侘助は頭を上げた。
ぼんやりとしていたはずの出口の明りは、もう、夏の日差しに変わり、アスファルトが白くなるほど照っていた。 いつの間にか再び眠りについていたらしい。陽はもう随分高そうに見える。 茫然としたまま侘助は助手席を見た。体を前へと倒していたはずのはもう既に起きていて、 頭を急に上げた侘助に気付いたのか見ていた外からこちらを振り返る。

「おはよう」

ああ、と返事を返すと声が枯れていた。
昨晩の沈黙が嘘のようには普段通りに戻っていて、気分が落ち着くまで、少しかかった。 二度目の記憶の奔流に、目を覆って血行を促すように揉んでやっていると、その奥が熱くなり、 やはり横にならず車で夜を明かすには無理があったのかもしれないと侘助は思った。 じんわりとした熱は溶けだして目じりにたまり始め、 吐き出す熱い息が震えているのがわかると歯を食いしばって掌で乱暴に目じりを擦って追いやる。

夜明け前から夢を見た。また、昔の夢だった。

新たに息を吸い上げ、だんだんと車内に侵略しつつある夏の温度を追い出すためにキーを捩じって冷房をつける。

―――なんで今さら。

吐き出される風が襟足を掠めていくなか、侘助の様子を感じ取ったのか、訝る の視線を感じた。 その僅かに続いた沈黙にすら苛まれる。 エンジンの震えで車を揺らしながら、頭が完全に目覚めるのを待ち、シフトレバーに手を添えていると、 ふと感じた違和感があって、確信して侘助は問われる前に問いかけていた。

「さっき、咳、してなかったか?」

夢の中で、ずっと喘息の咳の音を聞いていたような気がした。はまた何も言わなくなった。 そのまま答えを聞くことなく、車を発進させた。聞かなくても反応で分かった。 心配させないように嘘を吐くこうとして、けれど昨日侘助が言ったことを気にして止めた。 けれど、頷いてしまったら車を降りなければならなくなる。結果沈黙。そういう思考。

―――結局、こういうやり方ばかりになる。

苦い気分を噛み潰しながら駐車場から混雑した道路へと出て、予定より随分長く寝たのだと悟った。 昨日の夜の空気を引きずった車内とは、別世界のように眩しく活気に満ち溢れた町。 ハンドルを切った方向は駅だった。そこから、車を捨て、タクシーに乗り換える。 そして、とは、ここで、終わり。

そうとは悟られないよう、運転しながら、の姿を目の端に捉えそうになって、狭く狭く視界を前に取る。 そのためにハンドルに手を添えていることは助けになる。 この先への細い細い道への舵取りは難航するに決まっていた。


意図せず起こってしまったOZの混乱は、収まれば自分の作り上げたものの知名度を格段に上げる要素になり、 ラブマシーンは絶対神話を持っていたはずのOZの崩壊によって絶対的な存在感を持って確定する。 昨晩考えてみて、順序やいろいろな予定は狂ったが、それで侘助の当初の目標はあらかた叶うのだと、 急に眼が覚めた朝方に嫌でも気づかされた。 最初はいろいろと慌ただしくなるだろう。アメリカへの帰還し、ねぐらに帰る。 そして慌ただしさが収まった後は、恐らくひたすらベタ凪の生活になる。 出口はない。下へ下へと進む迷宮がぽっかりと口を開けているが、今では、そこが安住の住処に侘助には思えた。 見えるから欲しくなる。手に入らないから苦しくなる。だったら目を瞑っていたほうがいい。 しかし、そんなこと男の傍にいることはにとって良い筈がない。

自分の研究を机上の空論だと一蹴したこの国があって、理解できなかった馬鹿な企業がいて、 妾の子だと言っていた家族達がいた。傍を通り過ぎて、こっちの価値を認めないとした連中。 そして、逆に侘助が理解できないことをいう人間もいた。 自分と繋がる温かいものに唾を吐きかけ当然としながらその繋がりに依存している人間。 そういう奴らも含めた様々な人間が次々に隣を通り過ぎていった。 時折手の届くところに留まっていくらか会話を交わした者もいたが、やはり最後にはどこか違う方向へと歩き出していく。

その姿を見ながら、声を吐きかけてやりたい、と、思った。

過去の過ちや、痛いところを突いて、彼らがそれを聞いて目を剥いて振り返る。 それが心底面白いもののように思えて、その目標の為にラブマシーンという存在を作り上げた。 完成したラブマシーンはOZを混乱に至らしめ、もうすでに、侘助は世界をあっと言わせたとも同義になった。 しかし、企み通りになったと満足に思えているはずが、むしろ不愉快な結果に終わった。 結果、ラブマシーンを買い上げ、公開をした連中の方法が杜撰すぎたのだと文句を垂れて、夜に逃げ出す。

だが、それが目的と何が違う?

家族の過去を過ちとして賛辞されたかったとしても、山を勝手売った時点でそれは自分の過ち。 埋め合わせに現金を差し出して済ませられると信じていたことがもうすでに可笑しい。 プログラムは組み立てられても、そんなこともわからなかったのか。 やはり自らは歪んでいる、だから、願望ですら間違えていたのだ、と、思わずにはいられなかった。

そして、結論を肯定するかのように、朝方、夢を見た。

幼い頃を回顧する記憶の様な夢の中で、かつて手を差し伸べた着物を着た老女は 自分の喉元に薙刀を突き付けるだけして、結局、誰もと同じようにしずしずと侘助の傍を歩き去って行ってしまった。


そうして、わかった。
の悪癖が誰も傷つけないことなら、侘助の悪癖は、きっと、その逆だった。 帰れ、帰れ、と嘗て繰り返し思ったことがある。余所者は家族を傷つけると感じることがある。 どうしてそうなのかといえば自分がそうだからだ。 誰も直視して痛くない現実が無いわけがない。それを突き付ける人間の傍にずっといることは辛い。 正論という歪んだ棘を纏って他者から身を守り、けれど、棘を疎んじた他者が折ったそれが自分の体に突き刺さる。 そこからまた棘が生える。そういう悪癖。

一度考え始めると、止まらなかった。
栄はそういう侘助の癖を理解していたんではないか、それを察して栄の居るこの家に執着した。 そして、の悪癖は、けして侘助の棘を折らないから己を傷付けない。だから手を取って打算して行動した。 だが、どちらかが触れようとすればその瞬間、傷つけない方ばかりが傷を負う。 車のなかの沈黙は、正しくその象徴なのではないか。 眠りから覚めて、選択した言葉が口から毀れ落ちて、それが決定していた。

だから、もう、ここまで。

駅にたどり着いたら、最初のタクシーにはだけ乗らせて、陣内家に帰す。
そして、侘助はもう一台のタクシーで空港へと向かう。
それで、ようやく手を全て離してやれる。闇のなか、一人になれれば安心だ。 いつか痛みに耐えかね、沈黙すら続かなくなって「離して」と言われるくらいならそのほうがいい。 温かい掌の代わりに突きつけられる刃の感触をもう一度味わうくらいなら、そのほうがいい。


***


車が止まったその隣の歩道では、ひっきりなしに人が行き交う。 そこから道路に向けて祭りの開催時間とそれに伴う交通止めの看板が立ててあった。 その交通規制に運よく車は引っかかった。 隣の通りを歩いて行く人は色とりどりの浴衣を着て、にぎやかな歓声も聞こえてくる。 その光景を見ている振りをしては思考を巻いていた。車がひっかかってくれたのは最後の幸運に思えた。 そうでなかったら、今、足踏みを許されている時間はきっとない。


侘助が向かっている先が恐らく上田駅だろうと気付いたのは、翌朝になって、駐車場を出てからだった。 一晩明けて、陣内家ではなく駅を目指すということはやはりここから離れて、もともと居た海外に侘助は戻る。 それが決定してしまったと思ったとき、予想は簡単だったろうに、心はざわついた。 少なくとも、が侘助についてきて、その後目指したかった場所はそこではない。 けれど、そうなると、自分がどこまで侘助についていけるのか。 とりあえず、このカバンの中にパスポートはあった。 だが、それを尋ねない侘助は恐らくを連れていこうとは思っていない。

考えられる場所は、最長で空港、最短で上田駅。それが残された期限だとわかった。 道路を滑り出して渋滞に引っかかるまで、気持ばかり先走って、パスポートなんて確かめている自分が滑稽に思った。

どこまで着いて行っても許されるのか。 期限が来て、その瞬間、「帰れ」と言われる覚悟をちゃんとつけられるのか。 ようやく、ここまで追いつめられた瞬間、濁流のようにそれは訪れていった。

―――違う。

思わず、は頭をあげいた。 「帰れ」と言われる覚悟をするために車に乗り込んだわけじゃない。

侘助に着いてくることが、浅すぎず、深すぎず、傍にいることも、離れることもできる位置を 維持し続けようとする自分の性根のせいだったのだとして、 「帰れ」と言われて覚悟をしていた後に大人しく帰ることが、自分のいる陣内家と侘助の溝に一体なんの埋め合わせになり、 侘助がにとっての丁度いい場所に収まってくれるとでもいうのだろうか。 そんなわけがない。一人になった侘助はどこへでも行き、行方などわからなくなり性根の範疇などとっくに過ぎる。 じゃあ、侘助が「帰れ」と言って、それに首を横に振り、追いかけ続ける? そして、向こうの国の侘助の住処がわかったら、そこに住みつくのか、拒否されれば居場所はわかったと 安心してのこのこ帰ってくるのだろうか。 そんなの余計になにがしたいのかわからない。その後、侘助が引っ越せば何の意味もないことだ。

そして、これは“浅すぎず、深すぎず”に当てはまるとでも言うのか。

違う。

陣内家の門前から町まで駆け下りてきて、その最中に疑ったことはなんの謂われもないことだ。 これは、生来の性根では無く、単なる悪癖。 だって、なぜならそれと真反対のことを自分は無意識にしようとしている。

それを知って、自然と横へと視線を投げかけた。 侘助は呆然としているに気づくことなく、どこか強張った表情のまま前を向き、運転している。

多分、これ。

心臓がどくどくと音を立てていた。

これが、ずっと自分のなかで必死に訴えかけていたんだ。


それから車は渋滞にひっかかり、昼を過ぎてもまだその場所から進まずいる。 だが、祭りが終われば10分もしないで駅についてしまう距離だ。 侘助の事、OZの事、両親の事までもがぐるぐると頭の中で次々に解決の期限を取り付けてせびっていた。 その全てが絡みついていて、その結び目に手が触れるのがにはわかる。
わかっているのに、結び目は固く、どれがどう絡みついているのかがわからない。 それを解くには、やはり、まだ悪癖が薄かった2歳の頃の自分が必要なのだと思う。 2歳の自分が両親と別れ、侘助を追い、OZという世界に次第に惹かれて行くきっかけを作った。 その子が今のの中でも確かに生きて、教えてくれている。 疑いながらも、やっかいな悪癖を歪めてまでここまで来たのだから。 浅すぎず、深すぎず、が嫌で、傍にいることも、離れることもできる位置も返上し、 侘助の「帰れ」に、きっと何かを言うために。
それが分かれば、

それが分かれば、きっと、歩きだせるのに!


車は数センチだけ前進し、車間が狭まった。侘助はただ前ばかり見ている。 その眼差しが切ない。何かを言いたい。言わなければ。 揺れにもなれないような違和感が後ろへと体をひっぱり、それが途切れると頭が少し前へと傾く。 とりあえず、何か話そう。話している内にどうにかなるかもしれない。このまま無言のままでいて良くなることなどなかった。 その、勢いのまま口を開こうとした時だった。

車の隣を人がひっきりなしに歩いているそのうちの一人の女性が声をあげて、 少し先を歩いていた男性を呼び止めるのが目の端に見える。

「あ、こっちの道はまだみたい。御神輿はもう一つ向こうに来てるって」

「じゃあ、駅から回り込む?」

うん、と顔を上げて頷き、 下駄を鳴らしながら走りだす手にはさっきまで覗き込んでいた黒い携帯が握られていた。 先に歩いていた彼のほうが手を彼女へと差し出し、携帯電話が渡される。それが丁度車の真横。




[ CONNECTING… ]




液晶画面がきらきらと反射して、窓に四角く白く映り、









気がつくと、は再び闇のなかにいた。



小説TOP/