している。 駄目だ。このまま進むには心細すぎる。踏ん切りがつかない。

思うと、あんまりに小心者すぎて、顔が強張って、楽しくもないのに口端が上がっていった。 頭を出せば打ち抜かれ、このまま立ち尽くしていれば脳裏にはすっかり恐ろしい形相になった老婆の気配が 背後にチラついてしかたがない。想像の老婆が、血の噴き出す真っ白な両目をカッと見開いたところで、 ずりずりと座り込み、目を瞑って、小屋にすがりついた。


(何が助けにいくべきだだ。私が誰かに助けてほしいのに)


そうして、抜き差しならずに座り込んでいると、丁度顔の近くに小屋の戸を開く木製の簡素な取っ手があることに気付いた。


(何か、なかにあるのかな?)


この形状なら、鍵がなくても引くだけで開けられるはず。 すがる気分に誘われるように私は取っ手を握って開き、中を覗いて見ることにした。



【初日4時50分35秒】



ぎぃいと響きながらドアはあっさりと開いた。
なかの暗い極狭い室内には、まず正面に鍬が立てかけてあり、近くの古い木製の引き出しを開けると鎌があった。


まず、鎌を手に取り、錆びて丸くなりながらも指を這わせて少し力を込めれば皮膚が破けそうな歯を確認する。 銃を持つ相手に対してそれがどれほどの威力を持つというのか。悪戯に考えた。しかし手は鎌を引き出しに戻さない。 (投げつければ意表ぐらいつけるかもしれない) そう思い、これをすでに持っていく、と決定し終わっている自分にどこか驚いた。 けれど、確かめるように、確実に鎌はポケットに引っかけるように入れ、次に鍬を持つ。木目が温かく、思ったよりも重たかった。 これにも泥が付き、灰色がかった柄を見るに、新品には程遠いものだ。この小屋の持ち主が使っていたものだろう。 この鍬からも手は離れない。つまり、私はこれらをここの小屋から無断で持ち出すことになるのだろう。

家に着いたら、日が昇ったら、この状況が単なる勘違いだったなら、という、 そんな返却の予定を勝手に立てて、重たい鍬も持ち、しっかりと二つの自分の“武器”を手に握りしめた。

(持っていこう)

うん、と頷く。
明日これらの持ち主が警察を呼んで、泥棒とされようとも構わない。むしろ、そうなればいい。とすらわざと勢いよく考えておく。 そうなったら、理由を話して、寝ぼけていたようですと、恐ろしい方法で使わずにすんだこれら農具を返却し、誠心誠意謝ろう。 なんとか言い分が通り、母親に苦言され、休みの日にお詫びの品を苦心できたなら、それがどんなに今では幸運か。 しかし、恐らく、そんなことはないだろう。 いくら誤魔化しても全身の鳥肌は引かず、この空気の雰囲気は常軌を逸していると確信している。

覚悟して、二つを身につけて持ってみると、やはり、ずっしりと重かった。

(重いほうがいい)

ちっとも薄れない不安でふわふわした足にはこれくらいできっと丁度いいはずだ。



【初日5時40分59秒】



小屋を出るときは、鍬をまず先に出し、それになんの衝撃もないことを確かめてから意を決めて頭を出した。 その先に続いている同じく無人の道にほっと心をなでおろしてから、 再び息をつめてなるべく目立たないように端の影に沿って先に進んでいった。 方向で言えば、家のある村の中心部の方へだ。

けれど、途中、誰にも合わず、静まり返った村の畑の中を歩いている間に焦れて、 自宅へ向かう前にどこかの家で電話を借り、血まみれの老婆について、 警察に状況を伝えたほうがいいかもしれないと、思いついた。 そこで、とりあえず家に向かう方向にある近くの住宅を目指すことにした。 しかし、考えとは裏腹に、山から村の中心部の近くに行くにしたがい、小槌の音や声は大きくなって、 それが時折足を止めてしまうくらいに恐ろしかった。

(こんな夜中に一体誰だろう? 近所から電話が掛ってきて咎められそうなものなのに)

ついに無視できないほど小槌の音が聞こえるようになって、抑えつけるようにそう思った。
気を緩めれば、思わずこの音と想像上の化け物となってしまった老婆を結び付けてしまいそうになる。
足を速めて、きっと、迷惑な人がいるのだと、気にしないようにするのに一生懸命だった。


そうして、山や畑ばかりだった風景に、民家がちらほら見かけるようになって、戸惑いながらも知らない人が住む家の前へと立った。 物騒な鍬や鎌を下に置き、体に張り付く土や雨や草の汁などで汚れた斑のパジャマを摘まんで体から離し、 バサバサと空気を入れる。濡れて張り付く前髪を分けてから、意を決めて 「すみません! すみません! 」と言いながらガシャガシャと引き戸を叩いた。


「すみません! 夜遅くにすみません! あの、山の方に変な人たちがいて、
 お婆さんが巻き込まれて怪我をしているかもしれないんです!
 病院と警察に連絡を取りたいのですが、電話を貸して頂けないでしょうか!?」


叩くのを止め、暫く待ってみた。しかし、返答はなかった。
玄関を離れて、建物を見上げるも、電気の一つ着く気配もない。 近所の家も、引き戸を煩くガシャガシャ言わせているというのに、誰も窓も開けず見にもこない。


「あの、お休みのところすみません! お願いします! 警察に連絡をさせてください!電話を貸してください!」


自分がたてる音以外ほとんど物音しない人の気配の無い家々に嫌な予感がして、再び強く戸を叩く。
躊躇してしまうほど大きい音が辺りに響く。


ガシャ!ガシャ!ガシャ!


「すみません! すみません!」


戸を叩くのを止めれば、やはり、しぃんと静まり返り、遠くのほうで、コーン、コーン、と小槌の音と、 不気味な叫び声のような音がする。その音に急かされるように息を飲んで引き戸の取っ手に手をかけた。力を入れる。 グッと手ごたえがあった。鍵が掛っている。こんな夜中に出かけているのか。熟睡しているのか。 この家を諦め、鍬と鎌を持って、今度は隣の家の玄関へと移動し、それら二つを置く手間も惜しんで、戸を叩いた。


ドン!ドン!ドン!


「すみません! すみません! お願いします! 誰か!」


沈黙。

離れて窓を見上げる。網戸の奥で、白いカーテンが下がっているのが見える。
しかし、電気がつく気配がここにもない。


(なんで)

前の家と同じくこの家にも鍵がかかっていることを確かめると、振り返り、少し離れたところにあるもう一軒の家へと走り寄る。 しかし、戸を叩く前に立ち尽くした。この家はほかの家とは少し様子が違った。


ドアや壁に大量の板が打ちつけられている。

しかも、それはとても乱雑で、板は傾いたり重なったりしていて、 その雑さを何本もの釘が打ち抜いてなんとか固定されている。
家自体もなんだか古く、とても人が住んでいるようには見えない。


(空き家?)


横から確認すると、この家の戸は引き戸ではなく、ドアノブがついていた。 このドアは打ちつけられた板のせいで鍵をあけても開かない。なぜ、空き家にしたって、どうしてわざわざこんな風に? それを考えると、ぞく、と、嫌な予感が駆けた。コーン、コーン、と小槌の音が響いている。 戸を叩くのを諦め、周りをくるくると見渡す。この三軒の家のほかは、まだ先に行かなければならない。 小槌の音は続いているほか、叫び声は今では聞こえない。 聞こえなければ聞こえないで、焦りが滲んで、じり…と足を後退させかける。 今まで歩いてきた裸足の足の裏はじんじんと痛む。小さい傷が沢山出来ているらしく、見るのも嫌だった。 降り続いている雨もじわじわと体力を奪っていっている。


(どうしよう…)


もう一度、もう一度だけ、先ほどの隣り合った二つの普通の家の戸を叩いて確認しよう。
そう思って、鍬を持ち直して、持っていた鎌をポケットにしまい、足早に奇妙な家から遠ざかる。

その時だった。



……うぅぅぅううぅうううう!!



―――サイレン。




「え!?火事?」



どこから鳴っているのか、サイレンが村に鳴り響く。 それが四方八方から鳴っているように重なって聞こえ、頭が割れるくらいに大きくなっていく。 通常の火事を知らせるものではない。サイレンだけが延々鳴り響き、アナウンスもない。 そして、こんな音のサイレンを聞いたのは村に住んでいて初めてだった。





ぅぅうううううううううう!!!




「何!? 何が…」


鍬の柄を肩にかけ、しゃがみこんで頭を押さえたまま周囲を見渡す。 こんな大きな音のサイレン。ただ事ではない。それなのに、見渡せるどこの家も電気もつけない。

―――可笑しい。何か、可笑しい。

村のなかでたった一人追いつめられた様な気がした。 ただただ、ぐるぐると、当たりを見渡していると、何かが視界の隅で動き、 先ほどの板の打ち付けられた家が目について私は視線を止めた。 古ぼけて黒と灰色ばかりの家に白い色が動いている。 二階の窓が開いていた。中のカーテンが外に出て、風になびいていた。



(玄関は、あんなに厳重に閉じていたのに)



そう思い、私は目を凝らしてしまった。

カーテンの色が可笑しい。人型にうっすらと黒い。
いや、白いカーテンの暗いその奥で、目から血を流す女がこっちを見てる。



「―――え? 人?」


出口は塞がって出れないのに。真っ先にそう思った。

ますます大きくなるサイレンの音の中で、私の疑問の声はかき消されただろう。 女はこちらを無表情に見つめていたが、だんだんと、その表情を歪ませ、 やがて、口を開いてゲラゲラと笑いだし、その口の隣をいくつもの鮮血の粒が落ちていく。


は は は は は は


女の、きっとそんな笑い声もサイレンの音がかき消し、口は大きく開き、痙攣する腹と肩が、 煩い雑踏のなかで見る不気味なサイレントムービーのように思った。私は恐ろしくもその女から目が離せない。 女は笑いながらよろけるように窓枠へと手をかけた。あんまりに笑ったからそうだと思った。
けれど、女はぐっと、身を乗り出してくる。
ぐぐ、と危ないくらいの姿勢で、胸をせりだして、一度、血の滴る正気じゃない目と目が合う。 女の足が窓枠の上へと上がったのが見えたところで、私は走り出した。女はこちらに来る気だ。 二階から直接、開かないドアではなく、あの女は、私の、私のところへ。



人間じゃない。

人間じゃない。

―――ばけもの。


再び、火がついたように、女から逃げ初める。まだサイレンが大きく響いている。 降りしきる雨粒が目に入りそうで瞬きをすると疲れからか視界がチラつき始めた。 目をこする手間も惜しんで走った。視界を治そうと必死に瞬きを繰り返した。 しかし、視界は目を閉じるごとに鮮明な不可思議な映像を映し始めた。

(何これ)

進んでいる方向に実際にはいないはずの誰かの後ろ姿が見える。 薄く赤く染まった汚れた背中。手に何か長い物を持っている。女だ。女が目を閉じると前を走っている。 何度めかの瞬きで、目を閉じると見える視界は私の動きではない動きで上下にぶれることが分かる。

(これは、)

目を閉じる。見える。目を開く。目を閉じる。地面を蹴る裸足。ぶかぶかとした格好。 服が湿って足を出す度に体に張り付いている。

(これは、)

背中に布の張り付く冷たい感触。手に持った重たい鍬。


(いや。分かりたくない)


閉じた瞼の裏に映る女の背中にも捩れたパジャマの濡れた布が張り付く。


(いやだ!)


自分のものじゃないうめき声が近く響く。
視界に映る女のパジャマのポケットには、引っかかった鎌が振り子のように揺れている。


もう、老婆のことを警察に通報する気は私にはなかった。







小説TOP/






初日2時40分56秒











連載のほうで屍人の登場がまだ先そうなので戯れる場を作りたいという動機で書きましたどうあがいてもふくらはぎィ! 流れは順当に絶望、に、なる予定。