白い世界。



長い夢の世界のなかで膝を抱えて蹲っていたは、ふいに静まっていた空気が揺らいだような気がして、 少し膝から顔をずらし、視線を向けた。目の前は、真っ白な空と、真っ白な地面が交わる、 が蹲る前に見た何の隆起も無い地平線だったはずだった。 けれど、自分のつま先のその先には、褐色の肌をした人間の裸足が見える。 は弾かれるように顔を上げた。

まず、いつから。と思った。

この行き場のわからない世界の片隅に来てから、誰の耳にも届かない呟きをこぼして、 無意に現実の自分の体が目を覚ますのを顔を伏せて、 ただ待っていたにはわかるはずもない。 ただ、白い世界で、独りきりだったのが、二人になって、は戸惑った。
もし、目の前の人物が、ただ前を通り過ぎて行くだけならば、は戸惑ったりはしなかっただろう。 けれど、この人物はの目の前に立っている。意識をこちらに傾けている。 それが、相対し、静止している様でありありとわかった。

いったい、いつから。

その戸惑いを拭うように、は自分の非現実の応用をし、口端を上げようとして、目の前の人物の奇妙な姿に、あんぐりと、まではいかないが口を開き、努力に失敗した。

「…君、」


君。
その二人称に違和感を持ちながらも、は納得する。 目の前の人物は、この世界にすむキャラクター達とは違い、とても人間らしい姿をしていた。 長い二本の足、腕、そして高い背。衲衣のようなものが腰に巻かれ、後光を象ったような円が背中にあり、 まるで仏教の神様のような印象を受けた。 けれど、その顔には、頬を割いて笑う、恐ろしく鋭い歯が覗いているような仮面が嵌められており、 ただの神聖な存在ではないだろうと確信が持てた。そして、には、その表情に見覚えがある。

「昨日の?」

正確には、昨日の夜から、今朝の明け方まで。
の手を引き、飛び回り、落書きをしてを笑わせた少年の笑みに、それはそっくり印象が被った。 そして、何より、この世界でに意識を向ける存在としても。
けれど、彼は、昨日の少年とは違う。見た目もそうだが、彼には、少年とは違い、とても力を感じさせる何かがあった。

いったいこれは誰?

は、無言を貫く目の前の男の影に包まれるのがなんだか恐ろしくて、膝を抱えていた腕を、自分の体の後ろに付き、 じりじりと後退しようと思った。だが、 が膝から手を解くと、その仕種に何かを受け取ったらしい男が、自らの腕を伸ばす。 それがゆっくりと目の前に差し出された。 武骨な掌が柔らかく広げられ、はその意図を悟り、後退するのを止めた。 確認するように男の顔を見上げ、鋭利な牙が合わさった意匠の仮面の奥底の瞳を見詰めてみる。 男は無言のまま掌をさらにに差し伸べた。

待っている。

自分に差し出された目の前の掌に惑いながら、は何か尋ねてみようと思って、何を訊けばいいのかわからなかった。 そして、再び考えを巡らせてみて、はその馬鹿馬鹿しさを、今にしてやっと悟る。いや、本当はずっと知っていたし、 今の今まで、必死に見ないふりをしていただけなのだろう。

これは、夢だ。

ただの、どこにも行けない、何でもない、例え、人間が現実で焦がれる、唯一本当の自由だとしても、

単なる夢だ。


それを自覚すると恐怖も楽しさも、全てが空気が抜けた風船のように萎んでいった。 そして、空虚を真に受け迷っていた指先を、褐色の中に落とし、は自分を立たせようとしている男の意図を見守ることにした。 の掌を掴んだその男は、をゆっくりと立たせると、軽く屈み、の膝の裏と肩を支え、を持ち上げる。
いったい何処に―――夢という無に呑まれながらも、一通りに、が尋ねると、彼は、ぐいと首を上げ、顔を空に向け、地面を蹴った。



真夏の夜の夢



時間は少し、遡る。

陣内家のある一室では、危機を脱出し奇妙なアバターを振り切った少年たちが、 安堵と恐怖と悔しさをひっくるめ、息を吐いていた。 そのうちの一人である健二は、やっと部屋から追い出せた真吾と祐平が後ろの扉の外で喚くのを聞きながら、 電話の子機を片手に、危機を抜け出せた安心を噛みしめつつも、これは一時しのぎでしかない、と、 未だ引かない冷や汗に鳥肌を立てていた。健二の前に座っている佳主馬にいたっては、 危機を抜け出したという意識もなく、自分が敗北したという逃げようもない結果でしかなかった。

***

健二が混乱を極めた後、東京から、友達であり夏希との旅行を賭けてジャンケンで負かした相手でもある佐久間からの連絡がきた。 事情を説明すれば佳主馬が健二に感じた印象を頷かせるような返答があり、 すぐさま佐久間は納得し、アカウントを奪われた健二に協力することになった。

その後、佐久間が陣内家の家電で取得したゲストアバターで、健二は事実を確かめるためにOZの世界へとむかい、 ニュースで放映されているままのぐちゃぐちゃになった世界を直接確認した。 その世界を見て、健二は、胃に氷を詰め込まれたような気がした。

このありさまを作りだしたのは世界中から自分だと思われているのだ。 そして、情景を確認しながら、進んでいくと、たくさんのアバターが集まっている場所にたどり着く。 そこで、健二は、かつての自分の背中を見た。


―― あれは、僕のアバターだ。


その光景に怯みながら、今の自分である、妙に間抜けで可愛らしい黄色いリスの姿で “犯人”に向かって健二は抗議の声を上げた。

「あ、あのすいません…僕のアバターで、悪戯するのは、やめて、ください…」

尻すぼみになってしまった声を嗤うかのように、シシシッと自分に扮した“犯人”は笑った。 健二は汗をかき、今度は周りに、アレは僕じゃない、アレは誰だ?と訴えかけるも、 周りまでもが、健二をあざ笑うかのようにシシシッと笑いだした。その光景は異様だった。 まるで“犯人”の支配下にあるように群衆が、健二一人を嗤う。この世界では健二には味方が居ないのだ。

それがショックだった。健二はOZの世界がどちらかといえば好きだ。見知らぬ人が、見た目や言葉の壁にとらわれずに話ができる。 そのシステムはとても素晴らしいものに思えた。けれど、一度、明確な《敵》ができれば、匿名性も手伝って、 容赦ない罵詈と嘲笑が飛ぶ。画面の向こうに一個人がいることを忘れ、建前を失う。

「裏切りだ。」健二は唐突にそう思った。
それは一方通行なただの独りよがりな好意が裏切られたという意味なのだろうと自覚する。 けれど、それは相手も同じだ。相手が同じ人間だということを忘れ、建前を失って、 吐き出される言葉はどんなものだって独りよがりなはずだ。

だから、健二は、“犯人”と群衆に向かって必死に正論を叫ぶ。

「こんな悪戯して何が楽しいんだよ!ネットの中だからって何でもしていいと思ったら大間違いだ!」


そして、正論に詰め込めるだけ詰め込んだ健二の真情は、相手についに伝わることは無かった。

直後、健二のアバターを奪った犯人は、今度は力で屈させるようとしたのか、健二に殴りかかってきた。 この場であってならないバトルモードと呼ばれるOZの機能を使って、 かつての自分の姿に踏みつけられる健二は、なにが起きたのかわからない。 ただ、このままでは、負ける。負けてしまったら、どうなるのだろうか。と焦り、 固まる現実世界の健二は画面に釘付けになった。

もし、負けたら、なにか取り返しのつかないことになる。その予想は、健二の傍で見守っていた佳主馬も同じだった。 ノートパソコンをひっつかみ、動かない健二を退かして、佳主馬は自分のアカウントを起動させた。 そして、代わりに動きだした佳主馬のアバターは、黄色いリスの上で跳ねる犯人に、強烈な蹴りをくらわせる。

この場にあってはならないバトルモード。
それは本来OZのオンライン格闘ゲームOMCに使われるものであり、佳主馬はこのゲームの世界的チャンピオンだ。 健二はそれを知らなかったが、OZの世界を縦横無尽に駆け巡り、犯人を追いつめるキングカズマの姿に希望を見出した。 そして、ついに、犯人をはがい絞めにし、事態は好転するかに、思われた。

しかし、結果は惨敗。

世界的チャンピオンであるはずのキングカズマは、世界中の人々が見守る中、最終的には、手も足も出ずに負けたのだ。

***

「危なかった…君もアカウント盗られちゃうところだったよ」

「……。」


未だ詳しい自己紹介をしていない健二はその重要さに気付かなかった。 健二のアバターを奪い、OZを混乱に陥れた何者かは、世界チャンピオンが手を出せないほどに強く、そしてOZに精通しているのだ。 それだけではない。奪われた健二のアバターは、他のアバターを食っていた。 そして、強くなっていた。まるで生き物が進化をするように。

その機能を思うと、のびしろはまさに無限大であり、そんな力があるのに、目的が見えないところを考えると、ひたすらに、気味が悪い。

「……あれは、一体、何だったんだろう…」

「わからない」

いつのまにか扉の外は静かになっていた。 戦いのさなか健二を犯人だと思い込み、キングカズマの不敗に繋がる邪魔をしてきた真吾と祐平はどこかへ行ったらしい。 健二は、どこか追い詰められたように髪の毛を垂らし、 顔を隠したまま奇跡的に食われず無事だった自分のアバターを見つめている佳主馬を見ていた。 もし、真吾と祐平に邪魔をされなかったら、きっと佳主馬は犯人を取り押さえられただろう。それを思うと残念でたまらなかった。 けれど、チャンスを逃がし、その後、複数のアバターを食べた犯人は力を増した。

そして、危機一髪というところで、捨て身の「あ、あれなんだ!?」という自分の古風な手段によって 相手の意識を反らせ逃げることができたことは、奇跡に違い無いと健二は身を震わせた。 そして同時に、犯人が自分達を追ってこないことも奇跡だ 意識を反らせたとしても一瞬。そのあと追ってきたなら、健二達はきっと逃げられなかっただろう。


引き戸にもたれかかりながら、健二は逃げる瞬間の、一瞬あらぬ方向に気を取られていた犯人が、こちらを向き直り、 逃げる様を見ていた姿を思い出して、改めて冷や汗をかく。もちろん、自分の今のアバターすらも奪われるということもあるが、 健二の脳裏にかすめたのは、とても強い佳主馬のアバターのことだ。アイツは、アバターを食べることで力を増した。 もし、食べるアバターによって力が増すのに違いあるとしたら、佳主馬のアバターを飲み込んだ時、 それは、とても、恐ろしいことになる、そんな予感があった。

『どこかへ行ったみたいだ』

手に持っていた電話の子機から声がした。忘れていた。そういえば佐久間と電話を繋げたままだった。

「もしもし、佐久間、無事?」

『当たり前。人ごみに紛れて見させて貰ったし。アイツ、なんかどっか行ったみたいだな』

「どこかって?」

『さあ?でも、なんか急に振りかえって、急いでどこかに行っちゃったぜ?』

「…そう」


ふとした沈黙が流れた。
傍にいるのも恐ろしいが、姿が見えないのも恐ろしい。


『…ちょっと、俺、暫くアイツに関して情報がないか探ってみるよ。何かわかったらそっちに連絡する。』

「うん、ありがとう佐久間。いろいろと。頼む。」

『了解!』


ブツン、と電話は一旦そこで切られた。




姿を現したOZの混乱の真の元凶。 なぜか直ぐに姿をくらませたことで、食われなかった複数の目撃者達は、その姿の情報を広め始めた。




あれは一体何だ?彼らは早急に模索を開始する。



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あとがき




ラブマシーンが健二を嘲笑ったようなシーンで、一緒に周りでシシシッって笑ってたのは、もう食べられちゃった人達のアバターなんだと思います。 けれど、なんとなく「こんな悪戯して何が楽しいんだよ!」と叫んだ健二は、現実にあるネットで被害にあった被害者の代弁のような気がしたので、こんな解釈に。 不特定多数 対 自分、というのは怖いものです、と、入れたかったが為に文が増えました。おぅ。 あ、でも、OZの場合、もっと個人は特定されてる感じのネットなのかもしれない。行政機関も繋がってるし。うーん。