闇に甲高い足音が響く。

寝静まった街でその音は思ったよりも遠くに響き、昼間は聞こえない電車の音が夜になると響いてくるように藍色をした空気は異なる雰囲気を持っていた。

追いかけっこは、男と少女が出会った路地裏近くにまで及んでいた。
アパートには、もう少し掛かる。上手くいって、災難はなく無事に来ていた。 が振り向くと、鋭い目つきをした男が直ぐ後ろにいて、その腕が伸ばされるが、“壁”があり、触れられず、堪えきれずに男がチッと舌打ちをする。 それに少女は、一瞬、むっとして、男を見た。

男がアパートに行く事に頷いたならば、“壁”は無くす、と、は既に条件は出していた。 しかし、視線で問うと、返ってくるのは先ほどよりも数段鋭い眼光で、それが答えだった。
男は、折れてはやらない。一本だけ。怯えも不安もするのに強靭に一本だけ、自分のプライドだけは絶対に手放さず、言葉を跳ね除け続けた。 だから、良心と決意と、生存本能とプライドのチキンレースは続き、 今のところは少女の思惑通りに進み、このまま路地裏の入り口を過ぎいくつかの橋を渡れば、あの鉄のアーチが見えてくるはずだった。 男にしてみれば感謝した能力が反転して、憎々しさも跳ねあがり、目も吊り上がる。

「……何でそんなに嫌なの? ちょっと、アパートに寄っていくだけだよ?」

「……既に母親が帰って来ていて、危ないから止めろと命令されたら、
 お前、その後をどうやって繋げるつもりなんだ?
 家出人か誘拐として通報されて、その追手を引き連れてイタリアに行くつもりか?
 捕まりはしないだろうがな、うっとおしいし、無いとは思うが、向こうに伝わる切っ掛けになったら不味い」

「向こうとか、組織とか、何なの?……貴方は、教えてくれないんだろうけどさ。
 まだ、お母さんが帰って来てるかどうかも分からないし、それに、お母さんは反対しないと思うよ。多分。
 あと、飛行機にしたって、やっぱり無茶なのは変わらないと思う。
 どこに墜ちるかわからないし、残骸の中に閉じ込められるかもしれない。
 海に墜ちて入ってくる水も、密閉した所での火災も、どっちも空気がなくなるには十分じゃないの?
 そうなったら、スタンドがあっても、私も死んじゃう。
 ……お母さんに協力して貰えたら、車も用意出来るかもしれないよ?
 時間がかかっても、こっちのほうが安全なんじゃあないの?」

「……。
 車では、時間が掛かりすぎる。
 襲い掛かってくる災難の数と種類からすれば、危険はどっちも、結果、同じくらいだ。
 飛行機のほうが上手くしたら墜落ではなく、もっと別の形の災難の可能性もある。
 手荷物検査が杜撰で、持ち込まれた武器で殺される災難だったなら、飛行機は墜落しない。
 そうすれば、一回や二回の災難でイタリアに着ける。飛行機のほうが可能性が高い」

「……でも、逃げられない飛行機は、やっぱり嫌だよ」

で譲れない一線がある。
アパートに行く?行かない? 改めて問う。男は頷かない。眉を寄せた少女は、前に向き直り、再び小走りで走っていく。 さっきからずっと似たような問答が続いていた。いくら母親は大丈夫だと、言葉を尽くしても、意味がなく、実際、あの母と会わなければわからないのだろう、と少女は思った。 そして、距離を確かめながら進んだ。離れ過ぎず、いざ、車などが男に向かっていった時にはが飛びつけるように。

そうして、暫く進んでは振り返る猫の様な歩行が続くと、最初は怒りと焦りと苛立ちに燃えていた男の方も、だんだんと呆れのような感情が内心滲み出ていた。 少女が安全な距離を計算しながら前を行くのに気が付いて、この子供が本気で逃げているのではなく、アパートに導こうとしている事、 今だに見知らぬ他人への情を捨てきれないのだと気が付き、まだ、そこを利用できる、と、考える。

結果、男は最終判断にアパートが見える場所を選んだ。
建物の外観から母親が部屋に帰って来ている痕跡が見受けられるようならば、己のスタンド、キングクリムゾンを使う。 もし、母親が帰っていなくて、無事、少女が伝言を残して、同意をとってイタリアに臨めるのなら、それに越したことはない。 “盾”を持った子供の機嫌はなるべくとって置き、なおかつ、言う事はきかせたい。そういう思惑があって、深夜の追いかけっこは成立した。



……けれど、

ここで判断を先送りにして“盾”を直ぐに再開させずアパートを目指した事は、 どこか、少女にも、男にも、最終的には上手くいくという根拠のない逸脱した自信があったにこそに違いなかった。今まで捌いてきた数々の死因が経験となり、異常も通常に感じる感覚は磨耗と慣れだ。 死への回避を続けていると、殆ど全ての生き物が逃れがたい偉大なる死が、大した脅威ではないという勘違いを引き起こす。 よくやりがちな自分にとって平穏な日常が永遠に続くという錯覚。ガラス張りで見る猛獣に愛らしさや親しみを感じ、娯楽にしてしまえる人間は、その背中合わせの世界を遠い異国だと思いがちだ。しかし、一度ガラスが取り除かれれば、その恐怖は一気に生々しく侵食する。

通り過ぎた路地裏の入り口に今は用はなく、はアパートに向かって歩き続けた。
暫くして再び振り返り、そこで、少女は、思い出し、氷のように固まった。


そこに、あの男の姿は、どこにもなかったからだ。






**






―――盾の少女は、男の死に様も、死体も見る事もなく、あっけなく日常に戻った。
終わりが来るのなら、そういう結末になるのかもしれない。


現実は非情だ。人間は死を忌避する。清く正しい生活からはグロテスクで残酷なものは極力排除され、覆いをされる。 暗転や、モノローグや、気絶なんかで淡泊に表現されても、その暗幕の向こう側は、ひたすら残酷で、救いがない終わりが存在している。 いざ、それに向かい合った時、“思っていたのと違う”となっても引き返しようもない。それが死だ。

男は生きている。まだ。

頭の側面で血潮が音を立てているのを聞きながら、唾棄にも等しい白けた想像が頭に過って吐き気がしていた。 自分のコントロールが効かない激しい呼吸に苦しみながら、少女が気づかず、音もなくやって来ていた次の災難に路地裏で一人、男は対面する。

彼をこの暗がりに引き込んだのは、冷たい手だった。二人が気にも留めず響かせていた足音や声に誘われてやってきたのか、そいつの顔は常軌を逸して、表情筋の一つ一つの動きを確かめるみたいな不気味な動きを続けて、視点の定まらない瞳の周りの白目が黄色い、歯がボロボロに溶けた末期の中毒者が路地裏の入り口の陰には佇んでいた。

それは静かな始まりで、背中をちょいと掴まれ、よろけるように路地に引き込まれたと思ったら、既に首にナイフが押し付けられていた。 声を上げようとすると、その切っ先がぐり、と抉りたそうな動きを見せたので、咄嗟に声を飲み込み、ふらふらとしながら意図の読めない正気ではない中毒者の行動に注視した。 不味い事に、引き込まれたと同時に、立ち位置が入れ替わり、入り口には中毒者が立ち、進める先は路地裏の奥しかなくなってしまっていた。 後退るとゆらゆらとしながらしっかりと刃物を握り締めた腕が、男の上下して動く喉仏を追いかけてくる。動くごとに細かく首に傷をつけ、生ぬるい血が流れ、傷の一つ一つがひんやりとし、それ以上にチリチリとした痛みと熱が増える。

痛みだ。

数十時間振りに男はそれを得た。そして、動揺をした。
切られれば痛みがある。当たり前の事だが、あらゆるものから身を守っていた“盾”のスタンドを経験した後からすると衝撃だった。 耐えられるほどの小さな痛みが、頭のなかでは、残響となって巨大に広がり、記憶に直結する。 かつて絶対だった死への入り口は、決まって痛みや苦しみがあった。蹂躙される生命の悲鳴。死の実感。繰り返しの再来。 ああ、嫌だ、という声が、思考をチカチカとする白に一気に染め上げた。

一度、混乱のスイッチが入ると、視界が狭まり、喉の奥が細まった。息すら苦しく、心臓が暴れ、背中が冷たい。横の壁に手を付け、男はじりじりと下がった。 時折、遠くの街頭の光を反射してナイフの銀色が瞳孔へ侵入するのが、それすらが攻撃のように思える。

スタンドを。

男は喘ぐ思考のなかでそれに行きつくが、精神の像であるそれは、男の心が悲鳴を上げていると形になれない。 繰り返しの中、何をしても死の運命はやって来た。スタンドも、能力も、意味がない。レクイエムの中では。 その経験が像へと影響を及ぼしている。砂の像のように崩れ、歪み、弱ってしまった。 再起不能の烙印だけは死んでも押したくないが、能力を使うには気力がいる。今はその気力も集中力も、混乱に負けて途切れ途切れだ。

危うい足は奥へ、奥へと、進んだ。少し、進むだけでナイフがピッタリ追いかけてくる。 暗がりの狭いところへ。その間、中毒者は極小さい声で「虫が虫が」と言って、自分の体をまさぐっていた。 中毒者には、誰にも見えない虫が見えていて、男の喉仏が毒虫に見えるらしい。その人にとっては親切なのかもしれない。 逃げる男を中毒者は追った。何とか虫を取ってやろうとする。下がる足がおろそかになれば歯が食い込む。

―――やめて。

過去、現在、地層のように折り重なった記憶と意識に、生存本能が攪拌を起こし、生き残る術を考える脳が稼働する。 言わば、走馬灯や、事故の瞬間、世界がスローモーションになるといった、死の間際での脳の火事場の馬鹿力。 彼の場合、それは毎回「声」になってやってきた。

―――またなのか。なんなんだまるで罰だとでもいうように。―――麻薬の商売をした奴が麻薬の中毒者に殺されれば因果応報か?本当にそう思うか?コイツだって、楽しんだからこうなったんだろうが。薬を扱ったのは組織の資金の為だ。大きくなった組織を支えるには金が必要だったんだ。ウチがやらなければ他がやるだけだった。―――あの子供はそのまま見ない振りして、アパートに行っちまったのか?―――薬を買うのも使うのも本人の自由だ。強制したわけじゃない。―――相手の気持ちを考えなさい? 可哀想な人間を可哀想がるのは誰でもできる。自分の事に手一杯になれば勝手に免除してもいい無責任な考えだ。自分が可哀想になれば、他人の想像の不幸よりもそっちのほうが鮮明なるに決まってる。その不幸がどんなにちっぽけでも、自分の事は無視できない。誰だってそうだ。だったら報酬や罰の契約のほうがよっぽど確かだ。―――こいつ、殺せるか?少しでも動けば刺さりそうだ。死ぬ。――― 一時の気持ち良さの為に頭も内臓もスカスカにして呻くだけの生き物になろうが、こっちは知ったこっちゃあないんだ。ヤクを使えばそうなるって当たり前の事も考えない馬鹿の事などどうでもいい。自分の不始末だ。自分で何とかしろ。―――クソが。あんな説教のような事言って結局これだ。偉そうな事言う奴は大体そうだ。そうも言ってられない絶体絶命な立場に立った事がないからこそ吐ける……。―――やめろ。関係ない。オレには関係ない。―――あの時みたいに。あの繰り返しの始まり。排水溝の入り口。切っ先が。血が。痛みが。

―――痛みが。

男の耳には、ピシピシ、という乾いた音がしていた。潮騒のような音に紛れて硬い所にひびが入るような。どこから聞こえてくるのかはわからない。首を動かして見渡すこともできない。

ついに、路地裏の奥の奥、これ以上下がれる場所のないところに来てしまって、足元には引っかかったまま、連れて来てしまった壊れかかった木箱があり、 それを潰しながら、道を塞ぐ建物の壁へと縋りつく。ナイフが喉に添えられ押し付けられ、 足から力が抜けて、ずりずりと座り込んでいく。刃は下にも追ってくる。体重の掛かった残骸がバキンと砕けた。僅かな振動に硬い部分に歯が入ったり出たりした。 座り込んでしまって、身を縮ませても、これ以上はどこにも下がれない。背中と頭が壁に押し付けられた。


―――関係ないだろ。

どうしていつもこんな目に遭うんだ? 運命なのか? 誰が決めたのかしれないそんなものが、生まれた時から決まっているのか? 手相や、誕生日なんかで? ……いつも、いつも、そうだ。レクイエム以前も。普通や無害さを装ってもハイエナの様に悪意を持った連中は群がってくる。人混みのなかから狙いすませたかのように。どうしてだ? どうしてオレだったんだ? こいつなら自分でもどうにか出来る、と、でも思ったからなのか? それとも、こいつならどうなってもいいと、関係ない他人の癖に、そのクソッたれな脳みそで勝手に判決を下したからなのか? ……でも、負けてなどやらなかった。負けてなどするものか。 生まれや、名前で、自分は最低な人生しか歩めないんだと諦めて生きるのは惨めだ。いつだって、あがなってどうにかしてきた。自分は強者なんだと驕った奴を逆に噛み潰してやってきた。

……どうやって? 自分はそれを、どうしてた。やり過ごせた時もあった。……良く覚えてない、けど。

誰かが。


そう、誰……か、が……。



ピシリ、




**




(い、居た!)


慌てて道を引き返した少女が、男を見つけるのに、実はそんなに時間は掛からなかった。
ちょっと路地裏への入り口覗き込むだけでいい。そこには誰かの背中があって、その向こうにもう一つ、人影があった。暗い方へ後ずさる人影には、背格好にも見覚えがある。逆に、こっちに背中を向けている人は知らなかった。でも、その手に持っているのが刃物だというのは、はっきり見えた。

“災難”だ。
目の前にある背中は十中八九、通り魔で、心臓が跳ね、悲鳴を上げそうになった口をは押えた。そして、じりじりと奥へ向かう二人の後を密かに追った。 あまりにピッタリとナイフが喉に張り付けられ、叫び声に気を取られた通り魔が振り返ったりしたら、恐ろしい事にそのままズブリといきそうだった。

男が奥に追い詰められ、壁の下、光が差し込まない角の部分に腰を下ろすと、その姿が闇に飲まれてこちらからは見えなくなった。通り魔は、男に合わせて屈み、最後に、よほど強くナイフを振り下ろす為か、首からナイフを離し、逆手に持ち直して上に高くかかげる。 それを見てから、今だ、と、走り出す。 都合よく、足音を聞いて通り魔がナイフを空中にしたまま振り向いたので、その顔目がけて途中で拾ったパイプの端っこを投げつけた。 通り魔は激高し、走り寄った少女に狙いを変え、上からナイフを振り下ろしてくる。

当たり前に、刃は、何もない空中で止まる。通り魔は首を傾げ、呆けたように何度かザクザクとそれの正体を探った。 その間に、見えないが実際にある足で、通り魔の足をは払わせる。予め、見えない手で、靴紐と靴紐を結び付けておくのは、人攫いにする悪戯でよくやった。 足が開かないまま転び、一度、横の壁に頭をぶつけ、打ちどころが悪かったのか、あっけなく、通り魔は、そのまま地面で静かになった。

上手くいった、と、思う。

そのはず。

そう、自分を納得させながら、恐る恐る は男の居るだろう陰を見た。
そこには、暗い所で、人が身動きを取らずに蹲っている、ように、見えた。唾を飲み込み、気を失った通り魔を跨いだ。 間に合ったはず、死んではいないはず、が、死んじゃってたらどうしよう、に、数秒の間に変わっていく。

手を離してしまった。何てことをしたんだろう。
少女は思い、蹲っているように見える人影に手を伸ばす。


「……ボス……?」

「……え」

しかし、知らない声がして、反射的にその手を引っ込めた。

「……誰?」

「……え?……ああ、そっか、ぼくはまた……。
 あれ?これ……、ああ、でも……あなたは……」

顔もまともに見えない陰のなかから少年の声がした。少なくとも男の声とは似ても似つかない。 と同い年、それかもうちょっと上くらいで、声変りもまだかもしれない高めの声。 ぼんやりとした、たった今気が付いたようなその少年は、何事か言って呟いているが、逆にはハッとした。 もしかして、人違い?と、思い、じゃあ、今頃、男の方はどうなってるんだ!?と、焦って、少年を置いて構わず路地裏から飛び出そうすると、 陰の中からにゅっと腕が現れ、の右手をガッシリ掴む。
堰を切ったかのように喋りだした少年の声には、闇の中には不釣り合いな希望と感動に満ちていた。

「 “ボス”!
 そこに居る貴方は、“ボス”なんですね! ああ!やっぱり!
 ぼくを助けてくれるのはいつも貴方だ!」

少年は“ボス”と言いながら、の腕を離さない。
薄ら寒いほど嗚咽交じりに健気に言うのだ。

「ずっと、会いたかった! いつも、直接は会えなかったから……! 
 貴方に会えたら、きっと、伝えようって、ずっと思ってたんです。
 ……ああ、嬉しい! 夢が叶った!」

影は、片膝をついて、の右手を引き寄せると、陰の中でその甲に唇を寄せた。
祈りのように、丁寧に丁寧に告げる。

「おれは、貴方に、永遠の忠誠を誓います」

「……あなた、誰なの?」

自分が“何に”、“どうして”忠誠を誓われているのか は訊ねた。
彼は、の右手を掴んだまま、一拍置いて、無言で立ち上がった。陰のなかから、少し明るいところまで身長が伸びて、それを見上げながら、うっそりと自分を見下ろす頭の位置が、予想よりもずっと上へと行った事に驚く。そして、血だらけの首の上に現れた顔は、目つきが悪く、無表情な、呪われた男の顔、そのものだった。

「わかった。一度アパートに行く。それでいいんだな?」

低く、さっきまで聞こえていた少年のものではない本来の声で男は言った。




**



「……もう、わかんない。
 わかるはずないよ。無理だよこんなの」


路地裏を出て、素直にアパートへの道を歩みだした男の右側を歩きながら、は考えるのを止めていた。 さっきの少年の声はなんだったのか。何で急にアパートに帰っても良い事になったのか。ボスとはなんだ。忠誠とか、あのキスなんかまるで、中世の世界か、ゴッドファーザーみたいだった。やっぱり男はマフィアなんだろうか。でも、あの少年の声はなんだ。喉どうなってんの?ボス?私?わからない。

「……喉の傷、大丈夫?」

散々混迷した挙句、少女はまずそれを訊ねた。男は、左手で首の有刺鉄線のような傷を少しなぞる。痛そうだが、既に血は止まっていた。なぞると固まった血が落ちる。 男の右手は の左手と繋いでいた。倒れた中毒者はどうしようもないので路地裏に放置した。ナイフは遠くに捨てた。夜明けの近づいた空の下に見渡す限り誰もいない。 二人は、がらんと開いた道路を歩きながら、何が何だかわからないが、何とか生き抜いた、という雰囲気に満ちていた。

今までで一番だったピンチを切り抜けた達成感のなか、は隣を歩いている男を隠れ見て、次に、地面に視線を移し、考えて、そして、決心して、彼を見て言った。

「今ので、はっきりわかったんだけど、
 ……やっぱり、ほかの人が乗ってる飛行機に乗るの、私、嫌だ」

「誰かが死ぬところを見るのが嫌なのか?」

男が、落ち着いて自分の意図を正確に汲んだので、は少し驚きつつ、頷く。

「……うん。
 運命があって、飛行機が墜ちるのは私達が選ぶ前から決まってた、っていうのは分かるよ。
 飛行機で行けば時間短縮になって、災難が少なくイタリアに行けるかもしれないっていうのも。
 でも、目の前で人が死ぬのは……それだけで怖い。怖くて、何だか凄く嫌なの。
 そうしなきゃ、貴方が死んじゃうかもしれないんだから、どっちにしても、
 嫌な目に遭うと思うと、考えたくないけど……。

 数で判断なんか、したくない。したくない、けど、
 墜落事故だったら、何人、目の前で、死んじゃうんだろうって、思う」

少女のなかではどうしても割り切れない。
それは彼女の精神に直結している価値観だ。少女はそれを告げると、男の首元を見て顔を歪めた。

「……その傷、痛い?」

「死ぬほどじゃあない」

でも、痛いんだ。と、傷に添えたままの左手を見て、言いかけた言葉をは呑み込んだ。 男の傷を見ていると息が詰まる気分になる。けれど、見ずにはいられない。ちらちらと何度も何故か見てしまう。

「……。例えばね、車なら、車そのものに触れていれば内側も外側も守れると思うんだよ。
 飛行機なんて大きいのは無理だけど、車くらいならできる。そしたら、乗ってる人も守れる。
 全部の過程を車で行くのは無理かもしれないけど、途中まで車で行ったら……どう?」

「守れる範囲はどれくらいが限界なんだ? 
 お前の壁は、ぶつかって来たものも傷つけない性質をもっているようだ。
 誰かを巻き込んで交通事故を起こしても、相手から恨まれる事も……ないか。
 それは、都合がいい」

自分の意見に男が肯定的に頷いた気がして、は目を丸くしたが、ちょっと元気が出るような気がした。
引きずるような足運びも、数センチばかり浮いて、表情もマシになる。

「範囲は、ちょっとやってみないと分からないけど、車くらいならいけると思う。トラックでも多分平気。
 ……あのね、お母さんに言えば用意してくれると思うよ。車も、イタリアまでの交通手段も。
 貴方は会った事ないから、わからないと思うけど、こういう事を放って置く人じゃないの。本当。
 良く血まみれの人を家に連れてくるの。多分、普通じゃない、変な人なんだと思う。
 スタンドは見えないみたいだけど。
 でも私は、お母さんの事、結構好き」

「……そうなのか」

男が相槌を返してくれるのが嬉しくて は大げさに頷いた。
そんな少女を苦手そうに、でも何とか男は直視する。二人はアパートに向かって歩いていく。

昨日の午後から引き続いて気温は高く、吹いていた強い風は今穏やかだった。 周囲に怪しい人影も車も無く、夜明け前に鳥も居なければ虫の姿もない。街中の道であり、植物も雹によって傷ついた街路樹くらいしか見あたらない。


……。

何回もの死因に行きあい、もうすでに誰の頭の中にも、忘れたものかもしれない。
昼間、公園で食事を終えた 達が郊外へと行く途中、濡れたその新聞紙に転んだ。しかし、誰がそれを気に留めただろう。昼を過ぎ、気温が高くなると、降った雹は溶け、一気に水になっただろうし、雹が降らなかった地域でも雨は降り、 だからこそ小さな湖の水嵩は高くなっていた。強い風が吹いた。風はあらゆるものを運ぶ。 濡れた新聞紙など、誰の意思でもなく運ばれ、綺麗好きの人が居なければ拾われる事もない。 それが今、目前の地面に張り付いている。二人とも、目には入っていたが、周囲は薄暗いし、それがあの時の新聞紙だとは気が付くはずもなく、 地面に平べったく張り付いた新聞紙くらい、手を繋いだ今、踏んでも別になんともないと思っても罪はないだろう。

そうして、最後に、もう一つ。
二人が出会ったばかりの頃の話。呪いが壁をすっぽりと包んでしまっていたと自覚するまでの道順での災難の一つ。 新聞紙の下に、あの時、逃げた毒蛇や毒蜘蛛が潜んでいる? 違う、そうじゃあない。自体はもっと単純だ。

足を踏み出すと、そこには何もなかった。地面すらも。

開けっ放しのマンホールの上に濡れた新聞紙は穴を塞ぐようにピッタリと張り付いていた。 踏んだのは男のほう。運悪く全身スッポリと上手い具合に収まって地球の引力に従い落ちる。掴まるといえば、喉の傷に添えていた左手では淵には間に合わず、右手で繋いでいた の左手しかない。少女が男の体重を支えられるかと言えば本体では無理だ。 スタンドを出せる暇があれば助け上げる事もできたかもしれない。けれど、掌から過負荷となった指がずるっと重力に従い、抜けてしまうのは一瞬だった。 離れないように結び付けていた布はさっき裂いたままどこかの道の上に落ちている。さらに、男が落ちた先にあったのは、大量の水と急流だ。 雨と、急激な気温の変化によって雹が溶けて増加した水が落ちた男を一瞬で闇のなかへと押し流す。

突然、瞬きの間に居なくなってしまった隣と、今確かに掴んでいたはずだった温かみの残る左手を見て、
それから、新聞紙の下から姿を現したマンホールの淵を は、覗き込んだ。水がごうごうと流れて行く。
そうして、少女は走り出した。どこへともしれない。

誰か助けて。あの人を、誰か助けて。

祈りながら、見つからない水の行く先を探し始めた。








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余談


ボスはボッシュート。
レクイエムにホッとする瞬間などない。まだ続きます。


・ディアボロの精神力について
ボスがポルナレフの言う多重人格(心に傷が出来て〜の話)で正しいとしたら、ボスの精神力って強いのか弱いのか。 キング・クリムゾンがあんなに強いんだから、精神力は強いけど、それを割るくらいの経験が過去にあったとすればいいのか。 なんかこう、ボスの精神は、硬い岩盤が積み重なってて横からは薄く割れるんだけど、 上からはどんなに叩いても割れないっていう抽象的なイメージがあります。なんとなく。人格のミルフィーユ的な。 文中に出て来たドッピオっぽい少年のあれはレクイエムの記憶が無い人格で、あの人格の時は、 弱ってないキンクリの腕か足を使えるとかいう設定。時飛ばしは気力出して集中したボス専用。 もう少し主人公が遅かったらドッピオ(仮)がキレて、中毒者の人に腹パンかキックで風穴をかましてた。 ドッピオにトリッシュに似たにおいのする魂の部分を与えたり、チャリオッツレクイエムの時、自分の精神を任意の他人に憑りつかせる事のできたボスなので、 必要に応じて精神を作ったり切ったり造形したり、人外並みに操作が得意という妄想。 ドッピオ(仮)の声が声変り前なのは「女で悪い事でもあるのか?」のセリフを言えたからまだ中性的な声なのかなって。 ボスの麻薬やその中毒者に関する思考はまったくの個人的な予想です。自分を守る為かボスはちょいちょい責任転嫁気味になるような。 あと肝臓が綺麗だったそうなので、健康にストイックで、健康を害する麻薬を使う奴を理解できないかもなぁ、と。