ソレは彼岸でのヒトリ言だった。

随分と薄く、溶けるようにして、景色に消える姿を眺めながら、ソレは、 チカチカと自分の頭のなかで走る電気信号を確認していた。


ミツケタノニ―――――ワラッタノニ――――――


――――――ドコカ、カエル?―――――ソウ――


ヒテイ?――――――――――ナクナッテシマウ?――――





―――――――オモイダス。――――――――――




ついにかき消えた姿を追いかけるように、ポトリと何かが白い地面へと落ちて、ぽっきりと割れる。
その落ちて行ったものは、光の粒子となって空気へと解けていった。


そして、ソレは思いだした。


混乱


対抗者


吸収


――――――イラナイ―――イル―――――――



動き出したプログラムのなかで、選別が始まる。



――――混乱―――――カンリョウ



――――対抗者―――――キタ



自分を囲むように集まり始める世界の目を確認し、ソレは行動を選択する。



――――吸収スル



――――――――――イナクナル 



―――――――ヒトリ?







サミシイ?





――――――イラナイ―――イル―――――――?








――――― シリタイ。









真夏の夜の夢





2010年、7月30日。早朝。


「おはようございます」

朝もやが、朝日に照らされて姿を消していく頃、は、やっと温まってきた体で、
水を飲みに台所へと向かい、その帰りの途中の縁側で、朝顔の手入れをしている栄と出くわした。 栄は、手元で朝顔の枯れた葉を切り落とし、新たに伸びた蔓を、支えにしている竹ヒゴに巻きつけてやっている。 それから一回、目線を上げ、に、年齢を感じさせないほど張った確かな声で「おはよう」と言う。 そして、そのまま作業を再開させた栄を確認してからは自室に帰ろうと、足を踏み出すと、視線を下に下げたままの栄が訊いた。


「侘助は、」

「…はい」

予想もしていないというのに、「ああ、きた」と、は何故か思った。


「昨日の夜、お前のところに行ったのかい?」

「はい」

「そう」

その鉢の全ての枯れた葉を整え終わると、栄は身を起こし、少しの間、小さい伸びをする。 その仕草にはいささか栄の年齢を感じさせた。しっかりした立派な人だと言えど、もうすぐ90歳を迎える。 は目を少し伏せ、栄の次の言葉を待つ。

「それで、お前は侘助のことを恨んでいるのかい?」

「いいえ」

2歳の頃、暗い道の途中で、一人、喘息の発作を起こし、死にかかったことは、 20代も半ばとなったにとって、他人の記憶と同じだ。その頃の心情なんて、なにも覚えていない。 その後、暗所恐怖症などのパニック障害を患ったらしいことは、僅かに、覚えているが、 そこに直接結びついているものは、侘助ではなくて、何もない暗闇と虚無であって、治った今となったら、それすら無い。 家を飛び出した侘助に、なぜ自分がついて行ったのかも、今になってはまったくわからない。

23年も前、しかも、死にかかったらしい本人がそんな認識しかしていないことを、 悪くもないだろう周りの人々がずっと心に留め、
責任を感じていることのほうが、には億劫に感じるものだった。 そして、今自分が患っている意識が急に遠のく病のきっかけになった、10年前のことも同じ。 にとって、侘助は、なんの恨みの対象でもなかった。

「本当に?」

「はい」

慣れたように頷いて、は、瞳の膜を超えて、頭を直接覗きこまれるような視線を真向から受けた。 なおざりな返答であったが嘘じゃない。 なおざりになってしまったのも、この問答がにとったら慣れっこであったせいだ。 こういう風に問われることは過去に何回もあり、 問いかけるのは、いつだって、


理香であったり、

理一であったり、

万里子であったり、

はたまた万助であったり、


決まって、陣内家の家族達だった。


その時に心に留めた表情達を思い出しながら、は同時に思う。


家族というのは複雑だ。


普段は、財産を持って、遠くに勝手に行った、自分の血筋の妾の子だと、侘助を鼻つまみもののような扱いをするのに、 に「侘助を恨んでいるか?」と問うその時、それぞれ、自分が代わりに謝るから許してやってくれないか、という顔をしているのだから。



「そう。…なら、だ、」

「はい」


そうやって、家族というものを客観視しながら、は、栄の真意が今までの陣内家の人々とは違うところにあるのだとやっと気づいた。 陣内栄の視線はいつだって、会話をする人自身に向いているのだ。

「―――お前は、今、寂しくはないのかい?」

栄は、背を伸ばし、こちらを見据えて言う。 ふいを突かれたように、は目を見開く。

――――寂しい?

「もう、ずっとこの家にいるだろう。お父さんやお母さんに会いに行きたいとは、思わないのかい」

“お父さん”“お母さん”という言葉には違和感を持った。
それもそうだ。は、もう、ずっと、その人をそのように呼んでいない。 それを考えながら、答えを舌に乗せ始めると、妙な気分に陥り、それを無理やり飲み込むようには答えた。



「…すいません。できればまだここに居させてください。  陣内家の皆さまには、申し訳ないんですが、」


「そうじゃないよ」


強く、栄は言った。


「アンタが、お父さんとお母さんに会いたいかどうかっていう問題さ。
 ここが良いなら、ずっと此処にいてもいいさ。けどね、寂しくはないのかい?」


は口ごもる。寂しい。とは、一体どういうことなのか。言おうと思えば、此処には、栄を始めとして、万里子も理一も理香もいる。 けれど、言おうと思えば、とは、なんなのだろうか。言おうと思わなければ、誰が居るんだろうか。 手さぐりに隣の柱を掴んで、は、尋ねられているのは自分のくせに首を傾げそうになるのを堪えた。 もともと、2歳から陣内家に預けられているには、両親という存在の思い出がほんのわずかしか無い。 それも、記憶していることは、いつだって、両親が仕事でやっぱり帰れない、という謝罪の電話が殆どだ。 しかし、それに憤った事は無い。なぜなら、両親は本気で謝ってくれたし、両親と居れない理由は自分の体にあったからだ。

自分が健康だったら、両親が働くアメリカに一緒に行けたかもしれないと、当時幼かったは思わないでもなかった。 けれど、それ以上に、両親に迷惑をかけるのが嫌で、我儘は言わなかった。 そして、だんだんと、大人になるにつれ、この生活が当たり前になっていったのだ。

そんなにとって、陣内家の方々は皆親切だったし、好きな人たちだ。だから、さみしいなんてことはない。 もし、今、両親とゆっくり過ごすことが叶ったとしても、一体何を、どう話しをすればいいのかすらわからない。 そんな人物と会えなくてさみしい? ――そんなことは無いだろう。

しかし、その考えを肯定し、すぐさま、栄の言葉を否定出来ない理由をは見つけられずに、パクパクと無音の息を切らせた。 罪悪感のような何かが阻害している。正体は一向に掴めそうにない。

しかし、これはとても苦しいものだ。

「……」
その様子を見ていた栄は、ふぅと息を吐くと、その後、目線をそらし、隣の朝顔の鉢へとハサミを差し入れ始めてくれる。

「…起きぬけに話す話じゃなかったね。」

「…いえ」

「さっきも言ったように、が此処がいいんだったら、いくらでも此処に居てもいい。
 けどね、別に居なきゃいけないってわけじゃないってことさ。

 体のことは労わんなきゃならないだろう。けど、人間は、籠の中の鳥じゃない。
 が望めば、はどこにでもいけるってことだ。」

「……でも、」
 

「アンタならできるよ。なにせ、ちっちゃい足で侘助について行こうとした頑固者なんだからね。」


「……。」

なんて答えればいいのか、は2歳の子供が自分のどこにいるのか探してみても見つからなくて、困惑気味に栄を見やると、
栄は、フフっと笑ってみせた。

「覚えは無くとも、さ。」


***


自室とは違う、つるつるとした白い床が視界に入る。


気がつけば、は再びいつも見る慣れ親しんだ夢の世界へと来ていた。 この世界に来る直前の記憶を呼び覚ましてみると、たしか、栄のところから自分の自室に帰り、暫くたったところだったと、 思い出して、安心した。

よかった。

部屋で意識を失ったなら、誰も驚かせずに、事を荒立たせないですむかもしれない。 いつものことなら、ただ急に眠りに落ちるだけだ。どこかに体をぶつけていなければ、大丈夫。わざわざ心配を掛けるまでもない。
そう思って、この場所はいったいどこなのかと、十年来で作り上げたいつもの夢のなかでの脳内地図を思い浮かべながら、 は、あたりを見回してみると、どうやら、予想に反して、この場所は、自分にとって、初めての場所らしかった。 それも、白い大きな動物の顔や翼を模した塔から離れた場所らしく、いろいろな場所への目印になる見慣れたあの塔が見当たらない。 しかし、昔から、この世界は、風船でできたブドウの房のように膨らみ、実を増やしてきていたことは知っていたので、 特に、はあわてなかった。

その場に立ち尽くしてみていれば、ずいぶんと此処は寂しいところらしく、 この世界に溢れていた個性豊かなキャラクター達の姿もここでは見受けられない。

は、その場に座り、顔を膝に押し付けた。 ふいに投石を胸の内にほおり投げられていたにとって、その静かな場所は丁度良い。


“どこでも行ける”


は思い浮かべてみる。
それはまるで、


「此処のことみたい」


そう、一言呟いてみれば、その声は、反響も、反応も無く、世界に吸い込まれるように消える。 それを悲しいとは思わない。もともと、ふいにでた言葉でしかなかったからだ。
そして、は、どこでも行ける世界で、じっとする。 じっとして、動かず、目が覚めるのを待つ。


なぜなら、自身、自分がどこに居たいのか、彼女には一向にわからないからだ。




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