前回の経験からして吸血鬼の再生能力は筆舌に尽くしがたいと知った。

現在、無事に国境をまたぎイタリアへと入ってからこれを書いているため、事故当初から少々時間が空いている。 相変わらず畑の広がる風景が多い。ただし、そこには水との共存が目立つ。海抜が低く入り組むように走る川が畑の間にあり、 海に浮かぶ小さな起伏のない島が一つ分畑になっていたりする。なんというかその風景はシンプルな素朴さを感じる。写真を撮った。 あんな海のまんなかで栽培されているものは何なのか。収穫したものは間間の海か運河に船を浮かべ簡単に運んでいるらしい。

事故当時について。
腹(とその上)を包む重度の冷え性なような腕の拘束が緩んだと思った時には既に遅かった。背後から重い音がした。 転げ落ちた数分後にはディオはまるでベッドから転げ落ちたかのような茫然とした風で普通に立ち上がり、 暫ししてようやく何が起きたか理解すると「眠っていたか」と吸血鬼の口からしみじみと語っていた。
当時の心境からすれば人形と見紛う人体が転がっていく光景は彼が人でないと知っていても肝が冷えた。 「えっ」と間抜けに声をあげて振り向きながら暫く走り続け、現場まで慌ててUターンしたが暫く状況を飲み込むのに時間がかかった。 素直に心配してやるのにも、寝ぼけた奴をからかうのにも、言葉が妙に詰まって立ち上がったディオをただ呆然と見つめていた。 それというのも当時の心を分析してみると、例えば心配はディオの経緯からして何だかしてやるには惜しい気もするし、 からかうには今更、高慢ちきの自負に踏み込んでいいのか口を利かないものとの付き合いの長い私には判断が遅れたのだ。

微妙な雰囲気でそのまま運転を再開した。
頭のなかで休憩せずに走りだしてしまったことへの戸惑いや、ほかのもやもやとした感情が混ざり合った。
再び巻き付いた腕の感触を確かめながら、笑い飛ばしてしまえばその場は良かったのかもしれないけれど、ヘソを曲げられても困るなぁと考える。 気を紛らせる眠らないくだらない雑談を口にする。またこんな目に合うのはごめんだった。
ユーゴスラビアの特産トリュフを食べ損ねた話をして、腕力に少々びくびくしながら吸血鬼の嗅覚についてへと移行する。 走行音に紛れないよう声を迫り上げながらの運転は間抜けに思えた。だけどもいかなハンドシグナルが言葉に代わってくれるでもなし、 話題はトリュフを狩る犬だか豚だかに直結しないで済み、ディオは現地だと安く買えたのだと言う私を鼻で笑う。 屋敷には優秀な執事が居たそうでそのような美食の値の高低は彼の興味の範疇ではなかったのだろうと、ほうっと息をつくと、 「それで?この私に犬さながらそのキノコを探させようという話かな」という。ほっとしたところで性格が悪い。

やはり、どこかの時点で施設の概要の書かれた詳しい地図の購入をしようと思い、これを果たす。
一日の終わりに今までの地名だけの全国地図と施設の概要が詳しく書かれたイタリアの地図を広げ、一日分の計画を立てる。 その時、横から昔々の吸血鬼が現代の施設に口を出し、寄り道が増える。それが最近の日課になっている。

また、彼自身の再生能力は優れているとしても、服装はそうであるはずもなく、この時、巻きつけていた布が破れ、彼の少しの持ち物が散乱した。 持ち物は本や謂れのわからぬ小物類でありそれらが私がひっくり返っても手に入らないくらいの価値があるだろう予想できる割に、 どこの国のコイン、紙幣一枚も転がり出なかった。
その目が飛び出るほど高いだろう小物類が壊れたということは運良くなく、 とりあえずその場でバイクにくくりつけた私の鞄に一時しのぎにそれらを収納することなった。 寝袋につつみ、隠すようにトップケースに仕舞う。いまだかつてこのトップケースにこんなに厳重にしまわれるものなどなかった。

……そして、ここで一つ思ったことがある。
前々からあったことの一つだと言ってしまえばそうだろうが、
改めて、自分の頭のなかにあった凶暴さや不道徳なところを見つけて不快になるようなことだ。
…そう、それを書くには、彼が私と出会う前、エジプトからギリシャまでの放浪の話について明かすとわかりやすい。

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アメリカに着くまでという目標を得る前、彼は取りあえず経度に沿っての移動を心がけていたと言う。
ホラーフィクションの定理に則って、やはり吸血鬼は紫外線に当たることができないのだそうで、 緯度を移動すると陽の当たる時間帯に足を踏み入れる可能性があった。

エジプトから地中海を迂回してサウジアラビア、イラク、シリア、トルコで黒海に突き当たり、 グルジアに向かわずにギリシャへと入る。そこで私と出会わなければ彼は北上を続け、ノルウェー、スウェーデンまで彷徨い続けただろう。 夜の世界に居た私はひたすら西へ西へと向かっていたのだから、 進行方向のかちあったあの場で出会わなければ一気に出会いの可能性は低くなっていた。

その場合のその後を考えるとぞっとする。未だに(吸血鬼とはいえ)誰とも感情を共有できずどこへとも動かない世界を彷徨っていたら……。 そして、もしもそうなっていたら、ディオのほうはいづれ陽が出ている場所へも足を運ばなければならなくなったか、 移動している内に紫外線が混じり始めたところまで知らず知らず進んでしまったかもしれない。 そこで、彼は、もしもの時のために古代ローマ人の格好(トガというらしい)のように布を巻き日光から体を隠しながら移動をしていた。 あの服装はそういうこと、紫外線対策だったのだ。
しかし、今、目的が決まり、用のあるアメリカに向かうということは、彼が避けていた緯度の大移動ということになる。 もしもというより積極的に日光浴をする目に自ら遭いに行くのだ。
現在アメリカ大陸は午前10時くらい、このまま進んでいくとフランスの中間を超えたあたりから紫外線が混じり始めるだろう。

日除けが布のみで体がむき出しのバイクに乗って移動というのは不安だった。だから、私は何気なく思った。 例えば小さめのトラックの荷台の内側に遮光カーテンを張り巡らせてディオとバイクを積んで移動するだとか。
……しかし、その車をバイヤーから買い取るなんていうことは停止したこの世界でできるはずがない。というか金がない。 そのあとに待ち受けている大西洋だってそうだ。なんとか私でも操作できそうなクルーザーを一艘結果的に盗まなければならない。

最初に思いついたときはそこまで思考は追いついてはいなかった。
世界を動かすために、と勝手な正義感を振りかざして吸血鬼の手を取り、ギリシャから出発したことになるのだろうか。 そんな考えも気づいて不快だったが、煮え切らなさにも拍車をかける。 ディオほどホテルで堂々と振る舞えない私は上手く運転手を降ろし、 時には車を船を乗り捨てたとき、ちゃんと心の整理ができるのか。

そして……私にはもうひとつ、違う手段を思いついてしまった。
アメリカまで行く必要もなく、私の能力があれば余計に容易く、世界に時間を復活させる方法。 その方法に恐れを抱ければまだ正義であれるのかもしれない。

この手帳を読むのは私だけだ。
何にしろ、当面、陽のある場所へと進まなければならないし、どちらにしてもトラックは手に入れたほうが良い。 こんな犯罪履歴のような記録は間違っても他人の目に触れさせられない。もちろん同行者にも違う意味で見せられない。 全てが万事上手くいったら焼却しようと思う。

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町により、大きな布屋にて、彼の身を守る遮光カーテン用の布のロールを6メートルほど引き出し、裁断した。 彼は厚手の暗い深紅の布を気に入り、それを体のあますところなく巻きつけた。 そして、背中に赤い布の塊を背負うようにして町をそそくさ抜け出す。 その時、悩んだがまだ届く範囲だった硬貨を少し裁断机の上に置いて出た。 良心はなんてちっぽけだ。