真夏の夜の夢




23年前。


「なんだよ」

いつものように、顔を青くしたが部屋を覗き込み、侘助のもとへと駆け寄って、すぐ近くに座った。 夕飯の途中で出てきてしまったから、微妙に腹が減っていて、 すぐ横に座ったに苛つきながら、またかよ…と侘助は髪の毛をかき回した。

変な子供だ。と、思う。

来年受験だというのに、小さい子供を預かると聞いて、侘助は密かにのことが気に食わなかった。 来る前から、小さい子供なんて、ギャーギャー煩くて、勉強の邪魔になるに違いないと決めつけ、想像するだけでも邪険にしていた。 それというのも、その時はまだ、誰にも話していなかったが、侘助は東大に行きたかったからだ。

侘助は、東大に行って、自分を認めない家族や親戚の連中に自分を認めさせてやりたかった。
だから、勉強だって死に物狂いでやっていた。けれど、それを指摘されるのは気に食わないので、隠れてやって、 いつも、自分でも憎々しいだろうと思う笑みを浮かべて回りを馬鹿にしてみたりしていた。 それなのにあと一年となって、勉強の邪魔になりそうな餓鬼を家族が預かるという。 どちらも気に食わなかった。とくにやってくるその、よその餓鬼が。

けれど、その子供は陣内家が昔仕えていた武田家の血を引く子供だと侘助は聞いて、それを迎え入れないのは、 陣内家の者でないような気がして、直接は文句を言わなかった。
それでも、子供に向ける視線は厳しかったし、そんな態度は万里子達にはただ漏れだっただろう。 そして、子供自身は侘助を嫌って当然なはずだった。 しかし、は、そんな自分をよそに、おかしいと思うくらいついてくるようになった。 東大に行きたいと言ったは、良いが、良い反応を貰えなくて自室に引っ込んだ今もそうだ。

変な子供だ。と、お腹を押さえながら青い顔をして自分にくっついている子供を改めて見て思った。
そこで、侘助は気付く。

「…お前、何やってんだ?」

「ぅぅん」


弱弱しく首を左右に振る。
大丈夫とは思えない。
そう言えば、ギャーギャーと危惧したわりに、やってきたは問いかけなければ喋らないほど、静かな子供だった。 そして、自分の痛みにも雄弁ではない。なら、近くにいる大人がしっかり見なければならないくなるか、というと、 そうでもない。子供は完璧に我慢しようとする。 時折とりこぼしたように見せる弱さで、やっと気付くが、なかなかそういう場面がない。 そういう場面に対面したとき、不器用な侘助は、心配する前に、不器用に怒った。

「…お前、まさか飯を噛まずに飲んだんじゃねぇだろうな?」

「…ん」

「この馬鹿!」

吐きそうな様子のの両脇に手を差し込んで、とりあえず厠へと向かう。 抱えなかったのは、腹を押したらその場で吐きそうだったからだ。

こういうことにも侘助には慣れた。時折の頻度はほとんど侘助の傍で、それは、それほどが侘助の傍にいることの証明だった。 青い顔が白くなり、脂汗をかいている子供の背中を擦ってやりながら、 周りの、どこにも、他人の眼が自分に向いていないことを知っている侘助はポツリと言った。

「なんで、お前は、俺の妹じゃねぇんだろうな」

家族とはなんだろう。

それを多く持たない侘助は絶えず思っている。家族とはなんだろう。 そして、自分の体が弱いせいで、家族と離れて暮らしている子供にも、 見えない繋がりを欲しがる気持ちはわかるような気がして、 どこかに目を細める青年に、気づかれないように一緒に目を凝らしてみてみるのだ。




気持ち悪そうながなんとか回復し、勉強を始めた侘助の傍でうとうとしてしていた頃、部活を終えた理一が家へと帰宅したらしい。 その後、陽が落ちてから、そろそろを寝かしつけなければいけない時間になるくらいに、理一が侘助の部屋へと顔を出した。 小さい頃からの馴染みで、声も掛けずに急にガラリと襖をあけられ、侘助が問題集を閉じながら怒鳴る。 その様子に、少し笑って、理一が言う。

「勉強?」

「そんな大層なもんじゃねぇよ」

よく、こういう奇襲を掛ける理一は知っていた。実は侘助が死に物狂いで勉強をしていて、どこかいい大学に行きたいと思っていると。 侘助のどなり声で目が覚めたらしい、のぼうっとしているらしい頭を掴み、「寝てろ」と強制的に横にさせようとしている侘助を止めながら、理一は目を細めた。

「東大、行きたいんだって?」


侘助の手がから離れ、が目を完全に開いて、こちらを見る。侘助はあの笑みで笑って見せた。

「別に?」

理一は部活から帰って、母である万里子に事を聞いたらしい。どこの大学に進みたいのかそれは個人の自由だが、 同じ場所からの投資となると、兼ね合いがある。それは侘助にもわかることだし、もっとひねくれた考えでもって考えるなら、 理一は万里子おばさんの実子。自分は栄の養子であって、実の子ではない。しかも愛人の子だ。と、苦い見かたをしてしまえば、 してしまえるのだった。

侘助は精一杯、口の端を上げてみせてやった。

その表情を下から窺うようにが見つめているのが分かった。それが、なんだか嫌だった。

笑みを流すように理一は、言う。

「いいんじゃない?侘助の成績なら行けるだろう?」

「はあ?」


の目線が侘助から理一に移った。


「馬鹿じゃねぇの?どこにそんな金があるんだよ」


今、自分の口からでた言葉が侘助には不思議だった。さきほど自分で万里子おばさんに「東大に受験したい」と言ったのに、 行けばいいと言われると、否定の言葉が飛び出た。けれど、どちらも、限りなく自分の心の真意を語る言葉に違いなかった。 そして、そのことを十分に諒解しているらしい理一が言った。



「実はさ、俺、防衛大学に行こうと思ってて」


侘助の目が意外そうに見開かれる。


防衛大学。

防衛大学とは、日本の幹部自衛官となるべき教育訓練をする施設等機関だ。 大学と呼ばれはするものの、将来、幹部自衛官となるべく訓練や勉学をする場であり、それは課業とされる。 ゆえに、入学金や授業料どころか、給料を受け取る場でもある。


「……。」


つまり、今まで万里子が貯めていた理一の分の積立は、まるまる余ることになる。
理一は、侘助に、それを使えばいいと、暗に言っているのだ。



がくん、と、 背中に通っていた空気が抜けていくような感覚に従って、首を垂らした侘助がつぶやいた。



「…いいのかよ?」


顔を伏せて、低い声を出す侘助を見上げたあと、が、どこか責めるかのような視線を理一に向けていた。 それを不思議に思い、理一が首を傾げながら言う。


「いいよ。もともと行きたいとは思ってたんだ。今回、侘助が東大に行きたいって聞いてやっと決心がついたよ。」


――――。

が思わずといったように立ちあがった。 けれど、よろけて直ぐに尻もちをつく。代わりに侘助が凄い勢いで立ちあがり、 理一の胸元をつかみ、息を吐く間も与えずに、理一を殴りつけた。


「ふざけんな!!!」


鈍い音が響いて、そのまま背後の襖に理一がぶつかる。 襖を巻き込んで、廊下へと倒れこんだ。理一は何が起こったのか分からずに、頬を腫らせながら、目を開いてきょとんとした。 息を荒くしたまま侘助は通学に使っている鞄をひっつかむ。中にはいつも必要最低限なものが入っている。 音を聞きつけてやってくる、おそらく万里子の足音から逃げるように侘助は家を出た。

玄関を開け放ち、門をくぐり、地面を蹴りつけるように進む。 一瞬で沸点に達した熱はその後もぐつぐつと沸き立っていた。



何が、決心がついただ!



そうは吐き捨ててみるものの、実際自分が何に怒っているのか、その輪郭は酷くぼんやりとしているように思った。 理由にされたのを怒ったのかもしれなかったし、金の無い家の状況に怒ったのかも知れなかったし、 勝手に理一に話した万里子おばさんの無神経さに怒ったのかもしてなかったし、 同情されたようなもの言いにだったのかもしれなかったし、 簡単に、親の心をふいにしてしまえる理一に怒ったのかもしれなかった。



枯渇してひび割れるような怒りは、余裕としておきたかった笑みを消し去って、 鞄一つで、当てもなく山の下に広がる町へと当てもなく足を進めさせた。 落ち葉を踏み、カサカサという音が響く。わんわんと頭のなかで響く怒りの怒声にまぎれて聞こえ、 それが自分だけじゃないことに気がついた。

「なんだよ」

立ち止って、睨みつけるように横目で見れば、 暗闇にまぎれてしまいそうな小さな輪郭がある。しかし、黙認してやれる余裕はその時にはなかった。

「ついてくんな!」

はけ口を求めるように口から怒声が飛び出る。 見れば、自分の後ろにいるは裸足のままだった。

「帰れ!」

紺色へと染まった木々を背景にして、心もとなく立つその子供を見て、早く帰れと願った。

「帰れ!」

そこは、侘助の居場所がない陣内家の門前へだったのか、それとも、のほんとうの両親のもとへだったのか、それは分からない。

けれど、とにかく、こんな自分のところへ来てほしくなかった。


「帰れ!!」


が足をその場で迷わせているのを確認すると、侘助は、わき目もふらず、山から町への坂道を一気に駆け始めた。 暗い闇の中を駆け抜けていく。駆け抜けて、から離れていく。家から、家族から、離れていく。


そして、


***


まるで、そのときのようだ、と侘助は思った。



2010年

侘助は、逆に今、陣内家に向けて、坂を上っていた。 時刻を携帯で確認すると、もう6時を回っていた。結構遅くなった。 バスの時間などとうに忘れて、最寄りの町からタクシーでもとるか、と思ってたものの、 なぜだか、この坂を歩いてみたくなり、此処まできたら、陽が暮れてしまった。


それにしてもほんとうに田舎だ。 日本は狭くて人がいっぱいというものなのに、ここでは人すらいない。 侘助は悪態を吐きながら、坂を上る。あの頃とは逆に。

もうすぐ8月だった。

その日に合わせてやってきたとはいえ、夜だというのに熱い。
坂を上っているのだから、しかたないが。

侘助の視界に、山の上の陣内家の光が見えてきた。


変わらない。本当に。

自分が最後にその光を見た10年前を思ってみても、その面影は変わらなく見えた。



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