7月30日
その日、陣内家は陽が昇ってから人の動き回る音で騒がしく、夏希はそこに居ながら一枚隔てたところでただぼんやりとしていた。
空は青く、夏の空気は柔らかい。昨日とそんなに変わらない気温と風景があって、
訪れた夏の日にはいつもこんな風に誰かの足音と気配があった事を夏希は知っているのに、
それを上手く受け止めることができない。
悲しかった。
胸の奥から伝わる疼痛がある。
嵐が残していった傷跡はずっと夏希に悲しみを訴えかけて、
何度も何度も、頭のなかで答えのでない考えが巡る。そして、今もまた、
朝露を受けて光の通り抜けた明るい緑の芝も朝靄が掛かった風景も、何もかも、“その人”を連想して、痛みが駆けて行った。
この痛みは、瞼に焼き付いて離れない、朝のことに繋がっている。
まだ陽も登り始めてない早朝。
OZの混乱で到着していない両親の居ない部屋の中、一人で眠りに就いていた夏希は、陣内家の飼い犬のハヤテの鳴き声に起こされた。
飛び起きた瞬間、良くない事が起きていると不思議と分かって、すぐに眠気はどこかへといき、耳を澄ませる。
激しいハヤテの鳴き声の間に、悲鳴に近い声やバタバタと駆け回る大人の足音がして、
その尋常じゃない雰囲気に、寝巻のまま廊下にでると、蒼い顔をした寝巻の理香と落ち合う。
どちらともなく目を合わせて、夏希は理香がある程度の事態を呑み込めていると分かった。
薄暗い中でもわかるほど蒼い顔をして、茫然としている理香に「どうしたの?」と尋ねると、自分の声も尋常ではない響きがあった。
その時、きっと何かの間違いだ、と、何かを知る前に落ちつけていないといけないような気がした。
しかし、その準備も間に合わなかった。
「…おばあちゃんが、」と重い口を割った理香の表情がみるみる内に崩れ始めると、
夏希は堪え切れず、栄の部屋へ走り出していた。
後ろで理香が何かを言おうとして言葉にならず、夏希と同じように走り出した音がする。
嘘だ。必死に思いながら、走り出した足は止まらない。
とうとう家のなかを走って縦断し、何人かが立ち尽くしている部屋に開けた廊下を通り過ぎて、飛び込んだ。
その先の違和感は、容易く希望を奪い去っていった。
へたへたと座り込んで、見渡すと、夜明け前の栄の部屋のはずなのに、万里子が居て、克彦達が居て、
慌ただしく、ドラマのなかのような光景が広がっていたその中で、ただ一人、
布団の中に目を瞑ったままの栄の姿を見つけた。
その後の記憶は判然としない。
いつの間にか、医者の万介が人で溢れる部屋に飛んできていて栄の何かを確かめると、
「亡くなってしまった」と夏希には理解できない言葉を言った。
その時、また、嘘だ。と夏希は思った。こんな酷いことは嘘だ。
けれど、そういつまで意地を張っても、栄の死という一滴の黒い滴は、確実に夏希の中に落とされ、
必死に見ないふりをしても、見ないふりをする理由から顔を背けることはできないように、黒い波紋は広がっていった。
朝日が昇って、家に陽が当たり始めると悪夢という理由も果たせずに、
茫然と縁側に座っていた夏希は、突然、収まらない嵐のような息のできない悔恨と悲しみが湧き上がってきた。
「ここ、握って」
昨日の諍いの後、どうして栄のところに行かなかったんだろう。
自分の苦悩に夢中になって、何故、調子が悪いと言っていた栄を一人にしたんだろう。
こんなに、いつもよりもこんなに近くに居たのに、助けてあげられなかった。
体を食い破るような勢いでそれは暴れて、ともすれば外に出て嫌な姿と言葉で暴れそうで、怖くて、
自然と、10年もの間、繰り返してきた、悲しいことが終わる癖をした。
曾祖母を亡くした夏希に寄り添ってくれるみたいに、同じ様に縁側に腰をかけ、ただ無言で隣に居た健二に小指を差出すと、
じれったいくらい、おずおずと優しい体温が少し指先に触れた。
ほっと、火が灯るようで、ゆっくりと指を温かく包む。そうして、わかったことが一つ。
それが今、まるであの時の健二のように寄り添ってくれていて、嵐のような悲しみは、疼痛へと収まっていた。
それでもまだ、夏希には栄の死を上手く飲み込めない。
「夏希。弔問のお客さんのリスト作るの手伝って」
万里子の呼ぶ声がして、夏希は、ぼんやりと見ていた空から視線を外し、
栄が運ばれた後も、部屋から動けなかった夏希の後にやってきて、作業を始めた万里子や理香、直美を見た。
万里子達は夏希よりもずっと大人だと思う。夏希がひとつひとつ呑み込んでいる間に、もう、呑み終わっている。
当たり前なんだろうけれど、近くにいる分、忘れてしまいそうになる。
やるべきことは、悲しむを後に回して、栄にすべきことをやって、
そのあとにできるだけ長く思い出のその人と在れるようにいつも通りでいる。そういうこと。
けれど、そうすることは随分、勇気のいることだと思う。
栄以外の人が栄の持ち物に触れることは、栄の温もりを拭い去ってしまうような気がするし、
お葬式の準備に取り掛かるということが栄の為なのに、栄を無くす作業に取り掛かるようで、嫌だとさえ思えてしまう。
でも、
繰り返し、名前を呼ばれ、夏希は手のなかに残った携帯を見つめながら、小さく「うん」とだけ答えた。
今朝の光景が目に焼き付いているように、声も耳に焼き付いていた。
栄が亡くなっていると言った万介に一番に食って掛っていたのは万里子で、
理香も直美も、他の家族も、「おばあちゃん!」と何度も何度も呼びかけた。
本当なら誰だって今朝のように「おばあちゃん」と今日一日呼びかけていたいのは変わらない。
そして、夏希はまだ大人にはなりきれないけれど、
大人の涙を見つめてそれがどういうことなのか知る小さい子より子供にはもう戻れないし、戻らない。
耳を澄ませば、栄の為に何かしらのことをしている家族の行動の音が聞こえた。
万里子が、理香が、直美が、そして、誰もがその音に労りの心と栄への愛情を含んでいるように夏希には思う。
そして、ようやく。胸のなかに落ちた。
栄は亡くなってしまった。
もっともっと話をしたかったと思うし、
将来、自分の結婚式にだって出て欲しかった。その先にだって、ずっと居て欲しかった。
皆、皆、そうだったはず、と思いかけて、夏希は手の中にあったそれの画面をじっと見つめた。
―――そうよね?
――― code hint birthday
□□□□
今朝、万介達が夜中に侘助が家を出たと話しているのを夏希は聞いていた。
今は夏希の手にある侘助の携帯の画面には、パスワードを求める文章が表示され続け、それを解くことができなかった。
思いつく限りの数字は入れた。けれど、侘助自身のものでも、栄のものでも、のものでもない。
ひょっとしたら夏希の全く知らない人のものかもしれない。
それは、陣内家と侘助との断絶の証のような気がして、不安に思える気がした。
でも…でも、
この手。
夏希は、祈るように携帯にその手を添えて思った。
侘助が教えてくれた悲しみの終わらせ方。でも、本当は、違った。
悲しみは終わらない。
健二に小指を握って貰ってわかった。悲しみは終わるどころか、後から後から溢れだして、
一心不乱に夏希は泣いた。泣いて、泣いて、何故か落ち着いて、そうして気付いた。
侘助に止めて貰ったはずの祖父の死の悲しみも、本当はずっと終わっていなかった。
祖父の死を考えれば、今だって悲しくなるし、寂しくなる。死ぬということが一番悲しく、苦しいことだと思いだす。
忘れたくないけれど、きっと、祖父を忘れなければこの悲しみは終わらず、
そんなことしたくない夏希は一生この悲しみを背負っていく。
じゃあ、ずっと信じてきた、この方法は何なんだろう、と考えた時、
この方法は、悲しみを終わらせる方法じゃなくて、悲しみに溺れないようにする方法なんだと分かった。
祖父の時は侘助が手を繋いでくれた。栄の時は健二が手を繋いでくれた。
だから、手を捕まえてて貰える溺れることのない夏希は安心して眠ったり、思いっきり泣いたりできた。
夏希と繋がっている人が、亡くなった人だけではないことを体温で教えてくれる方法。
同時に、亡くなっても、思い出という形でその人と繋がっているということに気づける方法。
それが分かるから、泣き終わった夏希は一先ず落ち着くことができた。
悲しみが溢れて、思い出も溢れて、それが、まだ、栄と繋がっていることなんだとわかったから。
侘助がどうして、この方法を悲しみを終わらせる方法だなんて言ったのかはわからない。
けれど、夏希はあの時助けあげてくれた侘助のことを覚えてる。
その思い出は夏希と侘助の繋がりだ。祖父との思い出と同じように、
夏希が覚えている限り、侘助がどこへ行こうと続いているはずだ。
そして、それは侘助が持っている陣内家で過ごした思い出も、きっと、ずっと、侘助が忘れない限り。
でも、おじさんは、おばあちゃんのことをまだ知らずに、どこかへと行こうとしている。
それだけが歯がゆい。
再度名前を呼ぶ万里子の声がして、夏希は携帯をしまい、そこへと向かった。
主のいない部屋は埃が積もり、主の痕跡を無くしてしまう。
それなら、まだ温もりが残っている間に触れていたい。
それは残された者なら誰でも思うことだと信じていたかった。
***
も家にいないと分かったのは侘助の出奔の事実の判明よりも遅く、静かな朝食よりずっと後になった。
栄のことを知らせようと姿を現さないのもとへ、用事の合間を縫った万里子が向かっている途中、
いつの間にか後ろから着いてきていた理一からこっそりと知らされた。
聞いて、口をあんぐりと開けるしかなかった万里子が思わず頭を抱える。
「じゃあ、夜中に歩いて行ったっていうの?10年前と同じに?」
「いや、翔太の車に一緒に乗っていったみたいだ」
「……車泥棒じゃないの」
翔太がそのことを了承したわけがない。
今はまだ栄が亡くなったことに呆然としているままの翔太が立ち直ったとき、
それを改めて知って騒ぐ様がありありと瞼に浮かんで、念のため声を潜めた。
「どうして止めなかったの」
「いや、気が付いたらもう車がなくて、二人ともそれぞれ部屋にいなかったから、多分そうだろうなぁって」
なんてタイミング。
今日は忙しくなるといっても、こう、次から次へと来たら参ってしまう。
万里子は頭が痛くしながら首を振って、まるでちゃっかり万里子と同じ風にしている理一を睨む。
それが本当なら、事実、事情を知っていて黙っていたのはたった一人だ。
「バイクあったじゃない」
バレたか、と、優しそうな顔をして一人で口を噤んでいた息子は笑った。
「まさか、県外に乗り捨てるつもりってわけじゃないでしょうから、ちょっと探してきてくれない?
それで、もし、二人が居たら……おばあちゃんの事知らせて、戻って来てもらわないと」
を連れているなら、侘助も無茶はしないだろうと車を持って行ったことから確信して万里子は思い至った。
それに山の下はお祭りをしている。上手くすれば渋滞に引っかかっているかもしれない。
しかし、理一の返答は煮え切らなかった。
「行きにちょっと確認するくらいなら」
「行き?」
「ちょっと準備が」
答えを濁すばかりの理一の態度に、朝食の時、栄の仇討を叫んだ弟の万介の顔が浮かんだ。
つまり、男たちは男たちでなにかをするということらしい。
万里子の目元が尖り、理一は慌てて言い繕った。
「見つけたら知らせるよ。でも、戻ってくるかは本人が決めることだろう」
「……戻って来るわよ」
いくら侘助が捻くれていても、こんなことになったらきっと慌てて帰ってくる。
しかし、理一は、そうかな、とやはり庭へと視線を向けている。
「死因にOZの混乱が関係してると知っても侘助は帰ってこれるのか」
「でも」
昨晩のことが思い返された。
栄は侘助に「死ね」と言ったが何も憎くて言ったわけではない。それでも、あの子は追いつめられた。
それで、家出をした二十年前よりも寄る辺を無くしてしまって酷い目にあっただろうと思っていた。
考えてみれば侘助がその後、家を出るのもわかる。それにが便乗して、家に戻るわけにはいかないから、車に乗せていった。
けれど、翌日になって、ますます侘助の立場は悪くなる。
もう、あの子は家に帰れないのかもしれない。
「でも、駄目よ。あんなお別れが最後なんて。
それにちゃんにも戻ってきて貰わないと、さんになんて言えばいいの」
思わず万里子が零すと、帰ってきた声は案外と硬いものだった。
「はもう大人だよ。自分で選んで着いて行った。だから、帰ってくるかどうかは自分で決めれる」
驚いた万里子はまじまじと、目の前で微笑んでいる顔を眺めた。
息子はひたすら穏やかだった。探るように見て、
行き着いた答えに、深々と残念そうに溜息を吐く。
「私は、いつ孫の顔を見ることができるのか」
え!?と驚いた理一は、わかりやすく狼狽して何か言おうとしたが、
それを遮って「いいから、早く行ってらっしゃい」と追い払った。
足があるほかの家族はお寺や他の用をしていて、理一以外は万介だが朝の啖呵の切りようからいって頼むのは無理だろう。
頼まれた理一は、くわばらくわばらと玄関へと歩いていった。
鳶に油揚げをさらわれるとなんとやら、あれはむしろ、さらわせたの間違いだ。
まったくもう。再び目がつり上がりそうになった万里子は、着物の襟を詰めて、
栄に着せる着物か浴衣を探しに向かおうと足を一歩出す。
そこから、不意に不安が湧きあがってくる。
「大丈夫よ」
声に出して万里子は自分に言い聞かせる。
大丈夫。家族への采配はこれまでだってしてきたじゃないか。
侘助だってだって帰ってくる。葬式の手順も存じている。
男等が大事な時にあんまりに邪魔になることだっていつも通り。
一通りしなければならないことを思い描いて、一つ一つこなしていく。
枕飾りはどんなだったかしら。栄の知り合いへの訃報はいつにしようかしら。
「まだ、忙しい頃はいいのよね」
悲しみはその隙間隙間に現れるだけで、すぐに忙しさに掻き消される。
問題なのは葬式が終わって、親戚も理一もが帰っていったあとの広いがらんどうなこの家で過ごす間だ。
―――大丈夫よ。
足はちゃんと次の一歩を踏み出せた。
夏が終われば秋が来る。秋が終われば冬。冬には正月、また親類は集まり、家には声が溢れる。
それまで、この家をちゃんと守っていくこと。それが万里子の役目だった。
「見守っていてね。母さん」
***
同じ家のなかでも、男達の様子はまったくと言って違っていた。
女たちが栄の葬式を着々と準備する間に、資材を用意し、ものものしい雰囲気で掲げた目的は合戦だった。
OZの混乱により、手当ての遅れてしまう事態を招き、結果、栄の死として現実に暗い影を落としたネット上の人工知能。
その存在に弓を射るのは陣内家としては当然だと気炎を上げたのは佳主馬の少林寺拳法の師匠の万介だった。
そして、それに逸早く賛同したのが以外なことによそからやってきていた健二だ。
アバターを乗っ取られてあれだけ泡を食っていたのが嘘みたいに、なにか確信を得たかのようにラブマシーンは危険だと言う。
結果、陣内家はラブマシーンをまず止めるべきという男等と葬式の準備するべきという女等で真っ二つに分かれてしまってたが、
どちらも栄を思えばこそ手を休めることはなかった。
そして、正午を近づき、葬式の準備も整いながら、
準備を終えた陣内家の男達による栄の弔い合戦が、今、始まろうとしていた。
まず、健二が第二次上田合戦からヒント得てアイデアを出し、
電気屋の太助が持ってきた大学納品用の200TFLOPSのスーパーコンピューターに、
自衛隊所属の理一が松本に向かい駐屯地から借用した100Gbpsのミリ波回線、
万介が新潟から持ってきたイカ釣り用の船を電源にして、
OZのシステムの保守点検のバイトをしていて末端も末端だが権限のある佐久間が東京からサポートをし、
OMCのチャンピオンである佳主馬がアバターを駆使してラブマシーンにリベンジを挑む。
他に、万作の息子三兄弟が補助として参加しているが、この場には居らず、アバターのみがOZで控えている。
果たし状は佐久間がすでに出してある。指定した時間も近い。
男達が控え、機材を集めた居間の中心に佳主馬が歩いて行き、座った。
「しまっていこう」
鬨の声を上げる。
リベンジの始まりだ。
オフィシャルの小説ではここ場面の夏希の気持ちってどうなってるんだろうと戦々恐々。
小指を握っての過去捏造エピソードを前に入れちゃったんでこうなりました。
でも…どこかで夏希はこの場面ではバラバラになってしまった家族を憂いてるって話を目にしたような気が。
だとしたらつまり真逆です。うわああああ…
理一さんがここのサイトでギャグよりなのは、たぶん、アバターのイメージのせい。(´ε`)緑斑のあれ。
侘助さんの話なので相次いで損な役回り申し訳ない。
この人が本気になったら主人公が侘助さんおっかけなくなっちゃうのでごめんなさい。