目の前は一面真っ青だ。

出発してから入江の左右の先端が見えなくなる時の不安を飲み込むと、 ダイアモンドのようにキラキラ光る海面が広がって、先の見えない青い世界を進む。船に異常は無し。 普通船上は独特な揺れを感じるものだが波もなく、力の伝道も鈍いらしく緩やかな上昇と下降を繰り返し、地上の砂漠を走っているかのようだ。 船のエンジンを切り、停止すれば陸と変わらず、足元が危うくなることもない。
一時間ほど夢中でコンパスを睨みながら西へと船を進め、 ふと我に返ると漁船やクルーズ中の船も無くなったことを認識して居てもたってもいられなくなった。 船を止めてフライングデッキに出て、手すりに掴まりながら船尾の果てを見ると、なんて地上が遠い。 水平線に青く山の輪郭が隆起しているのが見えるだけだったのだ。 急に、ああ、こんなところまで来てしまったんだなぁ、という気になった。 地上ばかり移動してきた頃には味わえなかった、決定的な線を引かれた気分だ。
郷愁の念に吹かれながらすごすご操縦席に戻ってきて舵を握る。一人で不安だった。(この時ディオは上の寝室にいた) こんなんで10日間も、あるいはそれ以上なんて耐えきれるのか。 今ならまだ戻れるぞ、という弱気に陥りそうになる。しかし、戻ってもしかたないのでスロットルを前進へ入れた。

一日の航行予定。
7時から12時の5時間
13時から18時の5時間
19時から22時の3時間
各一時間の休憩で進行する。

運転再開。進路を西、アソーレス諸島を目指す。

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驚いた。
寝室に居たはずのディオが船が止まったの不審に感じて布を挟んだメインサロンまで来ていたらしい。 食事とエンジンを休ませる為に二枚の布を順番に捲ってメインサロンのソファにやってくると、 本を片手に座っているディオが居た。良かった面倒で布を二枚一気に捲らなくて。 いつの間に来たの?と聞いた次第が前述である。なら、声を掛けてくれ。

もう一度用心しながら順番に布を捲ってギャレーに行き、昼食のパンとリンゴを取ってきて、メインサロンに戻った。 私は食事を摂ったがディオは本を読み続けていた。その本は準備中にディオが要求してきたものだ。 自分の持っている黒い本は読み終わったのか、ジャンルはどうでもいいから本をよこせという要求であり、そこで、私が用意したのは、 写真の雑誌とバイク雑誌、本屋で見つけた80日間世界一周、そして聖書だった。
写真とバイク雑誌は言わずもがな私が読みたいからであって、世界一周は状況に影響されたから、そして、聖書は吸血鬼研究の興味本位だった。 ジャンルを特定してくれないからいけない。ディオが読みそうなものなんか知らないのだ。 (無難にファッション雑誌……っていうのもなんだか違う気がするし、画集は値段が高い。)

この四種類のなかで意外にもバイク雑誌を広げているのが面白くて食事中ちらちらと何を見ているのか伺った。 同名のバイクもあるんだよ、と話題を振ってもあんまり興味はそそられなかったらしい。 でかいハーレーにでも乗ったら悔しいほど似合いそうなものだから、時間を取り戻したらいつか自分で乗ってみればいいと思う。
食事を終えて記録をつけて運転再開する。

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私の時計の針が落ちて行くのとは反対に、西に向かうに従い、日差しが強くなってきた。
時刻は午後三時か二時くらいだろう。太陽熱が高い時間帯に入る。海面上はキラキラというよりもギラギラしている。 前方に見えるものと言えば偶に船の陰影であったり、面白いものではトビウオが空中に停止しているのを見たり、 しかし、圧倒的になにもない。地平線の果てまで平坦に見える青い海が続いているのだ。
延々と同じような風景が続くと次第に飽きてくるもので、飽きる果てにあるものが睡魔である。 よく高速道路の事故の原因に挙げられるが、温かい日差しを受けて後ろの黒い布がまた暖かさを保つものだから、船のなかでも自然と瞼が重くなる。 西に延々と進めばいいのだから船だけ走らせて昼寝でもしてやりたいが、 知らず知らずの内に水平線にポツンと見えた船の陰影が、ぐぐっと迫っていてぶつかるという可能性もあるし、 平坦に見える水面も観察して置かなければならない。

特にアソーレスの次に着岸予定のニューファンドランド島近辺は暖流と北極海から続く寒流が合流していて、時折、流氷が流れて来る危険な場所でもある。 かの有名なタイタニック号は夜間の航行中にこの流氷の発見が間に合わずぶつかり沈没した。 私は小回りの利く船底の浅い船にに乗って、永遠の昼間の世界にいることなのだし、身を守る為にも目を皿にして航行したい。
しかし、目に見える異常はいいとして、海の内側の問題に気付かなかったら……。
「もし、クジラに乗り上げたらどうすればいいんだろう」
海面に呼吸をしに来た黒い丘の上で立ち往生なんて。姿は微笑ましいような気がするんだけど。 ……実は、暇つぶしには水を飲むか、この記録くらいしかやることがないのだ。 ディオは寝床に帰ったんだろうか、口から発したクジラに関するコメントは無い。

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問題なく進行。二度目の休憩に入る。

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今日残り三時間の航行を開始。後方の陸はもう形もない位置に来ている。
先ほどの休憩でまさかと思い、布を丁寧に捲るとまだディオが居た。彼も暇なんだろうか。暇だろうな。 今度こそは端に避けて貰ってソファに倒れこんだ。海面に照り返しと背後の布の保温効果が思ったよりも熱い。 北に向かい始めればマシになるどころか暖房と毛布を手放せなくなるだろうけれど、少し困った事態だ。 「おい」と声が掛かり、訊き返すとスタンドは操作できるようになったのかと聞かれる。
名前を付けられて数日、正直船の準備で変化を感じ取る余裕なんてなかった。 11号を受け取りまた「爛れる爛れる」と言いながら布の向こう側へといくと砂になって11号は崩れていった。 元肉片が操縦席にかかってしまい、微妙な気分になった。今度からデッキでやろう。 駄目だった。と行って戻ると深く溜息を吐かれた。 あまりに残念そうだったのでギョッとしたが、相変わらず雑誌をペラペラと捲っていた。 航行中暇だと言い、試しに「しりとりでもしない?」と言うと不毛にも布を挟んでの無制限しりとりが始まってしまった。

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言うことが難し過ぎて半分以上「何それ」で次に進まない。
ディオが「もう止めろ喧しい」でしりとりは終了した。
本日の航行を終了。ここ三時間何もなかった公海海上で船を止める。ここまで来ると開き直ってくる。
アソーレス諸島の最初の島が見えてくるのは今日から二日後だ。