お?と思ったのはフロントガラスに水滴が弾けたからだ。
見える空は青かったが、半分くらい重そうな雲が降りてきている。その裾が黒ずんでいるのを見て、
ああ、雨だと思い至った。久しぶりに車体をはじく水滴の音を聞いてやっぱり車は体が濡れなくていいなぁと呑気なことを考えた。
この旅始まって以来初めての雨だ。地面に落ちている雪はみたけれど…いや、そういえば雪のように冷たい霧はみたっけ、と、
思ったところで、ん、と思い、ブレーキを踏んだ。“雨”。
止まった車にはフロントガラスに雨は落ちなかった。何故なら雨は降っているのではなく空中に止まっているからだ。
ここは時間が止まった世界だ。天気はそうそう変わらず雨に行き合わなかったのだろうか。
シートベルトを外し、胸を期待で膨らませてドアのロックを解除した。
ましてその場所は、別に歴史的な建物がある場所でも世界遺産がある場所でもない。
行きあいの見渡す限りの平野で、道は地平線まで続き、もとは乾いていただろう大地のところどころ葉のない木が生えている。
寂しい場所だった。けれど、私はここの風景を一生わすれないだろう。
車から降りると土の匂いが鼻をついた。
乾いた大地に大粒の雨が夕立のように降り注いだ走りの匂いだ。
直ぐにやむような格好の大粒の雨は、雲間からの光に照らされてキラキラと浮かぶガラス玉のように、遥か上空までずっと続いていた。
厚いコンタクトレンズのような形をした透明な粒が、見えない糸で紡がれて雲から何本も吊るされているような。
それが一つ一つ、青い空と黒くくすんだ雲と太陽を反射して風景を写す。上に行くにしたがって霞んで、最後は雲の中へ……。
出る言葉が無かった。私はモビールを揺らすような気分で雨のビーズを一撫でしていた。
それらが気が遠くなるような長さに連なる光の粒を揺らすような気がした。
けれど、手に触れれば時間を取り戻して皮膚を流れて行った。水なのだ。
ぞくぞくとした。
高性能のカメラでも、こんなにぴたりと止まった沢山の雨粒が光を反射している写真は撮れない。
下から覗きこめば、ピントのあった雨粒から段々と遠ざかる小さい粒。
ダイビングの水中写真に似ているかもしれない。あれは水面に上がっていくダイバーの気泡だ。
ああ、そうか、この気分は透明度の高く感触のない水の中にいるみたいなんだ。
その中で空と雲を見上げている。静かで、水流もないから何もかも動きを止めたなかで。
ほっぺたをカッカとしたまま何枚も写真におさめる。
今まで走ってきた車の後ろを覗き込むと、轢かれて左右に飛び散った分、トンネルのように水が避けていた。
今度はアーケードの電飾を思わせる。例えば、夜だったらどうだろう。
夜の雨をライトを照らしたら、宝石の鉱山の洞窟にいるようでないだろうか。
時間が動けば普通の雨となってしまうのに、開けた場所を闊歩しながら陽が落ちることを思っていると、
名前を呼ばれたような気がして、慌てて運転席に戻った。
寝ているのかと思っていたディオが布の向こうから私を呼んでいた。
どうしたの?と興奮冷めやらぬ声で問うと、「こっちが訊きたい」と言った。
どうして車を停車させているのか、その理由を答えようとして、口を開いて、閉じる。
「どうした?」
「ううん、なんでも」
ディオはこの風景を見れない。キラキラと光るあの一つ一つが彼を殺す。
私はあの光を“害”にしなければならない。夢から覚めた気分だった。
私以外のこの世の誰も、時が止まったあの光景を見れない。もったいないことだ。
あんなにも素晴らしい光景だったのに、人は一生気付かない。
そして、時間が止まることを知らない者は私の写真をトリックだと思ってしまうんではないだろうか。
早く、このカメラのなかの写真を現像したい。写真ならディオを殺しはしないのだから。
「ディオ」
車を発進させた。轢かれる水の粒がいつもの雨の音を立てた。
「アメリカに行って、ディスクを抜いてもらえるようなったら、やっぱり今回行けなかった所に行こうよ」
「……棺桶を持ち歩いて、夜に観光するのか?」
言うとルーヴルは18時で閉館だぞ、とつけてきた。
「なら、また時間を止めて行こう。そうすれば色々関係ない」
「フランスが深夜の時にか。ほかはどうする?」
また、こんな時間のかかる無駄な移動はごめんだな。声は楽しげに聞こえて私は調子に乗った。
「じゃあ、アメリカの神学生のその人にも来てもらって、移動の前に能力を解除してもらうっていうのはどうだろう?
公共の乗り物は目的さえはっきりしてればやっぱり速いし。バイクは現地のレンタルで我慢しよう」
「学生を連れまわすなんて悪い女だ」
「あれ、その人…いや、その子って何歳?でも、ほとんど時間が止まってるのなら、
そんなに実際の日数はいらないはずだから大丈夫じゃない?責任もってアメリカまで送るよ」
それから、それまでに紫外線の成功できればいいなぁ、と希望を告げる。
そうしたらほとんどどこへでも行けるじゃないだろうか。
「……三人で手でも繋ぐか? そうしたらお前は写真が撮れなくなるがな」
日光の降り注ぐ止まった時間の中で、時間と紫外線のために二人に触れていないといけないわけだ。
暫く、無意味に唸りながら考えるふりをして、最終的に「構わない」と言った。ディオは黙っている。
世にも珍しい光景を目にして、浮ついた心が着地できてなかったんだろう、と思う。
そのまま言い切って、車は雲の裾の雨のカーテンを抜け、再び乾いた道を疾走し始めた。
私の希望が叶ったならなんの心配もなくなるんではないか。楽しい旅になるじゃないか。
けれど、頭上を再び雲の影が覆う。
動いた時間のなかで陽の光をものともしなくなった吸血鬼は、手を繋いだ向こう側でサンドイッチの代わりに何を食べる?
禁忌が口をついて出そうになって水滴が弾ける視界を進んだ。
胸で蟠るそれが騒々しくてかなわないので、ここに書く。
ディオが吸血鬼じゃなければよかったのに。