口に手の甲を当てたまま、おもむろに手帳の表紙を開く。
見返しの部分に早々と経緯は始まり、何度も目にした文をみた。
・あまりに奇怪なできごとだったので専用に記録をつけることにした。
些細なことでも構わないのでこの手帳に記した記録が今後の打開策に少しでも役立てば幸いである。
できうるのならこの手帳を埋め尽くしてもなおこの状況が続くことのないように願いたい。
スローリーゴーゴン
〜(一ページ目から数ページ省略)
昨日に引き続き場所は南ギリシャ。
ただし、今日もその情景を書き記すということはしない。今回、特筆すべきは、ある出会いについてである。
もし、この出会いがなかったのなら、延々と折角エーゲ海が望めるというのに陽の当らない暗い海面について書くか、
白い神殿を包むのが真っ青な空でないことについて触れてぐずぐずとしていたはずだ。
【追記:そして、この出会いが結果的に状況を変えた。
それが分かった時より後から思い出したことをこうして間間追記していくことにしようと思う。
……いっそのこと別の手帳にまとめるべきだろうけど、
どうせ私しか読む人間はいないのだからこれで十分だ。】
男との出会いを書き出してみる。
空に光る星と古代の柱の写真をカメラで撮って出発した私は市街地に向けて乾いた土の道で愛車を走らせていた。
その間、出発する直前まで見ていた朽ちかけたぎざぎざな表面を晒す巨大な円柱や乾いた土色の壁について考えを巡らせながら、
ここ最近においては比較的にいい気分だった。
風に晒されて佇む柱の下、数百年前の誰かの足跡と自分の足跡が何かの奇跡でぴったりと重なり、
それを確かに感じとって運命を掬い取ってやったかのような収まりの良い気分だ。
そんな気分のままバイクを走らせ、街頭に照らされた白を基調とした赤い屋根の可愛いい街並みが見えた頃合い。
まず、遠くから石畳を蹴る激しい足音がバイクの走行音に紛れて聞こえ始めた。
この時はあんまりなこの世界に幻聴でも聞こえ始めたかとまず思った。
コンコン、だか、カンカンだか、足音は迷路のような街並みに反響して発生源はわからず、一層に幻聴染みていた。
よく聞こうとブレーキを握ろうとしてハッとした私は手に力を込めてアクセルを引く。
自分の中に澱のように降り積もっていた孤独な哀しみはすでに何度か訪れることがあったのだから、
せっかくの良い気分のまま今度も振り切ってやるべきだとエンジンを吹かして、路を走りぬける。
どうせ困る思いをするのは私だけだ。速度規制などあってないようなもので、
目の前のメーターの針がぐぅんと変化したのを確かちらりと確認したような気がする。
そして、その時。
馬が障害を乗り越える時の蹄の音のような音が真後ろでして、目の前に何かが飛び出してきた。
心の中で絶叫をあげた。現実では喉はひっ潰れたようになり、大きく震えた体を凍りつけさせながら私は必至に目の前からハンドルを切っていた。
ぶつからなかったのは反射神経のたまものだった。しかし、目の前のものは無事でもこちらはそうとは限らない。
車体に振り回されそうになりながら、ギャリガリ、と、ブーツの下を削って必死に静止を補助する。
ロデオマシーンなんて目じゃない遠心力に、横倒しになるかもしれないと思った。
何かが壊れるのは嫌だし困る。腹のなかの内臓が浮くぞっとする感覚がして、荷物がコンクリートに削られながら散乱することを瞬時に考える。
ならなんとか旅の記録のカメラだけはと、いっそハンドルから手を離してカメラを抱え道に転がろうかと思う。
しかし、安全装置のない恐怖のジェットマシンは一度大きく傾き、危うくなった後にぐっと両腕で持ち上げるようにすると、
持ち直して、いつものように従順に停止をした。
恐る恐る腕の力を抜き、いつも通りになった相棒が身を任せているのを確かめた後、息を深く吐き、シートに脱力した。
旅を続けてきて何度も危ういことはあったし、持ちこたえることができずに一緒になって吹っ飛んだこともある。
けど、あの内臓の浮く感触には慣れないのだ。
じわじわと頭とヘルメットの間に汗がにじんできて、いっそのことと、それを脱いでしまう。
そうしてやっと、飛び出してきたものを振り向いて見てみることにした。
【これで、目の前に何もなかったなら、今日はもうまたどこかに飛び込んで寝てしまおう、と決めていた。
まだ、これが幻覚の類であるという可能性を捨て切れていなかったのだ】
時速100キロにはいかなかったものの独走するバイクを追い越し、目の前に飛び込んできたものは本当に確かにそこに居た。
幾重にも布を巻きつけた体躯から見て大きな男。昔のローマ人のよう。
土地柄、そういう催しがあったのかもしれない、と、思いかけて否定した。
まるで素晴らしい彫刻のような男は、今にも感謝の気持ちを高らかに叫びだしそうな感極まった笑みを浮かべている。
そして、驚くことに、震えて差し出したその両手を広げ、二三歩滑らかに歩み寄ってきた。
対する私の心境は男に負けず劣らず奇跡を目撃したのに等しいものだった。
一ヶ月。男がバイクを追い越し進行方向に飛び出した点も忘れ、一ヶ月分の時間を振り返ってまったく同意見に神に感謝をした。
ハレルヤ!
ついに、この世界で“動ける人間”に会えた!
***
私の持つ動いている時計が朝の7時を指していることからして、二日目の朝ということになる。
前ページの透けて見える興奮を物語っている荒れた文字が一層のこと憎らしく思える。
奴とお互いの労を労って背を叩き終えて……その後の落差は激しかった。
とんでもないことだった。二度書く。
とんでもないことだった!
…とにかく、今日は恒例な暗い街の様相ではなく、この事から書き始めなければならない。
一ヶ月目にして、この世界の変貌の原因が判明した。
ほかならぬあの男が原因なのだ。オーマイゴッド!
【一ページも置かず数行で、讃えられ落胆される神はさぞかし憤慨であるだろう、と今ふと思う】
朝の7時だというのに、海は朝日にきらめくことはない。
暗澹と闇に包まれ、まだ街頭や街の明かりがあるからいいものの、風も、波音も、鳥の声も、人のざわめきすらもない。
何故ならこの世界で陽を拝むには1000キロほど移動しなければならないからだ。そんな風にした元凶があの男だ。
とにかく、最も気に入らないことはまだそのことを知らない私がお互いの名前を言い合って、
彼の名前がイタリア語で神であると知ってバイクではなく「ああ神様やっぱり」と思ってしまったことが最悪に後味が悪い。
嫌味の一つで「オーディーオミーオ!」と拙いイタリア語で嘆いて見せると、憚りもせずに彼は嫌そうな顔をしていた。
しかし、構う理性ももはやない。私はすでに昨晩の感激の抱擁時の胸の高鳴りがむかむかとしたものへと変貌しきって隠す気もなかった。
そんな私の様子を感じ取って久からぬ、彼、DIO“ディオ”(イタリア語で神)は、
「何故、お前は動けるのだ」と、最初の今生の別れをした親友に再会したかのような態度を無くして、
憮然に気に入らないとその顔に書いて訊いてきた。私はそういう能力だと答える。
それだけでは足りないと顔に書いてあったが、詳しく言う気なんてなく、うんざりと息を吐いて見せて、実のある会話を再開したのだ。
「ここ半年くらい、ときどきこういうことがあったのを知ってる。
私の“唯一動き続けている時計”を信用するとして“一ヶ月前”のセルビアの夕方なんて最悪だった。
一歩進むと街の人間が停止して、動き出したと思ったらまた停止する。
これはそういう番組の企画でテレビ局が停止する人ごみにオロオロする
ターゲットをからかっているんじゃないかと思った。
でも、流石に滴り落ちている水を停止する方法なんて“これ”しかないんだから、
なんてハタ迷惑な人がいるんだろうと思っていた」
そのようなことを言い、私が背後に指を刺し、追って彼が“それ”を見た。つまりはそういうことだ。
その時、頭にフードのように被せている布と布の間から見えた彼の瞳がとても赤く、こういう人間のことをアルビノというんだと思いだした。
しかし、彼の髪は黄色みの強いブロンドであり、目のみがそうなることもあるのかと後で調べることにする。
(目のみのアルビノというのも確かにいるらしい。しかし、彼の赤い目の要因は結局のところそれではなかったという顛末だ)
私の背後に出ている人の姿をした、それでいて人では有り得ない存在を目視している彼は、その赤い目をスイッと細めて見せた。
その時の表情に私は思わず“撮りたい”と思う。この状況の要因だということも忘れて考えてしまった。
「見えているんならそうなんでしょう。それで本当に元に戻せないの?」
いくら連れのいない旅といっても静止した世界を一人で巡るのとはわけがちがう。
私のカメラにはセルビアから夕方と宵闇の静寂のネガばかりで、原因が判明した今、口をついて出る言葉は容赦もなく刺々しいものになるのも仕方ない。
それを受けて、彼は深く深く、私よりも心底困った様子で、息を吐いた。
「出てこないのだ。
出せるのならばとっくに出してこれを止めさせている!」
頭を抱えてしゃがみこんだその心境はまるでこの世界に招待された一カ月前の自分のようで想像に容易いものだった。
止まった世界で頭を抱える彼は世界の時間を停止させる能力の持ち主だ。