震えた手が、通信を終了させていた。
沈黙が満ちた車内でさっきまで響いていた悲痛な夏希の声が反芻している。
―――おばあちゃんの誕生日を忘れてたなんて嘘。
だって、パスコードが“8月1日”だったもの。本当はおばあちゃんに会いに来たのよね。絶対そうよね。
お願い。もう一度戻って、お別れを言って!
声が響くなか、侘助の口元は言葉を探しているかのようにわずかに震えていたが、結局、何も返さなかった。
どこか一点に絞られて向けられていた視線が不意にずれて、起きていたの目とかち合う。
まだ寝ていると思っていた侘助は一瞬驚いて顔を反らし、無理やり体を押さえつけるように陣内家ではない駅の方へと運転の姿勢をとった。
そして、今もそのまま。
はOZの世界から覚醒して初めて声を出した。
「侘助さん」
促すように言って、侘助の返事が返って来るのを辛抱強く待った
「……なんだよ」
手はハンドルを強く握り、震えているのが見える。夏の日差しを受けて外はギラギラとしている分中は暗い。
声には苦渋が混じり、そっけない言葉がまるで意味がなく、侘助自身も苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「帰らないんですか」
「帰って何になる」
言葉が苦しい。
「だって、」
「…行きたいならタクシーでお前だけで行け。ここから駅までなら平気だろ、いくらお前でも」
皮肉を言おうとして、表情で失敗している。
侘助は人前になると意地を余分に張ろうとする。
その無理をした一言一言で胸が重くなった。やっぱり、着いていかなければよかったのかもしれない。
は思った。
夏希の連絡を受けて一人だったなら直ぐに侘助は外聞も無くしてしまえて陣内家に向かえただろう。
こればっかりはいつも間違えてしまう。動かない前方の車の列の先を見た。
もう、意味をなくしてしまった最終地点の駅は見えない。
―――口を開く。
胸の奥で糸が張り詰めているような気がした。よく似た感情で言えば、腹が立っているように滾々と湧き出て溢れる。
「昨日の晩、あの後の栄さんの言葉、侘助さん、聞こえた?」
侘助の返答はなかった。ただ、気配はした。
隣からの“止めろ”という強い気配とハンドルと手のひらの摩擦音を無視して、矢継ぎ早に続ける。
「「身内のしでかした間違いは、皆でかたをつける」って。
侘助さんは今でも身内のなかに入ってるってことでしょう?」
「……だから何だ」
錆びた声。
「こんなところにまで来て!何しに来たんだよ!ようやく喋ったかと思えば出てくるのは一人前に説教かよ!
わざわざそんなことを言いに来たのか?―――今更、戻れるか。死因、聞いただろ!?」
侘助は段々と声を割って叫ぶ。それでも頑なに最後までこちらを見なかった。
自分が何を目的に侘助について行くのか。ずっと蟠っていたその理由。
ここまで来て、侘助本人にも促されて、ようやく言葉は自然にするりと、胸のつかえを抜けた。
「一緒に帰りたいの。一緒に、私は侘助さんと帰りたい」
勢い言って戸惑い、そして直ぐに釈然とした。
ずっとこれが言いたかったのだろう。
家族と喧嘩したのだから一人では帰り辛いだろう、きっとそんな単純な考えで。
暗い道に歩き出して、見えなくなってしまった背に向かって一緒に帰るために追いかけた。
自分とは違って、諦めずに、捻くれているけれど言葉をかけることを止めないこの人がこのままなんて嫌だと、きっと、今と同じに思った。
「お願い、帰ろう」
頼み込んで願った。
今、陣内家に帰らなかったら侘助は絶対後悔をするだろう。
手を伸ばしてハンドルを握る手に手のひらを重ねてこれ以上、家から離れないように停止を促して、
ひねくれた侘助が我儘をきいてやろう仕方ないという体裁を残せるように。そして、心から望んで。
「……」
項垂れるようにして出た低い声が返る。もう、手の下のハンドルを握る手に力は入っていなかった。
もう片方の手でシートベルトを握りしめながらは侘助に頷いた。
「悪いな」
「大丈夫。これでも丈夫になったよ」
「……そっか」
言葉を交わした後、席に深く座りなおして両手でベルトとシートにしがみ付き衝撃に備えた。
隣の車道は開催されている祭りによって交通規制されているが神輿はまだ来ていないため開いている。
今は眠らなければならない深夜でもない。陣内家まで突っ切ればすぐにつく。
返答を受け取った侘助は、アクセルを強く踏み込み、ハンドルを切った。
整備のために置かれた赤いカラーコーンを吹き飛ばし、RX-7は帰り道を疾走し始めた。
***
車のエンジン音が聞こえてきたのは、万里子が家族に向けて栄の遺言を読み上げ終わって直後だった。
弔問のリストを作るために葉書を整理していた夏希が血圧を記録していた栄のノート間から発見した白い封筒には、
「いざという時に読むこと」とは書かれていたが、何のこともなかった。栄のいつもの励ましと家族への感謝が書かれているだけ。
読み終わって、自然と涙が目に溜まっていて、老眼鏡を押し上げて拭った。
もうこれからは栄の言葉が無いのををこんなに残念に思っているのだと自覚した。
顔を上げ、皆、思うことは同じなようで家族を見渡していた万里子は微笑んだ。
そして、ちょうどその時、エンジン音を響かせて、Rx-7は陣内家の庭へと突っ込んでいった。
激しい音を立てて姿を現したRx-7はフロントに皹を作り、その姿でぐるぐるスリップをしながら庭の芝の上を横切っていく。
勢いは衰えないまま、対ラブマシーン用の機材の搬入に使った
太助のフォークリフトにぶつかり、それを倒してようやく止まる。
車体からは白い煙が上がり、あたりに焦げ臭いような匂いがした。
止まると車の様子がよくわかった。ボンネットは歪み、白い車体にはあちらこちらに擦りつけた黒い痕がついている。
割れている窓がフロントだけではないとわかったのは、
運転席のドアが開かれて、それに取り付けられた窓も白く濁った線が走っているのが見えたからだ。
「ばあちゃん!」
車に寄りかかったまま、車から出て、そう叫ぶ侘助も車に劣らずぼろぼろだった。
どんな無茶な運転をしてきたのか。道すがらを考えると言いたい説教が増すことは間違いないだろう。
しかし、まぁ良しと出来るだろうと確信をする。―――ほら、やっぱり。万里子は思う。
栄の遺言を胸に押しつけて、じんわりと温まる心の中で呟いた。
正論しか言わない捻くれた子は帰ってきた。
割れてしまった大皿はもうないが、中くらいのお皿なら家の過ごした年月分うんとある。
それを机いっぱい並べて栄の遺言通りにするとしよう。
「皆で、ご飯食べましょ」
***
車外で振り返った侘助に、下を向いていてようやく顔をあげた
が車内から目線で頷くと、侘助はなりふり構わず靴をふっ飛ばしながら家の中へとあがりこんで廊下を走って行った。
それを見送り、ぐわんぐわんと揺れる頭を恐る恐る振ってみる。
大丈夫と言ったが負担が無いわけがなかった。キーンと耳鳴りがして肩をすくめ、息を吐くと追いかけるように吐き気が襲ってくる。
全身の冷たい緊張が氷となって頭の中心を冷やしてぐらぐらさせているような気がした。
思い返すと、前や横や上なんかに見えない手で引っ張られているような中に居て、
かすかに聞こえたのは確か遠い所のパトカーのサイレンだったような気がして、吐いていた細い息がついに詰まる。
一度箍が外れてアクセルを踏んだ侘助の運転での同行は熾烈を極めた。
身を縮めていたは割れるフロントガラスの向こうを見ながら運転していた侘助よりも怪我は少ないが、
侘助のようにすぐに立って走れるようにはなれなかった。しかし、倒れてしまうほどじゃない。
はシートベルトを外し、運転席のほうへと這ってじりじり移動をした。助手席のほうは倒れている見慣れない重機が邪魔だった。
開かれたままのドアから青い芝生の上へと座席に座りながら足を下ろす、
このまま立ち上がっても、震える膝は体重を支えきれるのか迷い、
芝なら這って行けると、いざ降りようとした時、上の陽が陰った。
「毎回、無茶するね」
前を見ると庭には事情知ったる理一が居て、何とか気持ちを押しつぶしてドアに手をかけて顔を上へと覗かせて見ると、
縁側には陣内家の人々が勢ぞろいで居り、何人かはよろよろと運転席から出てきたを見ると、あっという顔になり、
何人かは駆けて行った侘助の背中を探すように視線を向け、そして、を見て、何か聞きたげに口をぽかんと開く。焦り、懐かしい感覚で、ギクッとして頭を下げた。
「た、ただいま戻りました。……すみません、でした」
「まったくね」
理一一人が訳知り顔で頷いて手を差し伸べてくれたが、「栄さん、は、」と口から零れる。
眺め、目で探してみたが、侘助が帰って来たというのに陣内家の一族の面々のそこにやはり栄はいない。
分かって「OZの…」そこまで勢いで続いて出た言葉は途切れて、は理一を見て、再度、陣内家の人々を見た。
彼らの表情に悲しみの影を確認し、「選べない」と言ったあの子を思い浮かべる。
「あのね、」
声を上げたのは縁側に立ちすくんでいた夏希だった。胸の前で両手を握りしめて、思わず、一歩踏み出た。
パスワードを解き、侘助に栄のことを知らせてくれたのは夏希だ。
「確かに、OZが混乱しててすぐに異常に気付けなかったのは本当。
……でも、変わりにハヤテが鳴いて皆に知らせてくれたの。あと、万作おじさんが言うには」
「―――年齢から考えるに、大往生と言ってもいい。心臓が弱っていた診断もあったからね」
夏希の言葉を受けて頷いた万作が代わって硬い表情で答えた。
医者としての判断はそう。しかし、その死には苦渋がある。
「だが、……ちゃんと通例道理、異常を感知して最善の治療をした上で、
家族そろって見送りたかったのが正直なところだ!」
それに頷いて、数人が俯く。栄の死は誰にも唐突なことだった。
すぐ先に誕生日を控えていたのに逝ってしまった。その前から続く混乱があった。無関係と言えるはずもない大きな混乱が。
悼みが包むそこで「けれど、」と切り出したのは頼彦だった。
「今回は近くに医師や救命士が居たからこそそう思ってしまうのだと思う。
いつもだったら異常を知って救急車が向かうまでの時間と今回、どちらの処置が早かったのか。
前日あれだけ大暴れしたことも含めて、“もしも”なんて言い尽したってしょうがないだろう」
「だが、気にいらねぇよ!」と後ろの方で気炎を上げたのは万介だ。
「確かにもしももしもなんて言ってたら始まらねぇよ!
だが、あのラブマシーンっていう機械はどうにかしなけりゃいけねぇのは明白だ!
それだけは誰だってわかるこったろう!?
もう、これ以上、こんなやるせない気分になる奴を増やすわけにはいかねぇんだ。そうだろう?」
佳主馬が頷き、小さい子供たちも倣って腕を振り上げてみせる。
そして、健二が「だから…」と続けた。
「そのために、開発者である侘助さんに協力をお願いしたいと思っています」
は全てに頷き、遅れてようやく知ることのできたことを吟味するように、もう一度、健二に小さく頷いた。
ラブマシーンを止めなくちゃいけない。その為には開発者であるラブマシーンのことを誰よりも理解している侘助が必要だ。
でも、それは侘助だってわかっていたはずだ。こんな事態になって、一番最初にその原因がなんであるか気づいていたのも侘助だっただろう。
それでも、侘助がここに留まって混乱を見過ごしてきたのは、自分が心血注いだ研究の結果を受け入れたくなかっただけだろうか。
はそれだけではないように思う。
だって、機械であるラブマシーンは侘助を親だと呼んだ。
「まぁ、とりあえず、」
こっちにいらっしゃい、と壊れ果てた車を降りかかるところでずっと止まっていたを縁側へと万里子が手招いた。
もう一度支えようかと手が差し出されたが、足はなんとか体重を支えられるくらいにはなっているのを確認して、
大丈夫と言ってからは万里子の元へと向かう。
「はいこれ」
数歩足らずに縁側まで来ると、万里子は封筒をに渡し、そして、言う。
「侘助に教えてやって。おばあちゃんがどんなにアンタの事を心配してたかをね」
家族へ―――栄の遺言。
ほかの皆は、もう?そう尋ねると、万里子は穏やかに笑って頷き、
並んでいる面々も皆、目を伏せ、こくり、こくりと順番に頷いた。
折りたたまれたそれを持って、これが最後の栄の心なんだと思うと息が詰まる。
「それと、」
顔を上げるとペシ、と落ちてきた掌は額の絆創膏の上で触れて離れていく。
「治ったと思ってたけど治ってなかったのね、貴女のお転婆」
万里子はそう言って、これも持っていきなさいと割烹着のポケットから絆創膏をいくつか渡し、
侘助の分も、膿むと大変だから。お願いね。と、念を押す。
そして、ほかにも差し出されたものがあった。
「これ、おじさんが昨日の夜に、あの後落して行った携帯なの」
絆創膏のある掌の上に置いて、離す瞬間、ギュッと夏希が強く電源の切れた携帯を握りしめ、
「これのお陰で連絡が取れたの」と言う。
「……パスコード、おばあちゃんの誕生日だった。
外国って月と日を逆に書くことがあるって、手紙を整理してて気づいてそれで……分かったの。
おじさん、全然、忘れてなかったよ。
ちゃんと、繋がっていたんだと思う……だから……」
侘助と栄は離れていた10年間もずっとどこかで繋がっていた。
夏希と侘助もだ。だから、夏希がパスコードを解いて、連絡をつけられた。
お互い届かない手紙を送り続けたようなものだ。
「……侘助さんって、本当に好きね。家族のこと」
うん、と夏希は俯いて、頷いた。