2010年、7月30日。朝。
外では、晴天の青い空が広がり、夏の黄色みの強い日差しが照っていた。
その光を避けるように屋敷の軒の影を縫い、陣内家の広い屋敷のなかを慣れたふうに歩く。
母親と一緒の部屋から、迷路のように入り組んだ廊下を巡って、中庭の見える場所を通り、
説明された個室に行きついて、佳主馬はやっと一息ついた。
この夏、陣内家の本家にやってきた佳主馬がOZにログインし、ネット上の“仕事”をするための部屋として用意されたのは、
屋敷の隅にある、普段使っていない本や、掃除道具、夏の間のストーブなどを保管しておく、倉庫として使われている小部屋だった。
倉庫といっても、訪れたその日には、本家の誰かが掃除をしてくれてあったようで、室内は片付いており、机と扇風機が用意されていた。
それをよしとした佳主馬は、ノートパソコンを机に置いて、他の親戚から遠く離れて、さっそくというように“仕事”をしにOZにログインし始めた。
***
中学1年生であり13才という年齢である池沢佳主馬の仕事とは、OZ Martial Arts Championship 。
所謂OMCと呼ばれるオンラインの格闘ゲームにおいての、世界的チャンピオン“キングカズマ”としての対戦試合だ。
人から言わせれば、ゲームが仕事?と眉を顰められるかもしれない。
けれど、中学一年生の一人の少年でありながら、世界的チャンピオンに輝いた佳主馬には、数々の企業のスポンサーが付き、
その背景では多額の金額が行き来していることは確かであり、中学生でありながら、おこずかいでは済まない金額を稼いで家に入れている。
それは立派な“仕事”と名がついて可笑しくないだろうし、家族の理解もある。
そしてなにより佳主馬自身にとっても、これはゲームではなく、戦いだ。
そうして、佳主馬は、夏休みでありながら、OZにログインし、闘う日々を送っていた。
それは、曾祖母の90の誕生日を祝う為に親の実家に来たその日も同じであり、間間で、闘う予定だった。
OZというシステムは、良くできていて、ネットに繋がるものがあれば、“どこからでも”ログインすることが可能なのだ。
狭く離れた部屋のなかで腰を落ち着けた佳主馬は、持ってきたヘッドホンをつけ、少し早いが、OZのアカウント入力のページを開けた後、目線を少し上げた。
その先の、対極にある、いつも障子の閉まった部屋、そこにいる人物、を思う。
今年の夏も、あんまり会えずじまいだろう。そう思う。
OZを始め、OMCで評価を出し始めた毎年の帰省の頃から、佳主馬は自分専用のノートパソコンを持ち歩き始めた。
そうしてから、池沢家が本家に帰省するたびに、佳主馬専用の部屋というものが、
毎年場所がちょくちょく変わるが、用意されるようになった。
チャンピオンになった今となれば、対戦相手の情報収集も含めて、
本家に居る間、殆どパソコンに入り浸りになってしまうだろうし、
も、エネルギーが吸い取られるからと、人が集まる場所には殆ど顔を出さず、
“ネットに繋がる電化製品”の近くに行くと意識を失う症状が悪化するが、
ネットを常時つないでいるといって過言でも無い個室にいる佳主馬のもとには、やってはこない。
だから、ほとんどすれ違うばかりで、と佳主馬は膝を突き合わせて喋ることもここ数年儘ならない。
しかし、そうは言っても、この症状の悪化は、万里子おばさんの“気がする”程度であって、医師の確証は得られてはいない。
ただ、ただでさえ原因不明なのだから、信じられそうな傾向を発見したら一通り信じてみる方が気持ちが楽なのだろう。
そんな事情を承知しつつ、佳主馬は、ふと思う。もしかしたら、予定されている誕生日パーティーにだって、どうだかわからない。
きっとは挨拶程度して、早々に、自分の部屋へと籠ってしまうかもしれない。
昔は、結構遊んで貰った記憶はあるけれど…。
それを残念に思う反面、ホッとする部分もあったりする。
今年中学に入った13歳の男の子である佳主馬にとって過去のその記憶はどこがむず痒くおもはゆい。
そんな感情を感じながら、佳主馬は持ってきた麦茶を口に含んで、アカウント情報を書き込む。
そして、ENTERボタンを押した。当然、そこには、多種多様なコンテンツへと繋がるOZの広大な世界が広がって、
いるはずだった。
「は?」
そこには、見慣れたものではなく、凄惨なありさまとなったOZの世界が広がっていた。
OZの象徴とも言える中心にそびえる動物の顔を模した白い塔に広がる“子供の落書き”。
それに顔を顰めた佳主馬は、コップを元の場所に戻し、この事態の理由を探しに情報収集に向かうことにした。
そして、OZの異常と、事の発端者であると世界で思われているらしい人物を、陣内家内で誰よりも早くに知り、
後に、彼が“なりすまし”の被害者であることも知ったのだった。
***
とんでもないことになった。
前記同日。
長野の上田市の地にて、一晩明けた健二は、全国放送であるニュースで流れる明らかに自分と思われる写真を確認し、
驚愕し、動揺していた。内容は、仮想都市OZへの不正アクセスの疑い。健二にとってはまったく身に覚えがない。
そんな健二も知らず、冷淡にも、テレビの画面は、整頓され、整っていたOZの世界の変わり果てた姿と、
壊れた世界で、不気味に笑う健二の―――――自分の、アバターが映っていた。
健二は、まず、自分の携帯からのOZへのアクセスを試みた。
しかし、パスワードを何度打ち込んでみても、認証されず、再試行の上限を超え、
携帯からのOZへのアクセスができなくなってしまった。これでは、自分のアカウントがどうなっているのかの確認も、
ニュースの詳細も、こういうことに詳しい友人に相談することもできない。
青くなる健二は、この騒動の発端がなんなのかまったく掴めず、
陣内家の人々の声にビクつきながら、OZへアクセスできる場所を探した。
けれど、この古き良きと感じる日本家屋で、携帯以外でOZにつなげることができる機械があるところなんて、想像できそうもない。
そこで、誰か他の人の携帯を借りて…など、思案する間もなく、日本各地で今も流れているニュースのことを考えて
健二はその考えを却下する。
今までお世話になった陣内家の人々や、自分の憧れの先輩に、
携帯を借りる理由を問われた場合、事がつまびらかになったときを考えると、恐ろしすぎた。
健二は想像だけでも震える。自分自身に全然身に覚えが無いからこそ、
この恐ろしい現実に、直視も、納得も、するには理不尽すぎたのだ。
ただでさえ、昨晩は、叔父さん大好きっぽい雰囲気を持ってる先輩の婚約者を、
明日も演じ続けなければいけないという不安を抱えて、
寝る前の“ビックリ”に不貞腐れながら眠りについたというのに!叫んでしまいたい健二は、丁度、思いだす。 昨晩。
自分が、この今は役立たずになってしまった携帯電話を使って、友人と通話を行い、ついうろうろと歩きまわり、
屋敷のなかで迷った時の場所には、見知らぬ少年と、少年が暗い部屋のなか操作していた、青白く光り輝く…
「ノートパソコン!」
あれならネットに繋げられるかもしれない。
健二は呼ばれた朝食に向かうこともせず、少年が居た本やストーブやらが詰まった部屋を探しだし、
パソコンを貸してもらうことにした。
だが、
「な、なんでぇ…?」
部屋を見つけ出し、丁度少年も居たため、“丁寧に”お願いをして、パソコンを貸してもらったが、
健二がOZへと接続することは携帯と同じようにかなわなかった。
確かに自分が設定したアカウント名とパスワードを打ち込んでいるのに、パソコンでも携帯でも認証されない。
アカウントを使っていた本人がそうなのだ。それなのに、アバターは好き勝手に動いている…
そうして、そのときやっと頭によぎったのは、アカウントの乗っ取り。所謂、“なりすまし”と呼ばれるネット上での悪事だった。
IDとパスワードをなんらかの方法で知りえた他人が、奪った人のパスワードを変更しつつ、
ネット上での権限をも奪い、その人―――今の被害者、健二になりすまして、好き勝手する。
OZでの権限は現実のその人の権限に等しい。生活の殆どがOZが無いと成り立たない世の中。
それなのに、―――奪われてしまった。
健二は目の前が真っ暗になったような気さえした。
崩れ落ちそうになりつつも、なんとか「どうにかしよう!」「どうにかしなくちゃ!」と思えたのは、
そのことを理解してくれ、
なおかつ、「サポートセンターに連絡」と冷静にアドバイスをしてくれた、
パソコンの持ち主でもある少年、佳主馬の御蔭だ。
だが、その冷静なアドバイスも、混乱を極めた健二には役立てることは無理だった。
なりすまされて役に立たなくなったと自分で分かっているくせに、
自分の携帯でサポートセンターに連絡をいれ始める。
当然、耳に当てている携帯電話からは、冷徹に
「貴方のOZアカウントが認証されないため、携帯電話回線に接続できません」という宣告が返された。
通告を受けた健二は、藁をも掴むような気持ちで、佳主馬に振り返り、「かからない!かからないよ!」と顔を青くして、繰り返す。
その姿を見て、佳主馬は、改めて、この人にOZを混乱に貶める度胸は無いな。と、確信を確固たるものにして、
自分にとって、ほぼ初対面であり、親戚でもない正体の知れない青年の話を聞いてみることとした。
ネットに繋がる電化製品云々…睡眠障害かと思いきや、なんだか奇病に。
佳主馬君をどうにか引き込みたくてこじつけた結果です。でも、病気の正体は、睡眠障害じゃないらしいっていう方向で進みます。
それから、主人公がOZの世界を知らないのも、こういう理由。