自分の静かな声を聞いて、目を伏せた。
ああ、露骨だ、と。
という人のことを夏希は小さい頃からよく覚えている。
彼女は産まれた頃から喘息を持っていて、体が弱く、幼い頃に空気の綺麗な田舎にある陣内家にやってきたのだと聞いた。
彼女自身は陣内の血は全く引いていない。実をいうと親戚というわけでもない。
ならばなぜ、この陣内の家にやってきたかというと、それは、当主の栄の人脈のなせる技というのが一番重く、
次に、彼女自身の血筋というものが関係していた。彼女は、我が陣内家のご先祖様が仕えた武田家の血を引いていて、
時代が時代なら、陣内家が仕える姫ともなったであろう人が、彼女だった。
しかし、この、いつでもどこででも世界に繋がれるご時世。
昔の主従なんてお伽噺だなどと、一蹴りしてしまえはそこでお終いなのだが、
一重に陣内家当主の栄という人物は、そういう人ではないのだ。
栄は、広い人脈のうちに出会った武田の血を引く
の両親と話し合い、
迷惑を掛けるわけにはいかないと渋るの両親へ、
我が陣内家が武田家から賜った恩を返させてくれと決め手に笑い、
忙しい仕事と体の弱い我が子のことで疲弊していた両親を最終的に納得させた。
そして、都会の空気に体を蝕まれていたを家へと迎え、を育て上げたのである。
しかし、成人を過ぎであろうは、まだ陣内家にいる。
その理由は、まだ他にあるのだと、夏希は知っている。
***
12年前
夏の太陽に焼かれた小麦色の肌に、風を纏わせつつ、今年、幼稚園にあがった夏希は、
曾祖母と親戚達に挨拶をしたあと、家の中では珍しく襖のしまったその部屋の前に来ていた。
夏休みになれば、一族がそろって山の上の石垣に囲まれた陣内家へとやってくる。
それは曾祖母の栄が大好きな夏希にとって、毎回楽しみだった。
まず、栄にあえる。
それに、自分の家とは違う堂々とした佇まいの大きなそこは、
つやつやとしてヒンヤリとした長い廊下がたくさんあって、
靴下で滑ると楽しいし、石垣から門へと上がる坂の両側には青々とした草原や山は、蝶やバッタが籠に入りきらなくなるほどとれた。
久しぶりに会う沢山の親戚達も、大きくなった、大きくなった、と自分を褒めてくれる。お小遣いもくれる。
そして、もう二つ。夏希にはこの田舎の家が大好きな理由があった。
手櫛で汗で張り付いた前髪を整え、夏希は、泥で汚れた膝小僧を発見し、はたく。
そして、襖に手を掛けたところで、思い出して、声をかけた。
「お姉ちゃん?いる?」
「いるよ、入っておいで」
襖を抜けて聞こえてきた落ち着いた声に、ニンマリと笑って、やっと襖を引く。
そこには、タオルケットを膝にかけて、布団から身を起こした夏希よりも年上の少女がいた。
。
確か、まだ中学に入るかどうかの年齢だったと、そのときの夏希は記憶していた。
今思えば、それにしてはのもの言いは、ずいぶんと大人っぽかったのだなぁと思う。
「こんにちわ。大きくなったね、夏希ちゃん。今年幼稚園でしょ?」
「うん!」
大好きな理由の残り二つの一つ。
幼い夏希にとって、は歳の近い優しいお姉さんであり、
・・
自分にとっての唯一の庇護の対象だった。
幼い夏希は守られる。たくさんの大人に守られる。
けれど、自分より大きいこの人だけは、自分も守らなければならない。
幼い夏希にとって、それはとても誇らしい。
自分の小さく薄い手で、この優しくて弱い姉のお粥を運んだり、
掛け布団の隙間を見つけては潰し、保温する役割が、自分が役に立てる役割の一つだと胸を張れた。
そして、それこそがこの自分より大きな子供の為になるのが嬉しかった。
そう夏希が思うのは、の体の弱さを知っているからだったが、
どこか二人の血筋を鑑みると子子孫孫に受け継がれたソレのようでもあった。
布団から身を起して、こちらに変わりなく頬笑むに、
最近は夏風邪で寝込んでると聞いていた夏希はホッとしたが、同時に眉をひそめた。
「ダメだよ、ちゃんと寝てなきゃ」
「うん、ありがとう」
そう言ってはいるものの、白い浴衣をひっかけている白い腕が伸びて、
夏希の頭を撫で、髪を梳くのを夏希は止められそうになかった。
夏希がの長い髪に憧れて、髪を伸ばし始めて、一年になった頃の話だ。
***
最初は確かに憧れだっただろう、
けれど、
8月1日が誕生日である曾祖母を喜ばせるために、学校から事情もろくに話さずにひっぱてきた“自分の彼氏”である後輩の少年に、
このあとの対面で調子をあわせてくれるように、慎重に頼みながら、今年で18になった夏希は
さきほどすれ違った浴衣の女性を思うのだ。
最初は憧れだった。
けれど、年を重ねるごとにその憧れは、複雑な悋気のようなものへと、姿を変えていった。
例えば、の髪は線で引いたようにまっすぐだけれど、自分の髪はすこしうねっていて大人っぽいかもしれない、だとか、
は儚げで、かき消えてしまいそうだけど、自分は元気でいろんなことができる、だとか、
そういう違いを見つけていくたびに、優越感の嘘を被った悲しみが湧き出てきて、
やがてそれは、憧れという名の無償の愛を壊していった。
それは、きっと、そう、
夏希が田舎の家が好きな理由の残りの一つ。
とある人物に向けての“初恋”という気持ちが、芽吹き始めてから、顕著になっていっていた。
そして、10年前の事件。
初恋の気持ちが形を結び始めていた頃に起きた事件の全貌は、夏希のの対しての印象に、絶対的な暗い影を落とした。
憧れを打ち砕かれ、二人の間に決定的な柵ができ、
夏希は、昔憧れて真似をしていた彼女と、自分を苛める両方の面をもつ彼女に、
今でさえも、顔を合わせることが苦手だった。
けれど、別に、を嫌いになったわけじゃない。
むしろ、勝手に苦手になって意図的に避けてしまっている自分に、
変わらない態度で接してきてくれている彼女のことは好きだ。
だが、出口の無い感情は苦しい。苦しいが、どちらかに割り切ってしまうほど、夏希は子供にはなれずにいた。
その苦しい感情を抱え込んでもいられず、夏希は、大好きな曾祖母に相談をした。
すると栄は、「それは、夏希が大人になってきたってことだ。心配することじゃないよ。ただ、悩むのをやめちゃいけない」
それから先は自分で考えるんだよ。と言うのだ。それから、今までずっと夏希は悩み続けていた。
伸びた自分の髪を見るたび、意識のなかで白く光るその後ろ姿を感じると、今でも泣きたくなる。
夏希は最近思っている。
悩むのを止めることへの憧憬は、そのまま、子供であることへの執着に、変換できる気がすると。