23年前。
そのことを聞いたのは、侘助の頭が冷えて、ばつが悪そうに家の門あたりをうろうろとしていた時、
次の日の昼の12時を回った辺りだったかもしれない。
どうしても我慢ならず、理一を殴って家を出ていって、歩いて町の駅まで行き、そこで一夜を過ごした。
翌日、家に帰ることができずに正午まで町でうろうろしたものの、行き場なんて限られているもので、
その後、自然と足は自宅のほうへとむいた。
そして、やっと辿り着いてしまった家の玄関の前で、侘助は、理一に殴られた。
怒られるだろうとは、覚悟していたが、それは万里子や栄だろうと思っていたばかりに、
侘助は、抵抗もできず、茫然と地面に尻もちをついた。仰ぎ見た理一の顔色が真っ青なのに、わけのわからない不安を抱く。
なにか、自分は、とんでもない間違いを犯したんじゃないか。
「…お前、ちゃんのこと、なんでちゃんと見てやれなかったんだ」
玄関の前で仁王立つ理一が言った。
ところどころ激情に跳ねる声が生々しかった。
理一の後ろに昼間だというのに暗い室内が覗ける。それがなんだかぽっかり口を開けているようで恐ろしかった。
「なら、家に帰っただろ?」
嫌な確信のようなものが心中に産まれたが、見ないふりをして訊いた。
歯を食いしばった理一が侘助の首元を掴み上げ、訳のわからないまま目を見開いている侘助の顔を覗き込む。
そこに、混乱と疑問と、理由をもてない焦りしかないことを確認すると、侘助の首元を離し、膝をつく。
。
「ちゃんは、お前を追って行ったんだ。」
そこまでは知っていた。そして、自分が家へと追い返した。
「違う。…いいや、きっとその後も、ちゃんは、お前を追って行ったんだ。そして、
発作を起こして、
倒れた。」
が搬送されたのは、松本の大きな病院だった。
酷い喘息の発作を起こして呼吸困難、意識不明となり、一時期では心停止にも陥ったが、必死の治療のすえ、助かった。
だが、呼吸が落ち着いた翌日12時にも、意識が戻らないことを危惧して、
倒れたを一番最初に発見し、そのまま動揺を引きずっている理一を家に居させ、万里子と栄は病院に待機していたのだ。
後から分かったことだが、が倒れた場所は、町の入り口近く。
侘助がに帰れと言ったところから大分過ぎた場所だった。
そして、の意識は、原因不明のまま、半年近く、戻らなかった。
***
挨拶といえば挨拶だろう会話をして、侘助は懐かしい自分の家へと帰ってきた。
花札のあと、付いてきた夏希に「連れてきた彼氏はいいのか?」と訊いて、居間に戻らせ、
静かな暗い廊下を歩いて行くと、家の中で唯一閉まった障子の隙間からぼんやりと光の漏れる部屋がある。
立ち止り、隙間に指を入れ、指を掛けたところで、襖を揺らさないように手を離して、後ろに下がった。
襖を開けようとして、やっぱり止め、部屋の主に気づかれないようにその場から去ろうとした一連の動作だったが、<
それは水の泡だったと侘助は知った。
「誰?」
気付かれてしまった。
想像していたよりもずっと落ちつた声に、侘助は、一度、ぐっと眉間に力を入れて、光って見える隙間を見つめた。
そして、勤めてなんでもないような声で、
「俺だよ」
と言ってみた。
「侘助さん?」
「そう」
「帰ってきたの?」
「ああ」
「おかえりなさい」
思わず、侘助は、手を離したはずの襖にもう一度手を掛けて、頭を下げた。
「入ってもいいか?」
「うん、」
ちょっと待って、と言われ、ものの30秒もしないあとに、「いいよ」と言われた。
襖に掛けた手に力を入れる。
「。」
呼べば、最後に見た10年前と変わらない穏やかな笑みがそこには居た。
の意識が戻ったときは、もう受験の日もまじかに控えていた。
自身のリハビリもあったため、侘助とはそのころ余り顔を合わせることはあまりなく、
侘助は、東大に向けて自分を追い詰めていき、そして、合格し、故郷を離れた。
今思えば、単なる逃げだったのだろうと、相応の歳を食った侘助は当時の自分を思う。
そして、やっとと向き合えるようになるまで13年かかり、30代にも掛りそうな、今から約10年前、
自分は飽くることなく、もう一つの間違いを起こし、の命を削り取った。
が、今患っている、意識を急に失ってしまう原因不明の病を引き起こしたきっかけ。
それは侘助にあった。
そのことで、また、10年の空白を開き
―――そして、今、自分は帰ってきた。陣内家へ。そしてのところへ。
「ただいま」