首筋についたチョーカーのような傷跡をぐるりとなぞった。途切れることなく一周していた。 凹凸のあるその傷跡は深く、とても生命を維持できるような傷ではなかったのだと、まじまじ見ると今更ながら予想できた。 私は考える。他人の臓器の移植の歴史は拒絶反応との戦いの歴史だ。 人が有する免疫が主を守るために主以外のものを駆逐するのだとわかって、 その免疫を抑える効果のある物質がカビから発見され、 移植された者の生存率は上がったが、それでも完全ではないのだと研究者は言っている。 首と体の移植なんて前代未聞のことだ。

人は金と権力を手にしたら次は永遠の命を手にしたがるという。
しかし、今の医学では不可能なことだから未来の医療発展に望みをかけて脳を冷凍保存しておくという団体も存在している。 己の意識の座である頭。それを未来の技術で作りだした“新しい体”へと移植すれば、起こる奇跡を復活というのだ。 それを吸血鬼は他人の体で可能にした。 もとより吸血鬼は永遠の命を有する存在ではあるが、それでも頭一つで脊髄や万の神経を正しく繋いで他人の体を、あろうことか他人のスタンドすら操作している。 恐ろしい生き物だな、と私は改めて思った。

「恐怖を抱いたか」

「正直に言うとね」

「何を恐れることがある。お前の死は破壊してやると言ったはずだ。いかなる形であろうと方法など数多あるぞ」

ディオはよっぽど紫外線を無効化できそうなスタンドが今さら怖気づくのが惜しいらしい。 しかし、話で少し醒めた酔いもこの辺でぶり返してきて私の正常な判断が封印され始める。 とたん、擽られたみたいに笑いだし、「吸血鬼の研究が進んだら治る病気とか増えるのかな、病気になっても安心だ」胡乱に言ったような記憶が微かにある。 ディオは「研究者にでもなりたいのか?」とか言って、手放していたグラスをとってくるくる回していた。 自分の限界も知らない酔っ払いは、くるくる回る赤い水面を見つめて支離滅裂に「その首から下の人って金髪だった?」と訊く。 「いや、ブルネットだ」何を思ったか「じゃあ、ベッドの上で女の子にカツラじゃないって言わなくちゃあね」と糞真面目に言い放っていた。
……最低だ。唐突に。

そこからトンと記憶が見当たらず、酒臭い薄暗い部屋で寝ていた記憶に縫合されている。
いや、でも口を滑らせたのは“それ”だけでない気がする。
……これ以上最低なことでないといいのだけど。部屋に戻るのが怖いぞ。物凄く。

**

一通り場所は分かったが、覚悟が決まらないので暫くぶらつくことにした。 港を見渡せる島の少し高くなっている緑色の丘、もと火口付近にやってきた。 近くにブドウ畑がある。ピコ島ではないが、殆どが溶岩でできた痩せた土地だからこそ美味しく生育するブドウは、 この諸島には多く植わっているらしい。痩せた土地に植えられたブドウは栄養を求めて深く深く根を張り、 ミネラルを含んだ地下水を吸い少量の味の優れた実をつけるのだ。 ほとんど岩のようなその地面を耕し、出てくる大量の溶岩を砕いて取り除き、 海風よけにその溶岩を積み上げて植わったブドウの囲いにしている。 その手間は、気が遠くなりそうだ。人も、ブドウも、そうして飲んで止まらない美味しいワインができる。 ……自虐しているわけじゃない。

畑から振り返り海を眺めると海面に僅かにナメクジが這った跡のような銀色の筋がピコ島の周りとその後ろに続いているのを発見した。 それは港へと続き、船の一つの後ろについている。目を凝らすとあの船は私達が乗ってきた船だ。 航跡だ。大西洋を渡ってきて通ってきた水面に、水がこじ開いたところが波となって時間を失った世界で轍のように残っている。 山と島に隠れて向こう側を確かめることはできないが、それはずっと向こうまで続いているはずだ。 ほかに海に出ている船やヨットにも航跡は付いている。けれど、圧倒的に長さが違った。 水は重力に従順に姿を戻す。けれど、時間を失った中で進んだ航跡は、砂場で絵を描くみたいに、どれよりも長く、長く、 はっきりと残った航海の証が、海面とは違った角度で光を強く反射させてここからは銀色の航路になって見えるのだ。

この航路が消えるのは時間を取り戻した時。
そして、海上だけでなく、消しきれなかった沢山の痕跡を今は停止している世界で見つけられるんだろう。
奇妙な旅路のなかで、スペインの平地に降った雨のトンネルや、イタリアのポー川に沿った羊のような白い息の点線、 それらが恐らく人に発見されないで掻き消えるなかで、アルバニアで粉砕された道路が発見され、 フランスからの山道を通っているワンボックスカーのスキー客は後ろに急に現れた停車しているトラックに気づいて首を傾げ、 ブルガリアの警官が恐怖で叫びだすのかもしれない。 暗闇のなかで目を光らせて尻尾を膨らませていた猫は、急にヘッドライトが目の前から無くなって慌てて顔を洗い、 ヴェネツィアで引き続き「リベルタンゴ」が演奏され、一つなくなってトマトでごまされたチーズの皿が誰かのテーブルに運ばれ、 車や船を奪われた人々が困惑し、彼らが申し訳ない程度に握らされた金の欠片を発見するのだ。
それを換金して失ったものの足しなってくれればいいけれど、気味が悪いと投げ捨ててしまうかも、と思う。
大地の金の道、破壊と紛失の道、美しい風景の道、海の銀の道。

「まるで御伽噺みたいに」

混乱する世界がこの後に待ち受けているんだとして、真実を知っているのは私達だけ。 時間を止める能力は、頂点にもっとも近い。そう言っていたディオの気持ちも分かる。 静かな、まだ目覚めていない世界で闊歩することは、神か悪魔の超越した力だ。

……悪魔と神の賭けに巻き込まれ、悪魔メフィストの奉仕を受けてこの世の快楽・悲哀を得て盲目となったファウスト博士は、 気も早く己の墓穴を掘る悪魔たちの土を掘る音を聞いて、 その音を人々が土地を耕す音だと思い、メフィストとの契約の言葉を言って絶命した。

「時よ止まれ、汝はいかにも美しい!」

彼にとって未来に向けて弛まぬ努力を続ける男女が日々を有意義に過ごす、
瞼の下に描いたその風景がもっとも美しい一瞬だったのだ。

**

文学に勇気を貰いこそこそホテルに戻ると、今度は“八十日間世界一周”に手を出して読んでいるディオが あまりに普通にそこに居て、有言実行と「おかえり、遅かったな」と迎え入れた。 きっと、そんなに恐れるようなことは起こらなかったのだと、“無かったこと”にして、 今日の収穫と船の準備にどのくらいかかりそうだとかの話をしようと向かいの椅子に座った時だった。 パタン、と音を立てて本を閉じ、赤い目がニヤニヤとこちらを見つめた。 例えば食虫植物なんかはあれだ。開いた口の中に何本かの触角があって、それの二本目を触れた同時にパックリ閉じるんだ。 この椅子はそれだった。ベタッとくっつく消化液のなかでもがいても逃げられない。

「一人でベッドを抜け出すのは無粋だぞ」

オーマイゴッド!
まるで“何か”あったみたいに言うんじゃあない!