アルバニアの地にて、ここ生来の吸血鬼伝承を知る。
ルガト、ククチ。ルガトは肉体を持たず、ククチは肉体を持った吸血鬼。
ルガトは狼に足を噛まれると墓に戻り出てこれなくなる。

ディオ、これを鼻で笑う。世界のいずこかに彼が属する吸血鬼伝承はあるのだろうか。
狼は、ニンニクは、十字架は、流れる川、聖水、銀、…
「エイブラハム・ヴァン・ヘルシングにでもなるつもりか」首を横に振った彼はそう言う。
人間の単なる興味だ。近来目覚ましく発展する街並みで食糧の買い足し中、その様な会話のさなか、 吸血鬼の有効性を探る私の目の前で道路を粉砕してみせる。警告である。
その後、二人でそそくさ国外へと逃げおおせる。


〜(数ページ略)


暗い夜の海を望みながらユーゴスラビアに入りイタリアへの道が見えてきた地点に来た。あたりにヴェネツィアの気配が漂う。 海に望むパステルカラーと赤い屋根の家々や中心に教会のある城塞都市の入り組む一つの城のような街がよく見受けられる。 陸続きの国は絶えず侵略との戦いの歴史がある。その為に旧市街は道が狭ままり、侵攻を妨害するようにできているのだ。

この頃になって思うのは、他人の監視がない世界での罪の意識というのは著しく低下するということだろう。
それは彼に会う前の一ヶ月で経験していたことのなかからでもいくらでも例をあげられる。
例えば、ガソリン、宿泊、食糧。最初は入れた分のガソリン代を置いたり、どうせ誰も動けないので外で眠り込んでみることをしてみたり、 食料もしかりで料金を置いておいたりと、自分の良心に咎めない格好をしてみたが、とうとう続かなかった。 まず崩れたのが宿泊だ。棒立ちするホテルマンの横を通り過ぎルームキーを拝借して、 公園の木のベンチでは比べ物にならない清潔で柔らかいベッドに倒れこんだ。 そこまでいくとバスタブにお湯をためて文明の利器に浸らないでおれるわけがない。

一体いつまで時間が止まったままなのか、もし、今時間が動いたら、という恐れもだんだんと薄れていった。 そんな風でそれでもいちいち金を置いていった。けれど、時間が停止しているということはその金を増やす術もまた犯罪以外ない。 停止している人間の前で一芸を披露したり写真を見せたところで空しいだけである。 会計をする途中の開かれたレジカウンターからコインを盗むのと、なるべく綺麗にホテルをこっそり利用して去るのと、 天秤にかけてみて、傾いたのがリネンの敷き方をマスターして使用の痕跡を消す方だった。

それはディオと出会ってからも続けた。そんなせせこましい私を見て彼が理解できないものを見る顔をする。 私も時折思う。こんなことをしたところで私たちを裁くものはないだろうに。何を一々しているのだろう。 (止まった時間のなかで時間が過ぎるというのも変だが)時間が過ぎるとこなれてきて、罪は孤独以外は日常へと成らされてしまうのだろう。 だんだんと良心が緩やかに死んでいく。これは私は人間であることを思い出すべく取り繕っているに過ぎないのだろうか。 しかし、それも地球を三分の一移動したバイクとライダースーツを携えていては、絶対にくぐれないホテルの一室に この男の我儘でやってきたときは形無しだった。

アドリア海を望む白い屋敷、ギリシャの遺跡風の円柱を左右に並べる様相。 足を上に乗せるのも戸惑う毛足の長い敷物の上を様々な布を纏った彼が自宅のような気軽さで闊歩し、 ワインを発見して戸惑いなく開け、私にシャワーヘッドを握って湯を出せと言う。 それだから、いつもの通りに遠く離れた薄暗いボイラー室のほうからスタンドで機械を動かして(水道管が爆発しないように気をつけて)湯を作りながら、 残り7000キロ以上の道のりを考えざるを得なかった。
もともとイタリアまで行って、フランスから折り返して行こうと思ってた手前、普通にポルトガルにたどり着くにも資金が不安。 しかし、進まざるを得ない理由が私にはある。

他人の監視がない世界での罪の意識は低下するものなのだろうが、 隣にいるのが吸血鬼の場合はその通りでなく、むしろ逆である。


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その日、天蓋付きのベッドで、暗い世界で犯してしまいがちな寝坊を二時間記録更新する。 よく眠れたらしいな、と、節制を笑う化け物の憎たらしい顔を見る。 悔しいことに身を起こすのが名残惜しかったのも確かである。 誘惑に負けて唸りながら枕に頬をすりつけると静かな部屋のなかで快活な笑い声が響く。
チクショウ、いい枕だ。

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良い日というのは前日しっかり休めた後に出発して、その後休みを取りたいときにちゃんととれる施設に行きあうことができた日だろう。 そして、今日はその良い日とは言えない。アドリア海の真珠と言わしめすドブロブニクの砦の旧市街の景観を横目にひたすら北上し続けると 日に日にその様相を変え、今朝、昨晩一夜を明かしたコテージ風のホテルから出て直ぐに広大な農業地帯と鬱蒼と広がる林ばかりな風景に行きあった。 そこから私の時計の針が夜の9時を指し示すまで走り続けたが、ついに抜けられずに宿泊施設のない場所にバイクを止めることになった。

海に沿って、方位だけを確かめて出発する大雑把な旅は時折そういう目にあう。
以前なら早々に諦め小型バーナーコンロでお湯を沸かして保存食でも食べてスタンドを出したまま眠って朝を待てばよかったが、 太陽はここ一カ月近く姿を見ておらず、つい、体力が尽きるまで走り続けてしまいそうになる。 太陽と夜が入れ替われない分、時間の感覚を失うのは長く住んだ場所から立ち退く事に値する意地のような哀愁があった。

そうしてバイクを止めた場所は広い広い何かの畑で、地平線近くまで広がる茶色や緑だろうのっぺりとした田畑に 飛び出る針葉樹がぽつりぽつりと伸びあがっているのが影に見えた。 昼間見れば長閑で白い牛や羊を添えてやりたくなるだろうが、光のない夜は街灯もなく何処までも暗い。 翌日もこの中で出発の準備をするのだと思うと気が重いと息をつく。雪が積もっていないのは幸いだった。

支度を整えて見上げると月ですら雲に隠れ、流れない雲に貼りつかれて光を滲ませていた。 季節は二月から動かない。そして何よりも静かな夜。 バイクから降りてしまえば風も吹かず、静寂を走行音でごまかすこともできず、屋外にいるというのにそこは密閉された場所なのだ。 寒さにやられてトップケースから寝袋を出して暖をとる。 片手でバーナーコンロに触れ続けながらもう片手で滲む月の写真を一枚撮った。
ポラロイドではないからどんな写真がフィルムに焼きつけられているかすぐにはわからない。 しかし、見上げればファインダーを覗く前と寸分たがわない光景がいつでも広がっている。 よって、この写真を現像した時、無音を疎んじて無意味にシャッターを押したのだとすぐに思い出すだろうと確信した。

手で空だけ切り取って見れば、どこかと言われればスモッグに紛れた英国の怪しげな月とも見えるし、 情緒に訴えかけようとする日本の朧月でも見える。様々な捏造ができそうだ。 いづれ現像できると今では思えるのだからまだいいのだ。

さて、こうなって気になるといえばディオだが、彼はというと案外とさっぱり野宿を受け入れた……ように見える。 この止まった世界では私がバーナーから手を離せば一瞬で炎は停止してぐつぐつと煮だっている湯はふつふつとしだした泡を膨らませたままになり、 カップに注ぎこんだ後もしかりでカップのどこかに手を添えてスタンド能力を発現させていないと食べられる状態にはならない。 雰囲気を盛り上げる意味でたき火でもしようと思うなら私は手に大やけどをしながら火を焚かなければならない。 しかし唯一良いところと言えば湯が沸き終わったバーナーコンロから手を離すと停止した時間のなかでガスを消費せずに明り代わりになることだ。
だが、油断して停止した音のない炎が私の服の裾にふれようものなら大惨事ではあるだろうというのは想像がつく。

そういうやり方で手をかけて作った簡素な食事をずるずると私は啜り、 かたや、ふやかし乾燥麺の摂取を必要としないとしたディオは、じっと棒状に固まって光を発する炎を見つめていた。 (食事はちゃんと二人分ある。一人だけ摂るという絵図らは宜しくない。  拒否したのは奴だった。喉下の血はそこまで一杯なのか、ワインは飲む癖に。)

今日は随分、大人しい気がした。その横顔は考えに耽っているようにもみえる。 畑を貫く道に設けられた左右の低い石垣に腰をかけて(私はその下の土の上に引いた寝袋の上にいた) 揺らめきをしない炎の色が赤い目に映っているのを私は覗き見た。

その赤色は血の色よりは透明感があり、世に聞く形容の宝石というよりも私にはやわらかい飴のような弾力を思わせた。 その奥に広がる硝子体の深さを物語る湖面のような瞳孔の奥で100年もの時間、思考し、体を動かしてきた脳が活動している。 それが何だか希薄だった。深い闇のなかから止まった炎に照らされるその男は、生物というよりも彫刻のような作り物めいた雰囲気がして、 神話の一場面のように月が上空で宝冠となって滲み、髪へとその光でそっと触れていた。 じっと見つめていると眉をひそめてその雰囲気と相反してなめらかな動きで「何だ」と彼は言った。 それに関して私が思ったことは「おお、動いた」だ。

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待たせているので走り書き。
翌日、ちゃんと眠れたというのに相変わらずの明けぬ夜と、見飽きた有り触れた月。 アメリカまでの道のりで貧弱な人間である私の体調を尊重することに折れていた彼は横にならずに夜通しそうしていたと言って、 一個っきりの寝袋からのっそり出てきた私に「さっさと出発しろ」と早々にバイクに腰をかけている。 吸血鬼には睡眠が必要じゃないのか。ホテルではベッドを使用した形跡はあった。まさかせせこましさに拍車をかけるべくか。 そういういじめっ子気質が奴にはある。シートを叩きはじめたのでこれで。


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ディオが居眠りをしてバイクから落ちる。