そんな風に己の人生を考えているのなら、痕跡を残さないように世界を放浪するような人間になるのも頷ける。
私の今までの半生を聞いてディオが言った事がこれだった。
続けて言葉を吐き出すべくとからっぽの頭を振り絞ったが、出てきたのは過去の界隈で聞いたくだらないジョークだった。
代わりに紅茶の何杯目かを飲み込んだ。
焼きついた水面の光から逃れようと邪道にも氷を入れたが、薄まらない代わりに少しも冷たくもならない。
時間を失っていたのを失念していた。
ディオが私の人生をどう思ったって自由だ。今更この生活を変えようとも思わない。
ただ空白を埋める為にだらだらと今まで行ったことのある国と場所を話し、果てには幼少期の思い出までに至って、
総括として、布の向こうから声が掛ったのだ。
コンベアに載せられて生産される既製品みたいに、その生来に相応しい成り立ちをしている。
ふうん、と過去から制作された私はそこまで己が気に入らないわけじゃない。
ただ、ディオは自分を作る工場という名の運命ですら憎んでいる節があるように思う。
そして、まだぎこちない。ぽつりぽつりと零す会話を続けた。
次の話題を探して暫く紅茶のカップを回して氷ごと液体を回転させていると、嫌でも昨晩の空気が船のなかに充満するような気がした。
昨日の記録の通り、ずっとメインサロンに居座っていたディオの様子が可笑しいわけだ。
昨晩のこと。
太陽は相変わらず。時計が22時を指したのを確かめ、航行を止めた。
寝るために布を捲るとまだディオはそこに居た。
日差しで狂う体内時計を無理やり夜にするために、真っ暗ななかで一通り支度をし、
横になろうとしてもまだソファの上に居座っていたので「そろそろ寝る」と伝えた。
それからあれよあれよという内になんだか雲行きが怪しくなった。
「ここで寝るのか」と言うので「空いている寝室はディオが使えばいいよ」と伝えると、刺々しい言葉が返ってくる。
私の善意が鼻につくのだ、と言われて驚いて首を傾げた。
冬の残る北部での野宿なら人間である私には苦であり病になりそうだから寝袋は私が有したが、ここはそうでない。
ソファもあることだし、あの時寝袋の権利を私にくれたから豪勢なクルーザーの寝室を使用する権利はディオが持てばいいというフェアの話だ。
そこまで鼻につくようなお綺麗な善意なんて絡んでいない。
そう告げると、またも敵意を含んだ言葉を吐く。ああ、なんだか様子が可笑しいなと確信したのはこの辺だった。
雰囲気が雪山の時に似ていた。それよりも影が濃く、張りつめている。
私の考えは媚だったか?媚びてどうなることもないだろうに。
どうせ、ディオが人質にとれるような家族も親しい友人も恋人も居ない。
寂しい御身分でいたところに奇妙な理由で始まった二人旅だった。けれど、それなりにやってきた。
私は初めて見る景色を共有する事が楽しいと思え、ディオだって宿泊するところで私よりも羽を伸ばしたり、
運転を任せて私は前を見なきゃいけないのにあれはなんだとか、通りかかった遺跡の解説とかを背後で始めたりしてた。
それともお得意に私がディオという人物に情を抱けるように被った仮面だったとでも言うんだろうか。
それなら成功だ、おめでとう。私は連れてこられた吸血鬼にしめしめと青い海を泳いでポルトガルに戻ったりしなかったのだから。
この怒りは私情な感情だと思う。
逃げ場のない陸の見えない海上で噴出した諍いには仲裁者も現れず、バイクで走りだすこともできないまま過剰に物騒なものへと発展していった。
ディオは私を再び貴様と称して攻撃の効かない私の代わりの人質を取ると言った。
私もディオに対して何だか凄く嫌な部屋の隣人と顔を合わせた見たいな気分になって「親しい人なんかいない」と無駄なことを告げていた。
「貴様のような輩は例え見ず知らずの他人でも効果がある」と言い切ったこの男は、
一体何人のその効果のある人間を脅し、言うことを効かせて来たのだろう。考えると嫌な奴だった。極悪人の犯罪者だ!
何故、こんな奴を他の人の迷惑も顧みずに生かして連れていこうなんて考えたのか、その時は一瞬で分からなくなった。
「どこにその見ず知らずの他人がいるって?ここは海の真っ只中じゃないか」カッとして言った。
憎々しいという赤い目で「しかし、ここまでくればお前はもう逃げられん……これが済んだら殺してやる」とディオは言った。ついに宣告されてしまった。
死刑方法も判明している。ふらっと足が後ろへと下がった。
意に反して唇が戦慄いて奥歯からじわりと悲しみが…確かに愕然とした悲しみが広がった。
動揺が滲み出る。やっぱり、と思う。しかし、予想外だとも思う。そこに自らの執着と情を知った。
私の足が後ろへと下がると、それを追って、逃がさないとばかりに凶器の手がやってきた。
鋭い爪は皮膚には刺さらず首を締め付けるが、器官を潰す手前の一定の力以上は私のスタンドによって防がれる。
倒れた背中や後頭部だって衝撃は能力によって緩和され、恐らく見た目よりもずっと易く、私は化け物に圧し掛かられていた。
首とは逆の手が足へと添えられ、ぎしぎしと筋肉の悲鳴を上げている。
脳のセーブの無い力でもって私の足を握りつぶそうと骨や肉を軋ませているのだ。しかし、出来ない。
私は見えない壁に阻まれてそれでも押しつけらる人外の爪や骨の悲鳴を聞きながら、
あまり効果のない拘束のなかで目だけを足や首を行きかってギョロギョロ動かしていた。
大きな舌打ちの音が聞こえたと思うとディオはナイフを手にしていた。
昼や夜に食べたリンゴを切ったナイフだ。透明な壁に今度はそれを押し付け始める。
ようやく、ディオが私の足を壊す気なのだと分かる。泳いで逃げられないようにだ。
「馬鹿な。足が駄目になったらアメリカの移動はどうする気だ」頓珍漢なことを言いそうになって、直ぐに、
ああ、見ず知らずの人を連れてきて足が駄目になった私に動かさせて運転手にする気だ。と考える。
ちょうど人質にもできるし。力づくにナイフを押し付ける男の思考をトレースしながら、今度はつき立てられているナイフの悲鳴を聞いていた。
刃先はまったく肌に届いていなかった。刃先が掠めないことを確かめるとなんだか諦めの境地に至ったような気分になって、
自分に刃が振り下ろし続けられる光景に目を瞑った。早く、諦めればいいのに、と投げやりに。
こんなあからさまな殺意に初めて晒されて惨めな気分だった。
数分、悪態を吐くディオの下でそうしていると、ギッ、か、ガキッ、という音がして、何かがヒュっと空気を切っていった。
ボスッと籠った音がしてその飛んで行ったものが掛けてあった布に触れたのだと閉じた瞳のなかで理解した、その直後、
ギャッと悲鳴が上がった。ハッとして目を開くと真っ暗だった部屋のなかに光がある。限界を超えて砕けて飛んでいった刃が布の一部を裂いたのだ。
光はディオの右目に差した。覆おうとした手にすら火傷のような傷跡が出来ていくのが見えて、身を起こしたと同時にその頭を抱え込む。
一抱えのそれを持って呆然とした。
殺すと言ってる相手を庇ってしまったんだ。抱え込んでから困ったのだ。
これこそお綺麗なエゴの善意のような気がしてぎくりとした。痛みが続いているのか呻く頭があって動くに動けず、
「どうしよう……」呟いて肩越しに振って布を見た。二枚あった布の両方とも裂けている。そこから光が差し込み、私の背中に当たっていた。
後で確認すると飛んで行った刃は船のフロントガラスにぶつかったらしく小さな傷を残してバウンドし、床に落ちていた。
私は、本当に日光は駄目なのか、と、嘘であるなんて考えてもなかったが、
あんなにジュウと薬品でも付いたかのような激しい反応を目の前にして、恐ろしく思った。
そりゃあ、布だけ被らされて移動するのに抵抗するはずだったのだ。
近くあったバイクに括りつけたままの遮光カーテンに手が届き、四苦八苦しながら片手で引き抜いて振り回すようにして広げ、
恐る恐る抱えていた頭部を離して、目を合わせるのは気まずいので広げた布でスッポリと隠してしまって目の前にできた簡易ゴーストを見た。
吸血鬼の頑丈さについて経験はあるものの、天敵である陽の光の傷は治るのか、と気にした。
少しでも当たってしまったらドミノ倒しのように全身に回って崩れ去るんではないだろうかと思い、
ショーマジックみたいに布が床にぺったんこにならないか、身動きをしないがっしりとした肩の辺りに触れて気が気ではなかった。
いつの間にか唸り声は止み、訪れた静寂のなかで「……棺」とディオは言った。
「―――この海域だった。いつ引き上げられるか見当もつかん棺のなかに私は100年近く居た。
大半は傷を癒すのと“新しい体”を慣らせる為に睡眠に費やした。
しかし、覚醒とは不意に頭を過る胸糞の悪い追憶のように訪れる。
静寂だ。静寂が耳の中を引っかき回す」
布のオバケは静かな声で言った。
静けさが気を狂わせるという経験は大いに頷けた。私以外が停止した町で一人眠りに落ちる直前にそれはやってくる。
しかし、棺に入って海に沈められ、喧騒賑わう岸辺をいつ引き上げられるかわらないまま100年思う経験などはない。
恐ろしいことだとは分かった。途方もなく。
【私は正常な声が布の下から出ていることにホッとするばかりで、この時は“新しい体”という理解しがたいことを頭に留めなかった
この記録を付けた時点でも“新しい体”とは吸血鬼として性質を変化させた体という解釈を無意識に採用していたのだ】
「穴を塞ごう」
船首に向かおうとすると手が腕を掴んだ。すまなかった。不安だったんだ。と、言う。
競り上がってくる言葉を飲み込み、代わりに出てきそうになった溜息も飲み込んで、暫く布オバケと会話する覚悟を決めた。
「カーテンを取り外すなんてしない」
布の下の目はこっちを睨んでいる。
けして、後悔や懺悔を持ち合わせた表情なんてしていないだろう、と思った。
ディオという人間を鑑みるとそういう決断を下せざる負えない。
しかし、海の静寂が記憶を呼び起こすという彼の言葉は信じた。
この場でスタンドへの対策も無くやみくもに私の足を壊しにかかる行動は彼らしくはない。焦っていたんだと思う。
つまり、内臓を焼く猛毒のなかでガスマスクをして、そのマスクは開閉式で、そのスイッチを他人が握っている。
そんな中で昔閉じ込められた状況に酷似するなんていう目に合っているんだから。
だが、これをもってディオはますますを持って私を信用できやしない。殺すと言われて庇う馬鹿を理解できないのだ。
生まれ持った力でもって慢心し足りて脳味噌がとろけてしまったか、危険を理解できない狂人だと思ってるんだろう。
同意したいところだが、しかし、私は分かってしまっていた。
差し込む日光を恐ろしく思うこと。白い肌がちりちりと焦げていく様。
指に触れる金の髪の感触。首の下の骨に当たる額のなだらかさ。なんてこと。
歯が柔らかいものを食むみたいにふわふわとしてしまいながら書く。
彼はこの海上で有効な“人質”を手にしてしまっている。
そして、私は、悪趣味だ!