三日目。

太陽が中天に近づき、真上からの光。気温は上がったが屋根に遮られて視界良好。

20世紀前の長期の航海で海賊以上に恐れられた病は、 船上で保存しにくい生の果物や生野菜に含まれるビタミンCが欠乏することによって起こる壊血病である。 タンパク質の構成に必要な成分が不足し、歯肉がぐずぐずになって歯が抜けたり、傷が治りにくくなったり、 重傷になると骨折、至る所からの出血、死に至る。当時は原因がなかなか特定されず、多くの船乗りがこの世を去った。 食べ物とは当たり前だが己の体を作っているという事実を如実に物語る。
何も食べられなければ訪れるのが死なのは当然である。
そして、今のところある時間を取り戻したと同時に全力で逃げるというシンプルな作戦は、 そんな最期を回避するにはお粗末であるのもまた当然だ。 余談、イギリス海軍がこの壊血病対策に昔ライムを大量に船に積み込んだことから、イギリス人=ライミーというスラングが生まれた。 なお、身近なもとイギリス人はライム野郎ではなく、ブラッディ、血液野郎だ。

ディオは私の扱い方を心得たと思っているらしく、機嫌がいいらしい。
得体のしれない価値観を持つ宇宙人の飼育方法と餌がようやく分かって過剰にそれを与えているような。 かつて傍に侍らせた女達と同じか、その中でも上等に扱ってやるという風で、 つれなく適当しているのにも関わらず、猫がじゃれついているのを見ているような眼差しを感じる。
私には自らの命を捧げるような根性は無いし、海の真ん中で逃げ場がないというのに胸やけがしそうだ。 「お前、この私のことが好きだろう」っていう態度が透けて見えて、こう…いや、不貞腐れたくなってくる。 誓って書くが私は奴を信仰する気はない。ディオの命は惜しいとは思うけれど。 近所にのさばっているという人食い熊が自宅に居たんだとしたら警察か保健所かどこかに連絡したいと思うものだ。 間違っても少し鼻づらを寄せられて擦り寄られたからと言って、我が身をその空腹に捧げてやるだなんて殊勝になれるか? そいつがそれで食べることを止めるわけがないと分かっているのに。
しかしなるほど。そういう人間を納得に至れるまで周りに囲い込んだ魔性を自ら理解している。 金品を要求せずに殺すまで言われてもなお大人しく船を進める女は、 気味の悪い独りよがりの善人者から、ディオに自らの血を捧げる殉教者達と同類として諒解された。 そうして、あいつは手の平のなかでいいように転がしてやろうと愛撫の手をチラつかせて甘言を囁くのだ。

すると、見目が良いから笑いにもならずに腹が立つじゃあないか。
裾にすがりつく愛玩物を可愛がってやろうとばかりの余裕に、手のひらを返して、布を捲るぞ、と、ちょっと、思ってしまう。 日光に焼かれ瞑っていた右目は今日にはすっかり治ってもとの光を宿している。

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ディオ、独自の帝王論を喋る。
献血というもの存じているか、合法に血液を得ることができるかもしれないぞ、と持ってきたハムを切りながら話を持ちかけても、 調子良く伸ばしてきた手を止め、嫌そうに顔を歪めた。 だって、世界を手中に収めたいんだったらその辺は穏便にしといたほうが楽だと思うんだけどなぁ、と、ほとほと価値観の違いを思い知る。 ちょっと写真を撮って、何かのイベントのように会場を用意すればあっという間に血は集まりそうだ。 食べきれない分は病院にでもやれば傍目は善人のように世を欺けるぞ。だから嫌なんだなぁ、とわからないでもないけれど。 聞いたディオはニヤリとする。「ほう、つまり、お前の価値観から見てもこの顔は広告塔になりうると」。 まぁ、当たり前だがな。と、胸を張る。……無害なら、面白いんだよなぁ、この人。

気がついたこと。
時間が止まっているのだから、食材が腐ることもない。
持ってくる食べ物を厳選しなくとも良かったのかもしれない。
海にいるんだから魚が食べたい。釣りをしたって動かない魚は獲れないけれど。
……網ならいけるか?

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島を発見!

進路を西にとって三日目にして、何も無い海上にうっすらとアソーレス諸島の最初の島が見えた。 小さなサンタマリア島、その奥のサンミゲル島。発見したとき思わず立ち上がった。間違っていなかった! 潮の流れも風も波もない中、ただただ西へと走らせていれば辿りつけるのは確実だったが、 それでも、ほぼ丸二日間、海の真っただ中、代り映えのしない風景を延々見つめてきて、その間の言い知れない不安が吹き飛んだ。 ああ間違っていなかった!砂漠でオアシスの地図を片手に彷徨っているのと同じ、久しぶりに見る土と緑と人の気配にホッとした。 ついでに船を止め、決まってメインサロンに居座って本を読むか寝ているディオにこの感動を伝えた。 「辿りつかない気でも?」と興奮冷めやらずにいると怪訝に伺われた。そうなったら遭難だ。困ってしまう。 けど、そうなったときのもしもに蔓延る絶望感からすると、ここまでこれた感動を抱いたっていいだろう。 アメリカ大陸を見た時なんて私は泣くかもしれない。

アソーレス諸島は火山によってできた九つの島から成り、 かつての大航海時代において汽船が発明されるまでの間、アメリカ大陸へ渡るために出発した船が必ず立ち寄る中継地点とされた。 また、九つの島は伝説のアトランティスが沈んだ跡の名残りであるだとかいう説もある。 幻の大地はヘラクレスの柱と呼ばれるヨーロッパ大陸とアフリカ大陸がもっとも近づくジブラルタル海峡の岩山から最果ての西にあるという。 また、その地点は黄金のリンゴが植わったヘーラーの果樹園のあるヘスペリデスがあるとも言う。 限りのない6000キロの海の向こうに人々が想像と希望を抱いた神秘的な場所だ。

……黄金のリンゴを訳すとオレンジとなるので、もしやして一説として壊血病に苦しんだ船乗りが 不老不死の妙薬だとビタミンCを崇めたてまつった末の黄金のリンゴだったのかもしれないと一説唱えてみる。 昔はオレンジもあったというアソーレス諸島だが、今ではミゲル島のパイナップルが有名である。 「そこに着岸するのか?」と問われたので「いや、西側の島まで進む」と答えると、なんだ、とその身を再び横たえた。 まあ、ディオは船首に行けないのだから、止まらないとあらば関係無い話なのかもしれない。 上陸予定の島へと急ぐ。






時刻は夜10時頃。
島の間を縫うようにして進み、雲の間に伸びあがって頭を隠しているポルトガルの最高峰のピコ山を発見して回り込み、その向かいの島の港に着岸した。 ファイアル島、オルタ港。港から見える風景は、風に吹かれる緑のパッチワークがぼこぼこと膨らんでいるような山を背負った白地の壁とレンガ色の屋根の可愛い街並みがあり、 港には帆を仕舞ったヨットやボートが沢山停泊してあった。 紫陽花の咲き誇る島のシーズンからしてそれでも船の数は少なかったのかもしれないが、それでも入港には目をくるくると回し、恐る恐るだった。 出港しているのか元から空いているのか、船のない杭に近づき、ロープを結ぶため(何処かへ流れていくことなんて絶対にないが)に黒い岩のような岸壁に飛び移る。 すると、じぃん、と下に詰まった陸の感触が足を登ってくる。ようやく本物の伸びを背筋の真ん中からしたみたいなしっかりとした安心感に包まれた。 やっぱり人間は陸で生活するようにできているんだなぁ、と思う。

振り向くとピコ山の綺麗に円錐型の雲を裂く頂が重く盛りすぎたジェラートのように聳え立っている。 島は火山が起源でできているのだから、土地は溶岩が固まったもので出来ている。 立っている岸壁も波止場も黒い溶岩の塊を削ってあるものだ。近代でも火山活動は見られ、温泉が湧き、地熱を利用した蒸し焼き料理もあるという。 軽く深呼吸をしてもう一度船のなかへと戻った。ディオにどうするか尋ねる為だ。 島に着いたら船に燃料を入れて物資を調達し里心がつかない程度に休息をとるつもりだ。 彼が望むなら海から離れた場所に寝床を用意するつもりだった。

「外は相変わらず明るいけどもう今日はここでお終いにする。明日からここに留まって燃料を入れたり次の場所まで準備をするつもりだけれど」

ん、と渡されたのは12号の肉の芽だった。
ぐるりと指に巻きつくそれと赤い目を交互に見て、ディオは顎で外を指し、私は頷いた。

今までの効果のない呪文は封印し、布の向こう側へと行き、巻きつき震えるそれを太陽に掲げ、1秒、2秒、3秒…… 足の先から硬化してヒビが入り「あ」声を上げると肉の芽はビクッと痙攣し崩れ去って黒い岩の上に散った。 ディオ!と言いながら振り返った。「ご、5秒持った!5秒陽に当たって無事だった!」
船のなかから返答はなく、居てもたってもいられずに船内へ飛び込み、顔を突き合わせる。 「本当だろうな?」と訊かれて、こくこくと首を縦に振る。その顔が考え込むような迷うように変わったので、 つい消沈して「でも、5秒だけであとはいつも通りなんだけど……」ともごもご言った。 けれども、予感はあった。陽の恐ろしさは体験したから何かしらの反応が見られるんではないか、とか。
「いや、一度でもできたという事実が大切なのだ。その事実が力になる。それを我が物にするのだ」
ついにディオから出てきたその言葉に煽てられて晴々しい気分に拳をつくった。スタンドを持つものとしてこの一歩は鼻高々だった。 すると、ディオは言った。「契約は成立だな」、と。

「契約?」

「お前を飼ってやろうという話だ」

何の話か最初は検討もつかず、今、記録を読み返して、ああ…そういう意味だったのか、と、分かった。
しかし、ああ言われて頭のなかで繋がるもんか。
首を傾げ、何の話か促すとディオはうっそりと笑い、こちらにやってきて顎を掴んだ。

「餓死は無しだ。……お前を殺す壁を私は破壊しよう」

いつか車で移動中にした話の続きだったのだ。
“光”を“害”に出来たのであれば、と前置きされた条件を私は叶えつつあり、 私の死を餓死であると限定つけたディオは自分の生命力の強さを謳って私のその唯一の死を奪うと言うのだ。

「永く親しく「お帰り」と言ってあげよう。なあ、?」

認められるということを心地いと思ったらそこは魔窟である。
王族に献上を許された職人にように、身なりに卑屈になりながら品物をしずしず差出して、受け取って貰えたことに歓喜する。 礼までされる様なら一族の誇りにする。そんな風にますますを持って頭を沈め、その王の尊顔ではなく靴を見つめ続ける。 一生価値があるのは地面と靴だけの風景。
そんなのぞっとする。

しかし、なんでこう、心の隙間に入り込むのが上手いんだ。 吊り橋理論に頼らずともお帰りと言われるのは嫌いじゃない。 頷くはずもなく、ギギギと歯を食いしばりながら島の施設を確かめてくると言ってバイクを下して出て、 背中を追いかけて来るのはいつかの寝坊した日の快活な、耳がぶっ壊れてなければそれはそれは楽しそうな笑い声だった。

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港を出て直ぐに宿泊施設をいくつか見つけ部屋までカーテンを下ろせそうであり、車でフロントまで乗り付けることのできる場所に絞り準備を済ませた。 ここまでくると手慣れたものだ。手で触れた照明を点け、腰を据え(直ぐに戻るっていうのは何だか余計にかしずいているようなので) 手帳を開いて考えるにこの記録も結局、埋め尽くし、その次までには至らないだろう。 まだページ数に余裕があり、残りの旅路を考えるにちょうど一冊、そこでこの奇妙な時間停止旅行は終わりを告げる。 その後の私の安否は神のみぞ知ることだ。できればあの魔性を持つ男からの逃走に成功していれればいいんだけど。

今夜は気付けに、持ってきたワインと、途中目にした向かいのピコ島の名産の琥珀色のデザートワインを購入して、 運転三昧だった私も久しぶり飲んでやろうと目論んでいる。 その前にさっさとディオを連れてくるついでに、港の傍にあった波止場のペイントの写真を撮りに行っておこうと思う。 全世界のヨットマンがこの憩いの島に来た証として残していく思い思いの絵が並んでいるのだ。