夢とは、体が寝ている状態で、脳が覚醒している時に見るとされていた。 なぜ夢を見るのかは、情報を整理するためだとか、忘れるための準備だとか、様々な憶測があるにしろ、 今の科学では解明されていないという。

楽しい夢をみる。

その状態をレム睡眠といい、いわば、浅い眠りと呼ばれるものだ。 そして、近年解明されたことによると、レム睡眠だけでなく、 深い眠りであるはずのノンレム睡眠時にも人は夢をみるのだという。

その夢は、過去の自分を顧みるような、“悪夢”であることが多いらしい。


真夏の夜の夢


目を焼くように光る白があった。


透明な酸素マスクを白く染める吐息は、その人間が生きている証明だ。 あまりにも弱く息をするため、布団を押し上げてこない薄い胸のかわりに、安堵を連れてくる唯一のものだ。 それを食い入るように見つめている。

自分は、おそらく、この白い部屋の中で、何時間も座っていた。首と節々が痛む。 けれど、透明なその輪郭を克明にしてくれる一瞬の白を見逃すまいと、瞬きさえも、するのには時間が惜しかった。 耳鳴りなのか現実なのか、ざくざくと空間を削るような秒針の音が鳴り続けている。 白い花が咲き、消え、また咲く。これが続く証明はない。いつ絶えるかわからない。だから、目を離すことはできなかった。

もし、その時がきたら?
その瞬間に自分は体を動かすことができるだろうか。それが心配だった。

目を伏せ、一瞬の瞬き。

暗闇のなかで枯葉が踏まれる音を聞く。

そして、慌てて瞼を開くと、彼女が目を薄く開けていた。
その眼はじっと自分を見ている。そして、細め、口を動かす。

「おかえりなさい」

…息苦しい。


***


2010年、7月30日、昼前。




陣内侘助が目を覚ましてからまずしたことは、障子を貫き自分の皮膚を焼く日光から避難することと、 纏わりつくような湿気を拭おうと努力することだった。身を起してみて、軋むあちこちに顔を顰めた。 ずいぶんと寝たみたいだった。薄く開いた障子から覗き見た空の陽は高く、青は濃い。昼が近く思える。

侘助は自分の携帯見て、時間を確認してみた。
すると、まさしくその通りだった。ずいぶんと寝た。こんなに寝たのは久しぶりだった。 一体、何年ぶりか、そう思ってから、前回ぐっすりと寝た時からの年数よりも、 侘助自身がこの家を出て行って、帰ってきた年数のほうが正しいと思い直した。

なんだかんだといって規律正しい陣内家を出て行ってから、侘助は研究に没頭し、ぐっすりと寝るという習慣を忘れた。 だいたい、昼も夜もなく、良いアイデアが浮かぶとブレーキの利かなくなる侘助は 生活のリズムというものがなく、気づけば限界に到達していて、ところ構わず昏睡しながら眠るような日々を過ごした。 だから、自発的に、眠るということを目的にした睡眠は久しぶりであり、 この家に辿りつくまでの坂が原因だろう筋肉痛に、時間の長さというものを改めて感じた。

10年。

十分に睡眠を摂ったにしては、まだまだ底知れぬほど眠れる気がした。 たった一晩の睡眠でどうなるようなものではない疲労が恐ろしく体に溜まっているのだろう。 若い頃にあった我武者羅な体力はもう無い。そして、侘助は、このダルさがそれだけでないことを知っていた。

―――おかえりなさい。

首をまわせば弾ける関節の音が響く。 それを聞くように閉じた瞼の奥で、酷く慣れてしまった、傍を離れない悪夢がちらついた。 それは昨晩見た夢であり、侘助の現実、あるいは過去そのものの象徴だ。 そして、侘助は、それを十二分に自覚していて、いっそう、理解するように、繰り返し思い起す。

自分の皮膚に張り付く寝巻をひっぱり、空気を入れ変えては、あまり変わり映えのしない生ぬるさに辟易としながら、 改めて、昨晩の夢を探り、最後に「おかえりなさい」とソレが笑ったところを思い描いて、憎々しい笑みを浮かべ 「言ってろ」と吐き捨てた。あの光景を現実で2回も見たことがある。それも、よりにもよって、人物は同じ人物だ。 だが、あのセリフは脳内がかってに作り上げたフィクションだ。 本当のあの場ではは「おかえりなさい」など言わなかった。昨晩の会話が脳の中で混ざっただけだ。

侘助は悪夢が憎らしい。

自分の過ちを繰り返し、繰り返し、見せては、自分を抱え込み、何かを促す息苦しい悪夢。 それが自分を迎えて喜ぶ。それは酷く憎らしい。 だが、侘助には、あの悪夢が終わってしまうほうが怖い。そして、そんな自分に吐き気がする。

あれは、

たまらなく欲しかった繋がりがよじれ、そして確かに繋がっているという証明に他ならないだろう。




「くそったれ」





***




10年前。


好機が訪れていた。


今から数年前、うだつの上がらない日々を変えたのは一通のメールだった。 侘助のセキュアプログラミングの技術を知ったアメリカの研究機関からの誘い。 そのメールは、侘助の根本にある願いを叶えるには十分な可能性があると思えた。 だから、侘助はすぐに研究の場をアメリカへと移らせた。

それというのも、侘助を鬱屈させていたものは、自分の研究を形にするだけの資金が手元に無いことだったからだ。 日本の技術は高いとはいえ、国からの支援が少ない。侘助はそれに対して強い不満を持っていた。 いくら技術を持とうともそれを実現させるには金がいる。 金がなければいくら素晴らしい考えであろうと、机上の空論に過ぎないと、一蹴りされてしまう。それが気に入らない。 ならばと、羽振りが良さそうな企業にスポンサーになってくれないかと掛け合ってみても、 あまりに奇抜であったり、内容を理解できないほど難解であるとこちらも協力はしてくれない。

金が無い。

ただそれだけで、自分の頭のなかあるアイディアそのものが否定されてしまったように思えて、侘助はそれが悔しい。

だから、アメリカからの誘いはまさに青天の霹靂だった。 誘い文句は自分のセキュアプログラムの技術に関することだったが、 もし、あちらの国で自分の“もう一つの研究”について認められることがあれば、国からたらふく援助を貰えるかもしれない。 そうなれば、あとは機材と人材を揃え、プログラムを頭から取り出し、走らせる。そうすれば、世界をひっくり返せる。 世界をひっくり返せたなら、自分の名前は世界中に発信され、見て見ぬ振りは不可能になるはずだ。

例えば、自分の研究を机上の空論だと一蹴りしたこの国も、

理解できなかった馬鹿な企業も、

妾の子だと言っていた家族達も、自分を認めざる負えない。 そして、後悔するのだ。
あの時の行動は誤りだったと、自分を否定した連中が過去を必死に清算する様を思い描いてみて、 馴染んで癖になった笑みを浮かべ渡米した侘助は、その未来を叶えるべくして奮闘した。

だが、世界中の人々の誰もが記憶する天才というものがとても稀有なように、世界とはとても大きく、人は大量だった。 研究機関にやってきた侘助に求められたものは、セキュアプログラムの研究の分野についてだけだった。

「君をここに呼んだのは、君のセキュアプログラミングの万能さを見込んだからだ。そんな夢のような研究を支援するためじゃない」

切り捨てろと、そのときの上司は侘助に言った。 それに対して反抗するだけの術を侘助は持ってはいなかった。 振り分けられるプログラムを追っていく生活が続いた。矢のように過ぎていく日々が疎ましかった。 だが、その研究と並行して、切り捨てろと言われた研究も辛抱強く侘助は続けた。 そして、研究は煮詰められ、あとは機材と人材さえあれば叶うだろうという段階まで進み、


そこで二回目の好機が訪れた。



***



2000年、某日。

陣内家にて、万里子の驚愕の声が玄関に響いていた。

「あんた、侘助!? やっと帰ってきて!帰ってくる時ぐらい連絡したらどうなの!」

事前に連絡も入れず、不意をつくように侘助が陣内家に顔を出すと、家のなかは数年前とまったくといって変わっていなかった。 「お正月にも夏にも帰ってこないでいったいどこに行ってたの」と 玄関を上がった自分に付いてきながら小言を吹っ掛ける万里子に向かって、侘助は振り向きもせず手だけ振って、 大学に入学したときから、ほとんど変わらないこの家に自分の野心の発端を確認し、 それを鼻で笑うと、自分の目的の場所へと向かった。

だが、その途中で、万里子に呼ばれてやってきた栄が、侘助の前に立ちふさがる。

「侘助」


もう80前だというのに、シャンと背筋を伸ばして、こちらを睨みつける栄とその後ろに控えている万里子を見て、 侘助は一層笑みを深くした。その口から、いつもの挨拶が出る。

「よぉ、まだ生きてたか」

「お陰様でね。」

侘助の台詞で後ろの万里子の眉がきりりと上がり、栄の返しで、戸惑ったように八の字になって栄の背中を窺うのが見えた。 万里子は厳しいが、それでも栄には叶わない。どんなに時間が経とうとも万里子は栄の娘だからだ。 そして、その二人の様子を面白げに眺めた侘助は、栄の問いに、少し、声を低く答えた。

「それで、今日は何の用事だい」

「別に、御心配には及ばないさ。…を、迎えに来ただけだ。」


何週間か前、研究所のなかで、侘助が偶然出会ったのはの父親だった。
アメリカでプログラマーをしているの父親は、新しく企画されているネット上のシステムについて多忙を極め、 優秀な人材を求めに研究所に訪れていた。最初、声をかけられた時、侘助は、まず頭を下げた。が発作を起こした日のことだ。だが、の父親は侘助を責めなかった。 「君にを害しようという気があったのなら、僕は君を許せなかっただろうけどね」と 肩を竦めて笑い、「遅くなったけど、アメリカにようこそ」と侘助の肩を叩く。

そして、あろうことか、侘助に、自分の開発チームに入らないか、と誘いを持ちかけてきた。 その切り替えの速さには驚いたが、すぐさま断った。今の研究をやめて開発のほうへと回るには準備がかかり、 ただでさえ“もう一つの研究”への時間が惜しいというのに、余計に時間を食ってしまう。 しかし、そのすばやい判断に、今度はの方が驚いた。

「…結構未来が望めそうな企画だと自負してるんだけど…その、理由を訊いてもいいかい?」

そこで、侘助は、自分が研究している“人工知能”のプログラムについて話すことにした。殆ど、藁をも掴む思いだった。 そして、思いがけず賛同を受け、「だったら、この企画が成功したら、その利益で、君の研究に投資しよう。 だから、うちの開発を手伝ってくれないか?」という、強引な誘いを再び受けた。これも気の長い話だ。 けれど、初めて希望が見え、侘助は、正直頷いてしまおうと思った。 だが、順調に手を広げ続ける目の前の男に対して、侘助の脳裏に掠めたのは、置き去りになっている男の子供のことだった。

さん」

「うん?」

は、ここに呼ばれないんですか?」

の表情が、うら悲しいものに変わり、どちらかといえば溌溂として若く見えた姿が、 年相応の、侘助よりも年上な男性のものへと変わる。 けして、父親にとって、その子供のことがどうでもいいなんてことはないのだろう。

「……うん。そうだ。 なにせ、ここは都会のど真ん中だしね。あの子には毒ガスの中みたいなものだ。
それに、こんな親といるよりも馴染んでいる場所のほうが、きっと良いに決まってる」


それでも、と侘助は思う。

家族っていうのは、陣内家のように、久しぶりであっても隣に他人がいるのをすぐに当たり前みたいに親しくするのがそうだろうと 侘助は思うから、余計にそう思った。なぜ、この親子は病気のこともあるだろうが、離れて暮らし、 の父親は、どこかを恐れているようなのか。 そして、その態度に対して憤りを感じずにいられない。その罪悪感を持った目に侘助は覚えがあった。
これは、侘助を妾の子にした父親の目だ。


「あの子は、僕たちのことを許してくれないだろうけれど」

「…それでも、ここなら日本よりも良い治療を受けられる」


海外で治験を済ませた薬でも、日本国内で使用する場合、国内の治験を済ませなければならない。 そのため時間がかかり、最新の薬を使用できないため、今、国内で使われている薬は、 世界のなかではとても古い薬だということがある。それでは治るものも治らないのではないか? それも踏まえ、侘助は、手元の資料を机に置き、「そして、」と、とある項目を指し示した。

が持ってきた【世界を繋ぐ】という企画の資料のなかには、 病気の治療を受けている患者の体調を、医者が離れたところでモニターできるという項目を含んでいた。

「これは、のためでしょう」


それに対して、仕方なさそうに寂しげに笑ったに、侘助は言った。


「餓鬼は親といるべきだ」


その時は、それがとても正しいことに侘助には思えた。 そして、の話を受けることにして、研究施設を出て、を迎えにいくために侘助は日本にやってきていた。





小説TOP/



あとがき




主人公と侘助の過去についての最後の章の前編。次も侘助さん視点で後編、それで過去のことについては終わり…だといいなぁ。 注意すべきはアメリカからの誘いやら研究施設でのことやら皆全部妄想の捏造っていうことです。 一応今後の展開にも関係してるので、外せないけれど。設定資料とか、読むのが怖いです。まったくの別物と思ってください。 あと、敬語の侘助がとても違和感。主人公のお父さんは何者とか、主人公がお留守とか、伏線爆発しそうとかいろいろありますが、次に続きます。