掬いあげられるように急に意識が浮上した。
目に付いた時計の表示は7月31日の早朝4時を回ったあたりを示していた。
辺りは暗く、入口から外の光が入って照らされている部分だけがわずかにぼんやりと明るく見える。
その光から、石綿がむき出しの天井をガラス越しに確認できたところで
眠りから覚めた侘助は自分がどこにいるのかを理解した。
車内から、宿代わりに見つけたはずの半地下の人のいない駐車場をゆっくりと見渡し、出口から反対側に振り返ると、
運転席と同じく少し倒した助手席に、伴って家を抜け出したが倣って静かに眠っていた。
それを確かめ、もう一度、車外を見つめる。耳に響く音は、時折上の道路を走る車の音のみで、無人の洞窟のような駐車場は、
夜になって涼しいくらいだった。それだから、眠りから目覚めた要因が見つからず、
不意に終わった眠りの不思議な感覚を反芻している間、すっかり、今の状況が蘇ってきてしまった。
何故、ここにいるのか。何故、家を出なければいけなかったのか。
ほんの数時間前の出来事が目まぐるしいほど鮮明で、不穏な影を持っていた。影はじわりと頭の中を塗りつぶしていく。
気がついて目を瞑っても、もう遅かった。意識が完全な実態を持ってしまうと、いくら引き返そうと、
頭はもう寝ざめよく、清々しい状態だった。
結局観念して、侘助は緩慢に右手を持ち上げた。
掌には何の跡もなかった。
二、三、握り確かめてみて、深い息が胸から出ていくと、その分中身を失ってしまったように思えて、おさまりが悪かった。
実を言うと痛みも強張った感覚も、もうなかったということは見る前から分かっていた。
けれど、刃を掴んだあの瞬間、確かに熱いと感じて、に触らせていた時にも傷はなくとも跡が残り、その熱は続いていた。
熱から忌々しい気配を滲ませて、その感触は、足を急きたて続ける。
だから、そこには生々しい醜い傷があるに決まっている。痛みを感じないことのほうが可笑しかった。
掌の健全な姿を見た今でさえ、忌々しい傷の気配は潜んでいるように思う。
―――いや、そうだと思い込みたいと願っているのだろう。そう侘助は思った。
毒と同じだ。一度、毒だと言われてみると、その後、無害だと保障されていても、
砂糖の丸薬でも戸惑い無く口にすることは難しく、目を凝らして異常を発見しようとする。
傷の無い掌を認識するということは、丸薬を無理やり飲まされている気分だった。
栄は侘助に「死ね」と言ったが、あんな偽物の刃では間違っても死なない。
それが一体、どういう意味なのか、その掌から考えざるおえないからだ。
それを分かろうと、分かるまいと、無駄だと分かっているのに。
否応もなく再び襲来したおさまりの悪さに、侘助は掌を視界から振り落とすことで何とか振り切ろうと試みた。
ここで立ち止まったところで、その後のことは想像に難くない。血族との衝突。
それを狙って、こんにち態々日本に足を運んだわけでもなかった。
自分の頑固なところは10年の歳月と親類の憎しみを買ってでも変わらないということは既にわかっている。
だとすれば、あと20年でも30年でも変わらないのだろう。
しかし、その後者の想像は、前者とは違って、恐ろしいほど現実味が無い。
このまま栄や年の離れた兄姉達に続いて年を重ねていくということが信じられない。
あまりにも自分の持ち物が少なくて、貧しい。時間から受ける恩恵は得られなかったのに、代償ばかり支払っている。
今まではまだ耐えられた。けれど、手の届きそうなところにあったものが触れてみれば感触なんかなく
指先が輪郭を掻き回してぼんやりとなってしまってからは余計に空虚で、
そんなものに手を伸ばした自分があまりにも荒唐で笑えるような気がした。
どうすればいいのかは分かっていて、それをすることを他でもない自分が拒む。
ずっとラブマシーンの完成だけを目標にやってきて、今になって侘助はそれが果たして正しかったのかわからなくなっていた。
いつからか、悪態も、笑みも、狭い箱の中で向かう先を見つけられないでいる。
途方に暮れ、呼び起こされた苛むようなその感覚が這い上がってきて、
手を下した後の侘助は隣のの寝ている背中を眺めた。
口を開かないの真意はわかるはずもない。
いつも許容できたはずのその一歩引いた関係が、今だけは、深い泉に石を投げ入れて波紋だけが広がって、
波が静まればあとはただ石を投げ入れる前の風景に戻っていくような虚しい気分がした。
椅子で寝ることなんてそうなかったのか、初めは散々姿勢が決まらずに蠢いていたが、
今は前に突っ伏して髪で顔を隠しながら眠りに落ちている。
ぎりぎりまで浅く座り、縮まるように足を曲げて前へと体を倒して、せっかく座席が後ろへと大きく倒れているのに意味がない。
表情は見えないが、そんな姿勢で苦しくはないのか、緩やかに肩と肩にかかった髪が上下して寝息を立てていた。
「何がしたいんだよ、お前」
つい、起こすつもりもなく、小さく言っていた。
頓馬に上下する小さい背中に言ったつもりが、自分に言っているような気がした。