夢を見る眠りというものは、浅い眠りだという。
なら、私の睡眠というものは、10年前から、絶えず浅いということだ。

は思う。だから、私の体は、現実ではあんなにも重いのだ。
目を瞑ると彼岸とも此岸ともいえない滲んだ場所から、ふいに明るい場所へと辿り着き、そこから長い夢が始まる。 両翼を広げた白い塔は、ひょうきんな動物の顔を模した建物から生え、その周りを様々なものが囲みぐるぐると回る。 その間間を様々な人、人というよりキャラクターだろうか、それが思い思いの生活をしている。 そんな夢のなかで、現実ではあんなに重たい体を軽々と操り、飛んだり跳ねたり、自由に行きたいところに行ける。

それは、とても楽しい夢で、の現実だった。



真夏の夜の夢



その日、いつもと同じ夢のなか、
は塔の翼の上に腰を掛け、その世界を見つめて今日はどこに行ってみようかと思案していた。 本当の体は今頃、布団のなかで寝息を立てているだろうか。
それはいい。そのまま眠って少しでも体を丈夫にしてほしいと、はいつも思う。 けれど、体の健康を祈っているのに、夢の見ない、深い眠りへは落ちることまでは望まなかった。 彼女が体を自由にできるのはこの夢のなかだけなのだ。

そうして、暫く思案した後、今日は、あのテニスの試合でも見て行こうかなとは夢のなかで腰を上げた。
あくまで、見にいこう。

は自分で参加してみる気にはなれない。途中で体調を崩して人に迷惑を掛けるのは嫌だし、怖いのだ。 歩いている途中、道で突然、倒れてしまうことは、諦めもつくけれど、 自分で参加しておいて他人に迷惑を掛けて倒れるのはどうしてもしたくない。 ほんのわずかな差異でも、自分の我がままのせいで他人に迷惑がかかる。それだけは絶対にには嫌だった。
けれど、少し考えてみれば、ここは夢のなかなのだろうし、そこまで悩む必要もないだろうが。は、それに苦笑いしてみせる。 二十年余り病弱な人間としていた質は夢のなかでも変われないようだった。


夢のなかでは、いろいろなことが自由だった。現実の体ではいけない場所へ軽々と行ける。 病弱な体は、夢のなかでは健康そのもののようで、喘息も立ちくらみも起こらない。 そればかりか、この夢を初めて見た15歳のころより、夢の中の姿はずっと15のままだった。 実年齢との差異は気になるものの、この小娘ともいえる年月の姿だと、 例え、なにか世間知らずなことをしたとしても許されるような気がして、 は、他人と絡まない出来事ならば、進んでいろんなことを夢のなかでやってみる。

今日は、いったい、どんなことがあるだろうか。

は、塔の上から白い空間のなかでふわふわと浮いているテニスコートへと乗り移ろうと目星をつけて、腰を屈めてジャンプする。< 現実ではありえない飛躍と降下。それはいつもと同じように気持ちいいくらいの勢いでもって飛んでいく―――はずだった。

押し殺されてしまったジャンプに、は怪訝に思い、後ろを振り返ると、小さな少年が服の裾を握っていて、を引きとめている。 息を詰めた。実は、こんなこと初めてだった。 この空間では自由だったが、前記の恐れから、あまりここで暮らす人々と接触したことがなかったし、 ここで暮らす人々も自ら接触してくことはあまりなかった。そして、触れてくることも。

改めて、は、まじまじと少年をみる。少年は頭に大きな丸い耳を付け、緑と白の幅の広いボーダーのTシャツを着ていた。 裾を掴む手と、見上げる動作が、なんだか幼くて、ふっと気が緩む。

「こんにちわ。何?」

「……」

「何か用かな?」

少年はのTシャツの裾を深く握りしめて、ただ無言で見上げてくる。 意図が分からず、左右を見渡しても、見える人々は買い物やスポーツや会話に忙しそうにしていた。 そもそも、こんな白い塔の上にくる人々は二人のほかおらず、ますます、少年の意図は分からなくなった。

「…私は…。君は?」


この世界で、が名前を名乗ったのは、この時が初めてだった。

円らな少年の目がこちらを見て、意外と多種多様な言語があるらしいこの夢の世界で、 自分の言葉は通じるかな?という不安をよそに、シシシッと息を洩らすように少年は笑った。 その表情は、ギザギザとした歯が剥きだしで、お世辞にも可愛いとは思えない笑い方だったが、 なんだか、あまりにも楽しそうで…

「うん、よろしくね」

思わず、その手を取って笑ってしまった。


***


決まったことのように朝はやってくる。


日差しによって透けた瞼の赤を感じながら、 意図して口を開き、空気を入れれば、舌が嫌な味に包まれて脳が痺れる。 ヒューと喉が鳴り、上顎を擦っていく空気の流れに億劫な意識が伸びあがってきた。 指の先からポキリポキリと解していくと、まるで死後硬直でもしたあとのように体が軋む。 痛みが走って、もうこのまま寝ていたいと思いながらも、体を起こす。

すべては、朝だからだ。

それでも、いつもの残酷な朝とは違って、は笑っていた。 思い出し笑いだ。さっき見ていた真新しい夢の。
の腕を掴んだ妙に笑顔の怖い少年は、あの後、の腕を引っ張ると、塔を回るように飛び始め、 塔に子供らしい悪戯書きをし始めた。白く統率のとられたデザインに、本当に幼い子が書くような落書き。
最初、唖然としてそれを見ていたを窺うように、少年は、首を傾げ、が茫然としたままだと知るや否や、 建物の小さな顔に、鼻の穴から飛び出た鼻毛の悪戯描きを描き始め、またこちらを振り返り、どう?と首を傾げた。
は、少年が自分を笑わせようとしているのだと気づいて、それが嬉しくて、少年が幼くて、思わず笑ってしまった。 すると、少年は再びシシシッと息を洩らすような独特な笑い声を上げて、飛びまわりながら落書きを繰り返す。 どんどんと、増えていくらくがき。夢の世界の住民たちは慌てふためいていたようだが、その姿から、どこか戯曲的で滑稽だった。 住民をあざ笑うかのように、統率のとれた世界を順調に塗り替える少年が、振り返って、どう?とに首を傾げる。

大人ならば、それは叱らないといけないのだろうけど。

「夢のなかだもの、いいよね」

そういえば、夢の中の私は、まだ大人ではないのだった。
は、そう言い訳をして、例え、現実の世界だったとしても、少年の気持ちが嬉しくて、 思わず許してしまうかもしれないと思いながら、喘息が出る前に笑いを引っ込める。

寝起きというのは、体が弱っていけなかった。 万里子さんは、目が覚めても体が落ち着くまでは寝っ転がってなさいとはいうものの。 そのままでいたら、あの愛しい世界へ何度だって行ってしまうだろうから、は多少無理をしてでも起きるようにしていた。
布団を畳みながら、愛しい世界を思っていると、目覚める少し前、彼岸と此岸がまじりあう一歩手前のことを思い出す。


は急に不安になった。




少年は、がさよならと手を振ったとき、手に持っていたクレヨンを地面へと落としていなかっただろうか?


「……。」


障子を開けて、縁側に置かれた朝露に濡れる朝顔の花弁を撫で、露を落としてやる。 今はまだ白い空が、いずれ濃い青を連れてくることを予想しながら、自分にとっての非現実を思う。 昨日の夜。もうこの家には帰ってこないかもしれないと思っていた人が、ふいに帰ってきた。 彼には悪いが、彼も夢のなかの少年も、何かの前触れなような気がして、は静かに目を閉じてみる。





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