(数行略)

ギブアップホープ。

叫ぶことのできない船上でこの手帳はさながら土の穴である。 我慢できずデッキに出て喧しく騒ぎ、何らかの単語が王様のロバの耳、奴の耳に届けば何かが終わってしまう、気がする。


自棄もそうそうにして、昨晩の続きを書く。
「……その傷は治るの?」おずおず尋ねると、普通の傷より時間はかかるそうだが、治ると言っていて息を吐いた。 もぞもぞと動く布の下でこちらを窺う気配がして、出来うるだけ紳士に努めてみた。

「貴方が危惧していることを私がする気はない。
 そんなに強力に紫外線が影響するなんて思わなかった。
 考えてみれば肉の芽は直ぐに消滅したんだから当たり前だけど。
 車の乗り換えを強いてこちらこそ悪かった、と思う」

まだ、言葉が足らない気がした。差し出せるものが足りない。 というか、なんで、話の流れとはいえ、殺すという相手に謝罪をしているのか。 「こいつ、ちょっと前のことすら忘れてしまったんじゃあないか?」という気配が色濃くして、慌てて口を開いた。

「それで……うん、私はおそらく、貴方のことを全然理解できてないんだと思う」

ディオという吸血鬼がしてきたことを私は僅かしか知らない。
至る話に血を腹いっぱい食らってきたという話は聞いたけれど、 こうして陽に当たって焼けただれる様を見た今やっと吸血鬼にとっての日光がどんなに危険なものかを理解できたように、 私の頭のなかでは「話」から振る舞いを崩していないのだ。 同じように、ディオが言う壁に囲われて飢える苦しみも、深海の棺に100年身を置く苦しみも、 それが途方もなく恐ろしいものだとしか分かっていない。 それをディオは恵まれた神の加護だと言い、無知だと言うのだ。
吸血鬼がどのように人を死に至らしめるのか。
鋼鉄の刃をも砕く怪力で肉体を壊し、痛みを与え、血を啜り……恐ろしい姿だろうか。
神が用意した壁のなかから私が知っているのは、“まだ”そうではない。

「本当に恐ろしくなったら私は逃げる。
 どうしようもなかったらもしかしたら貴方を殺そうとするのかもしれない。
 でも、まだそうではないから私は貴方をアメリカに連れていく」

「……お前が恐れる事とはなんだ」

「苦しいのは嫌いだ。身に詰まされるのも、良心の呵責だってできれば無いほうがいい。
 同行者が殺人をしそうになったらそりゃあ恐ろしいよ」

「飢えは、理不尽な殺意は、生まれで差別されることは、運命は」

「避けれれば避けていく。運命は知らないからわからないけど」

「私はお前を殺すと言った。それはどうなんだ」

「怖いよ。でも、今じゃないんだろう」

今、私を殺してもどうしようもない。だから、それまで策を練って置くんだ、と言い、「結果、残念ながら真夜中のルーヴルは無理そうだけどね」としみじみ言ってみると、 フン、と、情緒不安定の理由いつの間にか撤回していたディオは「布を塞げ」と腕を放して命令した。


そして、翌日。今日だ。
何故か「どうせこの世を手中に収めるのはこの私なのだから、今のうちにその恐怖を乗り越えて忠誠を誓え」という発言から始まり、 「ヤダって、私一所に留まるの苦手」、だらだらとその原因たる半生を語るに至って、ディオから総括を頂いた。 「お前は品行の正しさに拘るが品行とはその時や場所によって異なる。だから来る時代を先取りするだけだ」という謎の説得や、 間々、現代兵器の恐ろしさや要塞などに寄り道し、19世紀の生活の話に、かの切り裂きジャックの伝説の真実を思いがけず知り得たりした。 あの犯人が捕まらなかった猟奇事件は現代において様々な説が流布しているが、ディオが言うには単なる異常性癖な男のよるものだと言う。 そして、そのうち、話題が途切れる。乾いた喉を潤し、さて次はと考えたところで、思いついたくっだらないジョークを頭からなんとか 消そうとしていると、ふと、思いついたような声がかかったのだ。

「今日は一段とよく喋るじゃあないか」

なんだか機嫌の良い猫が尻尾を上にくゆらせ持ち上げるような感じがした。
そう?ととぼけてみたが、布の向こうからフフフと笑い声がして立ち上がり近づく気配がした。

「なぁ、船は西へと進むだけなのだろう、走らせたままにしてこちらへ来たらどうだ?」

ん?と気を惹くかのようにテープで補修された二枚の布をこちら側に届くように、恐らく指先でつーと順番に揺らし、 「その方が話も盛り上がるし、声も静寂に大きく響いて都合がいい、だろう?」と私がいる所に目星をつけて囁く。 なんだか、やり辛くなった予感がひしひしとした。「け、結構です」とたじろぎながら言うとまたフフフと笑う。 ああ、これは人質が誰であるか感づいたな、と思い、「何でもいいから喋ってろ」と言われて、 「なんでもー」とか「あー」とか「うー」とか唸りながら、これを意地で書き進めている。

現在の会話。

「おい、いい加減馬鹿か」

「……火事で燃え盛る家のなかで吹き抜けの二階から火の海の一階に飛び降りるっていう無謀なシーンをスタントなしでやれと言われた俳優が、  「そんなことしたら死んでしまう!」と監督に文句言ったら「大丈夫だラストシーンだから」と笑われた、という」

「なんだそのくだらない話は」