が陣内家に来たのは2歳になるかならないかという本当に小さい頃だったと、
陣内家の次期当主になるだろう万里子は語る。
当時の陣内家は、万里子の子である理香と理一がそれぞれ19歳と、もうじき18になる17歳。
そして、栄の養子である侘助が同じく17の時であり、大きくなった子供達に、ほっとしていた良いタイミングではあった。
最初は、体の弱いと聞いていた通りの娘で、何かあればすぐに熱を出し、
朝や夕方には持病の喘息を起こしてヒヤリとした心持になったりしたが、
なにかと連絡を取っていたの両親からすれば都会にいたころより、これでもずっと良い体調なのだという。
それに、少しずつではあるものの、喘息も落ち着いていくような傾向を見せており、
他人の家の子を預かった身としては、
咳をしながらも田舎の景色を見ながら楽しそうにしている子供に、安堵すべきなのかもしれなかった。
本人も、小さいながらに自分の置かれた立場というものを不思議なほど理解しているようで、
手を掛けさせることなく、愛想のいい子だった。だが、曲者の子供を3人も育て上げたといってもいい万里子にとっては、
その手の掛け無さが心配になるときもあり、なにかと世話を焼き、それでいいものと思っていた。
唯一、万里子が首を傾げたのは、の懐いた相手だった。
世話を焼く万里子でなく、時々大学の寮から帰ってきて遊んでくれる理香でもなく、
優しい笑顔を浮かべている理一でもなく、しっかりと見守っている栄でもなく、
ひねくれ者の侘助にが懐いたのが、万里子にはどうにも腑に落ちなかった。
それというのも、侘助のへの扱いは良いものは言えなかったからだ。
そして、子供が大きくなったとはいえ、小さい子供とは違った苦労というものが親にはあるものだ。
ただ、その苦労というものは、肉体的なものよりも精神的な苦労であり、
その苦労は、大きくなった子供自身にも降りかかっている場合が多い。
万里子の子供である理一も、栄の養子である侘助にも、将来へ向けての進路という、大きな苦労が待ち構えている歳だった。
23年前。
「東大!?東大って東京大学のこと!?」
夕飯が始まり、皆が二、三、箸を進めた時、不意に侘助が言ったことは万里子の度肝を抜いた。
東大は大学と言えば誰もが知っている有名な大学だ。そこに侘助は来年受験したいのだという。
「でも、あそこって頭が良くなければいけないって…」
「だから、受験したいんだって」
思わず動揺すると、拗ねたようで馬鹿にしたような声が返ってくる。
それに、同じく食卓に付いていた栄の「侘助」と窘める声が響いた。
別に侘助の成績についてとやかく言おうと思ったわけではなかった。むしろ、侘助の成績は非の打ちどころもない。
考えてみれば、東大を目指すに相応しい成績なのかもしれなかった。けれど、東大。
改めてそれを視野に入れるとなると、万里子は、驚愕してしまうのだ。
目の前で、箸を片手に、茶碗を持って、目を横に反らせながら言う、青年のくせに少年のような仕草をしている男が、東大へ行く。
それは、親という立場のものなら応援すべき目標であることは分かっていた。
けれど、いの一番に、万里子の頭によぎったのは、
残酷だが、学費のことだった。
有名な学校といえば当然学費も高い。
だが、その分入学し、卒業できれば、一生分の身分証明になるのだ。けして高い買い物とは言えない。
けれど、
理一も、今年受験だ。
万里子は、一瞬、今は部活に行っている自分の息子のことも考えてしまった。
昔は富豪であっただろう陣内家も、先代の浪費によってすっからかんになってしまった。
はたして、二人分、乗り切れるだろうか。
今までは、乗り切れる自信はあった。
自分の息子が産まれてから、栄に養子が来てから、こつこつと積立していた分のお金はある。
けれど、東大と聞いてしまったら、その自信も、積み立てていた二人分のお金も霧散してしまう。
そんな想像をしながら万里子は唸った。どうしたものだろうか。
なんとかしようと、頭のなかでからっぽの財布を逆さにしてみるも、出てくるのは、埃ばかりだ。
そして、そんな頭のなかを察したらしい侘助が言う。
「…まぁ、今年は理一もいるし。無理ならいいさ」
酷く忌々しく、その少年はわらってみせる。
養子として入ったこの子供は、ひねくれ者で、察しやすい。
けれど、それを思い出した頃にはいつも、もう、こんな顔をして笑っている。
例えば、こういう時、項垂れてみせたり、泣いて喚いてみせたりするものなら、慰めようも、謝りようもあるものなのに、
このひねくれ者は、わらって見せてしまう。しかも、憎々しい笑みで。
そして、最後には、少しでも隙を見せた大人の言葉は、受け取らないと背を向けて行ってしまうのだ。
「侘助!」
呼びとめてもきかないままに、箸を置き茶碗に中途半端にご飯を残したまま、
侘助は、“ごちそうさま”と、部屋へと戻っていってしまった。
「ほっときな。まったく。しょうがないねぇ」
栄が湯呑を傾けながら言う。万里子はため息を吐き、しょうがないの部分に同意しながら、
侘助の残したご飯を片づけようと食卓に目をやった。
すると、侘助の隣に座って静かにご飯食べていたの姿も
忽然と消えていることに気づく。
こちらは、食べ終わった食器が重なり、あとは、下げるだけとなっていた。
どこにいったのか、きょろきょろと探すと、
栄がまた一言。
「なら、急いでご飯をかっこんで、侘助について行ったよ」
そこで、つい、
独り言のフリをして自分の母親に、常々思っていた疑問を訊いてみようと、万里子は思った。
「なんであんなひねくれ者に懐いたのか…」
「そりゃあ、あの子が侘助のことがよく分かるからだろうさ」
侘助の部屋のほうを見ながら、迷いなく、当たり前のように言った栄の言葉に、首を傾げた。
すると、栄は、湯呑をカツン、と置いて、
・ ・ ・ ・
「二人とも、どうしようもないのさ」
と、万里子に言った。
***
2010年。
陣内栄の三男である万作の息子、邦彦の嫁として陣内に入った奈々は、ほかの女達に比べると
関わった年月から、この家の事情に詳しくない。邦彦とはまだ新婚なのだ。
一年前、初めて陣内家に挨拶にやってきて、無事結婚し、そして夏休みに陣内家に訪れて、
ほぼすべての親戚と顔合わせは済んでるものの、やはりまだ遠慮というものもあって、
今年の夏休みとなって、やっと、この家の居候のについて、本家の万里子に尋ねることができた。
「え、でも、理一さんが17歳の時に2歳ってことは、今は25歳ってことですよね?まだ、お体が悪いんですか?」
大祖母の栄の90の誕生日に合わせて集まった親戚全員の分の夕飯を作るとなっては大忙しで、
ほとんどの女は総出となって、台所へと集合し、それぞれ分担して、作業にあたっていた。
そこへ、がふらりと顔を出し、何か手伝うことは無いだろうか、と申し出をしたが、
万里子がいいから休んでなさいと追い返した後のこと、
自然な流れで、そういう話題になったことはなった。けれど、万里子にとってあまり良い話題ではなかった。
「そうなの。喘息のほうは大分良くなったんだけど、代わりにみたいに、
突然意識が無くなって倒れる病気になって、それがいっこうに良くならないみたいなのよ」
「ええ!?」
奈々の声が跳ねて、周りの視線がちらりとこちらを向いたのが万里子には分かった。
「原因は…」
「原因不明」
ここで話題を変えようと、端的に言い放ち、ふいに奈々の顔を窺うと、不安そうにしている。
だから、ここで話題を変えるような酷い仕打ちにするのは気がとがめた。
「でもね、本人は意外にあっけらかんとしてるみたいだし、意識が遠のいてしまう以外は大丈夫だそうよ。
なんとなくだけど、それが起こる場所もだんだんとわかってきたしね。
ただ、倒れてしまうわけだから、頭をぶつけてしまうかもしれないってことが危なくて。此処にいてもらってるってこと。」
「そうなんですか…」
この原因不明の症状がでたのは、およそ10年前から。が15歳の時からだった。
そして、万里子がこの話題を嫌がるのには理由がある。
この症状の原因は分からないけれど、きっかけは知っているからだ。
そこまで話すと、やっと話題を閉めて、それぞれ作業に戻ったところで、
万里子は、煮物を煮詰めながら、今はどこに居るのかもしれない憎々しい笑みを持つ男を思った。
珍しく、思うだけだった。
山を勝手に売って、どこかに行ったことも、音信不通なことも置いて置き、のことだけ一緒に思って考える。
それと言うのも、男のことを余り責める気にはなれないからだ。
なぜなら、の病気のことで、誰よりも男を責めているのは男自身に他ならないだろうと、万里子は思うから。
そして、そういうところが、男と自分を結び付ける、家族という、切っても切れないものの証明であるような気がして。
物思いをしながら手元で煮詰めていた煮物の火を万里子は止める。
少し汁が多く残っているくらいで丁度いいのだ。このほうが、汁に浸しながら食べられる。
なんといっても、この家の煮物を食べる人間は、歳を召した者ばかりなのだから。