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なるほど、その女は美しい姿をしていた。だが、理解はしがたい女だった。

母親の連絡先は大家に尋ねると判明すると分かり、電話を借りて2日目の夜にはアパートに呼び出せるようになっていた。 放って置くと、あんな雹が降ったにも拘わらず、母親は6日目まで帰って来ず、 帰ってきても、母親が連れて来た大男に強盗に間違われ、6日分の疲労が溜まって意識が怪しいと離され、そのままディアボロは死んだ。6日も街の中で必死に生き抜いても無駄なわけだ。

そして、今日、母親は、電話口で事前に少女から奇天烈な呪いと男のあらましについて話されていたというのに、一人でアパートにやって来た。 対面を果たし、その女をまともに見て、ディアボロは悟った。 自らのその直感を確かめる為に、言うに事を欠いて、「自分の娘を連れて世界を移動し続けるのは娘の為か?」と、訊ねた。 どうせ、初回は、どうしたって情報収集のみで、死ぬことになる。だったら取り繕う必要もない。 女は、そう言った男に、ただ笑みを浮かべるだけで、答えは明確にはしなかった。だが、それで十分。十分にわかった。

“盾”のスタンドを持った子供が、まともな家庭で育ったら、まともになるのは、やはり、難しい。

傷ついた人間を見て、それは酷い事なのだと、普通の子供よりも強烈に“壁”の内側でも届くくらい経験しなければならないし、 不安も、生々しく肌で感じなければ、人の悲しみを理解することも出来なかっただろう。 上から鉢植えが落ちて死にそうになっている人を、自分には関係ない事だと見ない振りして逃げなかったのも、 正体不明な男が手を縛ったまま眠りたいといった要求を呑んでみせたのも、 そもそも、路地裏を好んで入り込むようになったのも、それを危ないと止めさせないで、 子供のみの留守中の家に上がり込んで来た男に、護衛もつけず通報もせずに笑ってみせる、この頭の可笑しい女の教育方針の御蔭という訳だ。

本来ならば最悪の分類の母親。
奔放な性格もそうだし、男を次々変えるのは彼女自身の業のほかなく、全てが娘の為だとは言えず、 結果的に、防御能力を生まれつき持った子供の情操教育として噛みあったというだけ。 けして褒めそやされるものじゃあなく、ディアボロ自身も、女に会った時、一目でこの女は手を焼く苦手な種類の人間だと直感した。
各自、己のルールを持って生きている者達は、扱い辛く、己の支配者を己にするから、他人に支配権を与えない。 盤上の王と王はけして結託はしないのが常だ。

どこか冷たいディアボロと、黙って笑う母親の顔を代わる代わる見て、 が「どういう事?」と、首を傾げるので「なんでもない」とディアボロは言い、少女の手を引いた。 事情を疑う事なくほぼ丸呑みにした母親は、明日にはとりあえず一番手短な移動手段に車を用意してくれると言った。 ディアボロは礼は言わなかったが、女もそれを理解して言っている。 大人は二人で分かった風にして、置いてきぼりの子供は、了解の裏側で行われた冷戦の戦歴に目を凝らそうとするが、母親がするりと近寄って頭を撫でて目隠しをした。 すると、ころりと騙されてしまうのがこの母子の奇妙な関係性を物語っている。

一つだけ。

ディアボロがこの母親に認めなければならないのは、この母親は、普通とは言えない子供を授かってもちゃんと捨てる事なく育てた、という所だろう。 痛みと寂しさを教えながら、逸れそうな雑踏のなかから、自分の子供の手を引いた。


その女に、仇をみるような目をしている、と、ディアボロは、言われた事がある。



**



繰り返しは続いている。

もう少し、と言うところで路地裏に戻される事もあれば、くだらない失敗をして間髪いれずに戻る時もある。 山を越え、海を越え、イタリアの国境が見えそうだった時に、土地の空洞化現象の崩落に巻き込まれて目撃者もいないまま地下数百メートルまで落ちて、 上に上がる事も、救い上げられる事もなく、穴のなかで二人遭難した時は、腹の底から地の底で大自然を罵った。 ディアボロは、相変わらず死んで、死に続けている。しかし、前とは違った落ち着きがあった。

知っている場所、知っている人間、知っている死因。
それらが足場となって、目を瞑る瞬間、次を考え、心穏やかにしていられる。

“盾”の少女についても、成り立ちが分かれば、扱いは馴染んだ。

この子供は、自分の傍で誰かが傷ついているのが苦手だ。 自分に“盾”があるからこそ、他人の傷に逆に敏感なのかもしれない。 自分にはつかない傷を見て、その痛みを想像すると、参考資料が少ないからか、その想像には限度がなく、肩身の狭さに似た罪悪感すら感じている。 また、“害”が自分に必要だと感じると、その“害”を受け入れてしまうらしい、というのも分かった。 筋肉痛になるのもこれだ。成長するのにも今ある細胞を壊して増やして入れ替えねば背も伸びない。 その気質は、残酷になれそうもなく、報酬が無くても、隣で人間が死ねばそれだけで、“盾”の少女にとっては多大なる損になる。 最後のこれは、ディアボロが死ぬ度に何度も体験し、体感した。死に行く自分に、少女は必ず取り乱す。

少女に対する不気味さも、不安も解消され、あとはいかにしてイタリアに向かうか、だけになった。
目標もあり、方法も、失敗しても何度でも試す事が出来た。これなら、明日を信じられる。今日よりももっと良くなった未来を目指せる。

人間は、産まれてからずっと目標を追いかけ続ける生き物だが、死の先にあるのは体の腐敗と自己の消滅だ。 死の淵では、誰でも絶望する。目標がなくなり、消える意識に嘆いて、天国や地獄を想像して自分を慰めようとする。 でも、ディアボロに、それはもはやないも同然だ。不運という落とし穴に落ちても、あるのは“盾”を持った少女と、必ず、続いている道。 死の先を得て、何度でもやり直せる生を得た。これほどまでに約束されたものはないだろう。

かつて裏社会の頂点として絶頂を極めた満足感こそ無いが、今までにない安定感があった。 傍らの少女は変わらない。裏切らない。どんな行動をとっても、どんな試行をしても、辿り、帰るのは、あの、路地裏。

……帰る。


「どうしたの?」

ふと、漠然と遠い懐かしさを感じたような気がした。

立ち止まった男を不思議そうには見上げてくる。 少女は腹が減っている。昨日の昼からなんにも食べてない。ディアボロも腹が空いていた。 いつものオープンサンドの移動販売も悪くはないが、今回こそ、あの食料品店で買い物を成功させたい。 ディアボロは少女に答え、歩みを再開した。

「……帰るとは、こんな感情かと思っていただけだ」

そこに帰れば安心だ。
しかし、そういえば、そんな場所、持てた記憶がなかった。




**




泣き声がしていた。

ディアボロはひしゃげた車の前にいた。
が泣いていた。崩れ落ちて車に縋りついている。辺りは暗い。夜だった。 手はいつもの様にお互いを結んで縛っているが、片方の手でしか縋りつけないがグイグイと引っ張っていて、 ディアボロの手がゆらゆら揺れていた。

単独事故だ。
不幸が他を巻き込むのは良くないからなるべく空いた山道にしようとして、 その狭い道で釘か何かを踏んだタイヤが破裂し、泥水に滑ってそのまま木に追突した。 二人は無事だ。は「届かなかった、届かなかった」途切れ途切れに言葉にならない声を上げながら窓を叩く。 ぶつかった衝撃で歪んだ先頭部分とは違って後ろのドアは開き、事故の後、 運転席を見ないように直ぐに車外へと少女を引きずりだしたディアボロは、自分の腕の中で絶望した声を聞いた。 窓ガラスは真っ赤だ。

山道は既に街から遠く、辺りに人家の気配はなかった。連絡手段も何もない。 それに何よりその赤は静かな車内から途切れることなく熱を奪い取るかのように滴っていた。 車に触れていれば、のスタンドは車ごと全てを守れただろう。 だが、滑った衝撃で少女の体は宙に浮き、瞬間にそのまま車は半分潰れてしまった。

泣きわめく少女の横で、ディアボロは立ち尽くしていた。彼自身に悲しみはない。 その女はいくらかすれ違っただけの他人だ。死因としても見慣れている。

ガソリンが漏れ出ているのか匂いが漂ってきた。 火が付けば危ないので、をそこから離さなければいけないと思って、肩を掴むと、涙で濡れた瞳がこっちを振り向き、ギクリとした。

「どうしよう!」

縋りついた手に赤が移っている。

「どうすればいい? 救急車呼ばなきゃ、電話しなきゃ、どこに電話あると思う? どうしよう!」

ディアボロは既に女が手遅れである様を見ている。 電話を探してボロボロ涙を零すにそれを告げてやれば、この可哀想な錯乱ぶりも収まるだろうが、 その言葉は口からは出なかった。じっと少女を見る。

胸の真ん中がスカスカとした妙な気分ではあった。は電話を探している。ずっと。
見飽きている、とも思った。電話を探している子供は見飽きている。
誰かに助けを求めて、子供は、繋がる電話を探す。

ディアボロは無言で砕けたフロントガラスを拾い上げるとお互いに縛っていた布をビリビリと破り始めた。 “壁”は反応すらせず、さっき見た赤い小さい掌は実際細かい傷だらけだった。精神性の盾は、既に自らを守るのを放棄している。 もう、この周回は駄目だ。“盾”が再起不能になっている。去る前、ディアボロは気まぐれに一言少女に残す事にした。

「お前はここにいろ。わたしは助けをよんでくる」

がその嘘に気づく前に、ディアボロはその場を離れた。
後ろで一人、地面に膝をついていた少女がどんな顔をしていたかも見なかった。

……前もそうだった。残していく時、ディアボロは前だけ見ていた。「矢」を手に入れる事を考えていた。頭痛がした。 あの少年とは長い付き合いだった。あの時、矢を手に入れ、始末が終わったら、また、己の内で会えるものだと、少しでも思っていただろうか。 けれど、今回は、そんな曖昧さはない。この先にあるものは確実だった。

鋭い光が山道を駆け上がって来ている。
運転手は後ろの席の飲み物に手を伸ばしていて前を見ていない。

その車に轢かれてディアボロは死んだ。




**




「ぎゃー!痛そう!」

はアパートの部屋で隣にいる。

テレビを見ながらスケートボードで階段の手すりを滑り落ちようとして、脛をぶつけて失敗した場面に悲鳴を上げていた。 ディアボロはもう寝るように少女に注意をしていた。時計はもう夜の9時を回っている。 不満そうな顔はしたが、注意が新鮮なのか、いそいそ引っ張られる先のベッドにやってきた。 父親がいる、なんて余計な事を考えてそうなので、「寝ろ」とだけ言ったら、ますます嬉しそうにはしゃいでいた。

少女は機嫌がいい。
クスクス笑いながらなかなか寝つこうとせずに雑談をしていた。自分が今まで見た色々な国や人の事、 どの国にもある似たような路地裏を不思議に思う話、ディアボロの返事は無いのに、話題は途切れそうもなく、将来の夢の話まで飛躍していった。

「小さい頃は国とか街とかよくわかんなかったから、
 景色は思い出せても、自分がどこに居たのか殆どわからないし、多分、忘れちゃってる。
 だから、大きくなったら色んな国を回って、思い出したり、
 どの国だったのか確かめたりしたいって思ってるんだ。

 ……報酬にお金くれるって言ったでしょ?
 あの時、そのお金が貰えたら、旅の資金とか移動手段にできるかなぁって、実は思ったりした」

だが、それをするには、あの母親と離れ離れにならなければならないんじゃあないのか。
指摘すると、「そうだね」と意外と落ち着いていた。寝っ転がったまま顔を横にして、見ていると「何?」と言ったので「泣くかと思った」と言うと、 「いくらなんでも泣かないよ」と、膨れる。それでもは母親に対して、 いつか本当に好きな人が出来て、一か所に留まってくれればいいな、とは思うけど。と、言う。

「いつか本当に好きな人が出来て、一か所に留まってくれればいいな、とは思うけど。

 ……あれ? あのって何? 
 “ディアボロ”さんは、お母さんの事知ってるの?」




**




「ベネ!」


上から落ちて来た鉢植え、頭に添えられた手。聞きなれた声。 路地裏が好きな少女は出かけて行った母親を古い外観のアパートで待っている。 家具の殆どはほこり避けの白い布で覆われていて、電話はあるが料金を払ってないので通話はできない。 管理人の老女は、昔、イギリスの方に住んでいて菓子屋をしていたが、国際結婚をしてこの国にやってきた。 旦那とは死に別れていて、その話をすると相手の肩を小突いて照れる。小突かれる場所には注意しなければならない。 アパートの住人は服のデザイナーが事務所と兼任して借りている部屋と、白夜のシーズンにやってくる研究者の部屋がある。 研究者の家は本の重みで軋んでいる。 と母親の部屋の隣に新たに越してくるのはこだわりの強い独身男性。引っ越しの時に事故がある。 二階と一階の間の三段目の階段は錆びていて何度か踏んでいると下に抜ける。 の母親を追ってきたストーカーの男は駅近くのホテルで宿泊している。 警察に届ければ前科が判明する。このストーカーが母親と対面すると、下劣な言葉を叫ぶのでの耳は塞ぐこと。 公園は安全地帯で、休憩には一番向いている。ただし、との距離が近い場合、公園に来ていた保護者達が通報し、警察が巡回にくる。 食料品店では良い結果を生まないが、時間つぶしにはなる。 が浮かない顔の時は、腹が減っているのが大半なので、その時は軽食を与える事。 甘い物1に対して辛い物2飲み物3。辛味は痛覚に近く辛味には強い。アラビアータを食べてもピンと来ないのではないか。それは不幸なのか幸運なのか。 食べ物は良く噛んで食べる事。詰まらせたら“盾”は役に立たない。 道徳や法に反する行為は結果的に自分を追い詰めるのでなるべくしない事。 ホテルは赤毛のホテルマンに宿泊の空きがあるかどうか確かめる。必ず赤毛のホテルマンにする。 道に落ちているゴミは拾う。拾ったゴミは分別してゴミ箱に。分別はしろ。ペットボトルのキャップは外せ。 夜に山道は通らない。山道は通らない。山道を通る事自体をやめろ。……。



……には夢がある。

色んな国に行く事、そこで思い出を文字に書きつけて置く事。 似ている路地裏は、写真でも取って、後で比較してはどうだとアドバイスすると喜ぶ。 母親を尊敬している。でも、10才の頃から母親の性分をちょっとずつ理解している。 内心、どこかで落ち着いて欲しいと願い、その住所と国の名前をよく覚えて置きたいと望んでいる。 ディアボロという名前を名乗った時、「貴方は悪魔なの?」と恐る恐る問う。 だが、警戒心は続かない。色々な言語を知っているからか、どこかの国では名前としてポピュラーなのか? と、でも思っているんだろう。 話しているのはイタリア語なのに。別の国のわけがあるか。名づけられた経緯を聞きたがる。

死んだら必ず路地裏に帰ってくる。

必ず。

盾の少女はそこに居る。




**




「怖い目をしている」

仇を見る目だと、女は笑いながら言った。
は寝ていた。母親が帰ってきて安心したのかもしれない。ディアボロは少女が穏やかに眠るベッドに腰を掛けていた。 睡眠欲求は少なかった。精神は安定している。手もいつもの通りにすることが出来ていた。 隣の部屋の荷物の運び入れが始まっている。明日の朝の9時にはこの部屋を空室にしておかなければならない。 「さあな」とディアボロは答えていた。取り繕わなくてもいい事は知っている。女が死ぬパターンは必ず交通事故だった。 女は一笑すると別の部屋に行ってしまった。その後ろ姿を追う。

寝ている娘と良くも知らない男を部屋に二人きりにしても平気な女の神経をディアボロは嫌った。 無神経なのか、自分の判断に絶対の自信があるのか。 子供一人、言葉もなかなか通じない国で放置している事も、今となっては怒りが沸いてくる。 そんな女と目が合うとき、仇を見る目だと言われるのも、もう数えきれない。

縛りつけている手の反対側の手を布団から出し、眠りを妨げない程度に引き寄せてみる。

柔らかい手にまだ傷はついていない。


**


暗いじとじとした汚い所だ。

暗闇の包む街のなかに光っていた無数の篝火が目に残光を残していて、 あるはずのないこの場所で彼等がぞろぞろと仲間を無音のまま引き連れてきた錯覚を見せる。 隣には水がざあざあと流れていた。先で水は滝のように下に流れていて、辛うじて水に沿うように設けられていた道は壁に途切れている。 水の行方は分からず、また、下に続く穴は狭く、その先もずっと同じ狭さなら顔を出す程の空間もなく、 トンネルの長さによってはこの水の勢いに飲まれて溺れて死ぬだろう。

ここは下水道だった。雨水で一杯のマンホールの直下ではなく、流れ出る所である川から入った少し広い空間だ。 地上の暴徒から逃げこみ、彷徨っている間に、実質、行き止まってしまった。 下手に動いて地上に出てしまい、見つかってしまうわけにはいかず、時間が経つのを待っていた。 無数の人に追い立てられたは、心から恐怖し、弱弱しく抱えた膝に頭を押し付けている。

下手をやってしまったと、ディアボロは思っていた。どうも今回はいけなかった。 長時間、過ごせた分類だったが、街の連中への隠蔽が甘かった。 あんな風に強烈に誰かに名指しされて悪意に曝された事のないだろう少女は、 悪魔や魔女と言って投げられる石や汚いものに侵される事はなかったが、すっかり竦んでしまっていた。

その肩に触れてやって慰めてやるのに、いつの間にか戸惑いを抱かなくなっていたディアボロは、震えが収まるように隣でゆっくり静かに叩いてやっていた。 自分を悪魔や魔女に引き込んだ男に怒りを持ってぶつけられていたのなら良かっただろうに、少女は項垂れて膝を抱いている。

ゲホ、

小さいその口から咳が漏れた。やがて、それは息苦しさに変わっていった。吸える酸素がだんだんと減ってきていた。 二酸化炭素だか、窒素だかの塊が回りにあったらしく、アパートのガスと同じ理由で息が出来なくなってきた。 移動しても苦しいのは変わらない。地上では暴徒が血眼になって二人を探している。迷い迷って、その内、力尽きてぐったりと、汚い濡れた地面に横たわった。 最初に体の力を失ったのは小さい子供のほうだ。苦しさを潜り抜けると後はぼんやりとした永遠の平穏に迎えられる前の微睡の表情へと変わっていく。

死んでしまう。

小さな鼓動が絶える前に、手の結び目を解き、暗い水が満ちたトンネルに潜り込む。




**




机には買ったばかりの真新しい世界地図とメモが広がっている。

の知っている言葉の全てを聞き、分かる範囲でその言葉を使用している国や地域を書き出し、地図に印をつけていった。 断片的に覚えている思い出を聞き、ある程度、目星をつけて少女がかつて居ただろう街を探した。 どれ位、飛行機に乗っていたか、暑かったか、寒かったか、湿気が多かったか、乾燥していたか、どんな料理を食べたか、どんな恰好の人が居たか。 管理人の老女以上に昔取った杵柄が重いディアボロは、それなりに世界の地理について造詣が深かった。 輸入しなければならないものもあったし、もっと昔では自分の祖国ではない国へ働きに出た事もある。 少しくらいその夢を叶えるのに協力してやろうという気になって、ディアボロは調査を続けていた。

恐らく、と冠されるものの、自分が将来回るべき国や街が紙に書き込まれていくと、は目を輝かせて喜んだ。 宝の地図でも眺めるかのように、完成した自分専用の地図をかかげてはうっとりと見つめていた。

記された場所は、いろいろ、というのに相応しく、東西南北、良くもそんなに回れたものだと、ディアボロは想像以上に少女が足の着かない生活をしていたのだと溜息を吐く。 それを頭脳労働の疲れだと思ったのか、が地図から一端目を離して「グラッツェ!」と感動のまま飛びついてくる。嬉しくてたまらないらしい。

調査のさなか、ディアボロは自分がイタリアのサルディニアで生まれ育った事を少女に話していた。すんなりと話している自分にも驚いた。 イタリアに関しては、他とは、もう一段階、上の詳しい情報で頭のなかを検索することが可能だったし、 実はここに来る前のその前は、イタリアで「ベネ」の口癖が名残りのの思い出話にも細かく話題に乗る事ができた。 過去、がイタリアに住んでいたのは前々回のパラオと合わせて二回。一度目は本人も擦れ擦れな程、幼い記憶に登場したシチリアだった。

いつかの日にここに必ず行く。

誓うように、印字されたシチリアの名前をはなぞり、ついでに隣の島のサルディニアも見ていくね、と、 随分久方な男の故郷への訪問の許可をディアボロに願った。




**




「ベネ!」

ディアボロは奥歯を噛みしめる。

見ずともわかる位置にある体を引っ張り、腕の中に囲う。 少しの抵抗。だが、暫くすると早々に諦めたように体の力を抜き、こちらを伺う。何も違わない。



名前を呼ぶと目を見開く。何故、自分の名前を知っているのか。どこかで会った人なのか、頭のなかの記憶を探る。 母親の恋人だっただろうか?と、思うが、思い当たらず、困ったような顔をする。 知らない人間を見る目。それが槍のように鋭く刺さった気がして、血のように沸々と恨めしい言葉が胸にあふれた。 その全てが熱を持って喉を這い上がってくる前に、心配そうな顔をする目の前の少女の肩に項垂れる。寂しい。

血を吐くような思いでそれを認めると、隆々とした感情も消え去ってしまう。見渡す限りの草原にその身一つで投げ出されたような気分だ。 この螺旋に囚われたと分かった時の歓喜が遠い過去だった。 いつ終わるかわからない繰り返しの死の渦のなか、 その淵にロープを落とされ、少なくとも一回転した時、何度でも掴まって休めるのだと、 上手くすればそのロープを伝い、渦から脱出できるのだと、そう思っていた。

しかし、螺旋とは、渦とは違い、上か下、どこかへ向かっていく積み重ねだ。 死ぬ度に出会う少女について、ディアボロは、もはや誰よりも詳しく、誰よりも長く共に居て、自分の顔よりも少女の顔を見ている。 自分のなかに記憶が積み重なっていくのと裏腹に、少女は毎回何も覚えていない。 段々と、それが面倒になり、疎ましくなり、苛立ちになり、激情に変わり、 全部壊し尽くした後には、信じられない事に、哀しみが待っていた。

昔の自分なら一笑して捨てただろう孤独が、随分背中合わせになるくらいには迫ってきている。
が大事にかかげていた宝の地図は、次の死の先では、店頭に並ぶ、買う前の有り触れたもの戻ってしまい、はそんな地図があった事も知らない。 少女にとっては、シチリアもサルディニアも知らない場所のまま。その残酷さをディアボロは呪った。 感情を砕かれつつあった渦のなかと、感情を降り積もらせ続ける螺旋では、分類の違う辛さがどちらにもあり、 それを、今になって、強く実感する。

「矢」には、今だ手が届かない。は路地裏にいる。
少女は彼女自身の良心を信じ、必ずディアボロを助けた。 繰り返しなので、当たり前だが、ただの一度も、例外なく、死の先で「良し」と言いながら触れていた。 何にも知らないに、その都度、酷い目に遭わせた事は何度もあるが、 あの時の一回っきりの親切によって、彼女は何度でもそこに立つ。

何度も少女の夢の話を聞いた。でも、ディアボロが死ぬ度に、その夢は永遠に叶わない。 酷い事をしている。いつの間にかそう思いながら、螺旋によって今更植え付けられた相手を思う情とか哀れみとか、 必ず手を差し伸べる少女への信頼だとかに、くだらない事だと歯を食いしばって、人間の残酷さを思い出して耐えてみる。

でも、は路地裏にいる。


路地裏にいる。



**



螺旋からの脱出方法について、ディアボロは既に検討がついていた。

一番最初の頭上から落ちた植木鉢によって頭を砕かれる運命を履行すれば、恐らく螺旋からは脱出できる。 不履行になった死因を受ければ、次に現れる場所にはは居ない。 そして、何億倍の確立で二度と少女に会う事はなく、ディアボロは死に続ける渦へと戻り、少女の世界は再び時を刻み始めるだろう。

死の後、路地裏で頭に触れている少女をすぐさま突き飛ばし、自分から離れさせるだけでいい。 それができればは、夢を叶えに未来に行ける。 残念な事に宝の地図を書き出してやるには時間がないのでできないが、それは、ディアボロがやってやらなくても、 少女にはこれからの膨大な時間があるように思われた。けして、こんなにしょっちゅう死にかかるような運命は待ち受けていないだろう。

上手くしてと共に運命から脱するために「矢」に向けてこのまま歩み続けるのか。
少女が夢を叶えるのを願い、手を放し、死の渦へと身を投じるのか。

いつも、死の後の路地裏で、この二つの選択を抱えている。 しかし、どんなに気が遠くなる程の時間が経っても、自分を守りに来る少女を突き飛ばせた事はディアボロにはなかった。

嫌だったからだ。

頂点に返り咲くという目標も、もちろん重要だ。“盾”無くして「矢」を取りには行けない。 「矢」が無ければレクイエムを捻じ伏せられず、こんな感傷みたいな感情で、絶好の機会を捨ててしまうのか?と、 自分のなかに爪を立ててしがみ付く己が居る。ギラギラと、帝王としての誇りに執着して、今更、弱者のように他人に優しくして、 自分の善性を証明しようとでもしているのか、嫌悪を込めた視線で、孤独を見つけてしまった自分を奮い立たせようとする。 対して、への感謝と、……親愛のような感情が、嘆願のように叫び、少女を解放せよ、と受難を受けるべきだと押し寄せてくる。 あわただしく変わる価値観のなかで、最終的に選択を決める理由となったのは、一つだ。 たった一つ、ぽつり、と、それが落とされると、混乱は静まり、気づくとディアボロは少女の腕を掴んで引き寄せている。

少女の未来を見てみたかった。

いつしか母親の元を離れ、資金を貯め、世界を巡る移動手段を用意して、出発していく。 最初に何処に行くのかもわからないが、まずは、メジャーな観光地を巡るのかもしれない。 そうして、似た路地裏を見つけて、覗き込んで写真を撮り、手帳か何かに記録を取る。 旅にも慣れたら、だんだんと、危険な場所にも首を突っ込み始めるだろうが、の“盾”のスタンドは彼女を守る。

しかし、この世界には、“盾”だけじゃあ防ぎきれない危険もあるという事をしっかり学ばなければいけない。 能力に胡坐をかいて、今のように日和見してるようでは心配だった。 自分が居ればそれを教えてやれるし、墜落した飛行機の鉄くずの中に閉じ込められようが、通常状態に戻った自分のスタンドの力なら破壊して外に出して助けてやれる。

“盾”のスタンドに気が付いて近づいて来た連中に関しても同じだ。は、他人が傷つくのを苦手として、ほいほいと助けを必要としている者に“盾”を貸し与えてやってしまうかもしれないが、 助けを求める者が善人とは限らないという事を知らなくてはならない。 “盾”のスタンドなんて便利な物を知られれば、利用して自分の力にしてやろうという輩が必ず出てくる。 戦いの中に巻き込まれるかもしれないし、危険な場所に連れて行かれるかもしれない。 ……。自分がそうだからこそ、強くそう思う。そして、まんまと自分以外のそういう奴らにが利用されるのに腹が立つ。 盾の少女がどういう生涯で育って来たかも知らないで、便利な能力に加えて、 凡庸で無害な性格な奴だ、と、見下して搾取してやろうというのが、気にくわない。 まるで物のように、勝手に利用しないで欲しい。

そういう利己的に近寄って来る奴らを、逆にこちらが利用してやる事も、自分ならできるだろう。 むしろ、腕がなるというものだ。エジプトで「矢」を見つけ、一本を残して売り払ったその金を元手に伸し上がり、 国の情報網を支配した腕で、安易に手を出した事を後悔させてやれる。

様々な国を巡り、自分が居ただろう場所を見て、その次にはどこに向かって行くのか。気ままに行った事のない知らない場所にも行くのか。例えば、青い海が美しい島にも行くだろうか。 少女が行先に惑った時、その方向を指し示すのが己であって欲しいと願う。 どんなに傲慢でも、どんなに独りよがりでも、自分の中にそれを否定出来るものはなく、少女を突き飛ばす事はもうできなかった。

その思いも、螺旋が続けば、積もり続ける。

次第に、ピシピシという音を聞く回数が増え、気が付くと周回が終わっているのも珍しくはなくなった。 今までの記憶を封印し重たくなった情を捨て、まるで自分もその時が初めてとでもいうように、に出会い、純粋に「矢」を求める意思のみで、行動を開始する。


しかし、最終的には、その記憶も、全て“自分”のものにした。
全ての人格を食いあらし、飲み込む作業を同時に進める。




今も、悪質なチンピラに絡まれた所を助けられたらしい少年の声が礼を述べるのを聞いた。




……そうか、電話は、もう、必要ないのか。




**



ディアボロは路地裏にいる。

今日は小春日和。いつものように自分の趣味で路地裏に散策に来たは困惑している。
人が通らない細い場所のレンガは薄汚れて苔が生え始めていて、転がるものはタバコの吸い殻、 黒く丸く広がったうすべったいガムのゴミ、そんな地面に座り込んだ見知らぬ男が、何故か己の名前を知っていた。 箱の残骸やパイプの端っこが周囲に転がった誰も使わないような裏口のドアに、背を預けて足を投げ出していた男は、 寄って来た少女を引き寄せて、その手を両手で包むように握り締めていた。
彼は「呼んでくれ」と何度も言うのだ。

「オレはディアボロだ。―――ディアボロだ。」

は、自らが“ディアボロ”だと言う男に、尋ねなければならない。

こんな薄暗い場所で、上から鉢植えが降ってきてあわや頭に直撃するといった不幸の直後、
イタリア語を喋る男を見て、恐る恐る問う。


「貴方、悪魔なの?」


彼は、悲し気に、でも、満足そうに微笑んでいる。

















路地裏と悪魔


おしまい!

そして、あとがき(長いです)