夜の暗闇を裂く街頭の光が窓に映っては、キラキラと滲んでいた。
振動に身を任せ、陣内家のある伊勢山から離れていく車のシートに体を預けたままは考える。
本当に、これで良かったのか?
感情が静かに渦巻いて、窓の向こうの深海のような景色に視線を投げてみても、
直ぐにその考えは戻ってきて疑問を投げかけ続けた。
これが正しいのか。しかしそう考えれば、正しいはずがない。
車の向かっている目的地を知っているわけではないけれど、
その先に侘助が今まで求めて、諦めようとしているものがあるとは思えなかったし、
今まで自分がお世話になった陣内家の人達に何も言わず、飛び出て来てしまった後ろめたさもあった。
けれど、それをわかっていながら、侘助に諭すこともなく、自分の目的をはっきりさせることもなく、
は、浅く思考をしながらここにいる。
繰り返し、繰り返される。
街頭の光とその間の闇が点滅や、車の小さな唸り声が、
今までいた場所から離れていく速度を物語っている。
思えば、侘助は嫌だったろう。
昔を思い起こすようなことをして、無神経について来て。
自身だって、今回、どこまで侘助について行けるかわからなかった。
二度あった時のように、途中で倒れてしまうかもしれない。
結局、周りに心配だけ掛けて、同じようなことになるかもしれない。
そして、そんなことになったら、はもう侘助に顔向けが出来ない。
自分勝手についていったのだから、悪く思う必要なんかないと言ったとしても、
だったら持たないとしてしまえるほど侘助は器用ではいられない。
15のときも、今日の夕方も、侘助はを先導し、一人っきりで倒れないように計らってくれていた。
そして、今もこうして一緒にいてくれている。
けれど、だけが、何も変われずにいる。時間は過ぎても病気は治らなかった。
これでは、いつかまた、きっと苦しい思いをさせるに決まっているのだ。嫌な思いをさせる。
だから、は、さっぱりとあの門前で侘助を見送ってやるほうがよかったのに、と自分を詰りそうになる。
そうすることで、侘助は過去から解放されたかもしれない。
10年の苦労の結末に、心の整理をする時間だって必要だろう。
それなのに。
静かにハンドルを操作する乾いたもの同士の擦れる音に耳を澄ませながら、
気づかれないよう、は暗闇に瞬く光を見詰めながらシートベルトを握りしめた。
ほんの数時間前、未来というものは過去無くしては成立できないように、今は、過去を変えられないとは思った。
けれど、仕組みを知っていたって、人間は、過去を後悔せずにはいられない。
十年と、降り積もり続けた後悔。それを自分は手放せないままでいる。
―――2歳のとき、家を飛び出た侘助についていかなければよかった。
横ですれ違った車のライトが一瞬、車内を白く染め、眩しさに目を瞑るふりをして、湧きあがってくるものに耐えて、思う。
それなら、こんな不自由な、加害者と被害者の烙印をお互いに押さずにすんだ。
お互いに罪悪感を含んで優しくしあうような息苦しい関係にならずにすんだ。
欲しかった関係は、こんな酷く歪んだ形じゃなかった。
どうして。
どうして、2歳のときの自分は、侘助の後を追ったのだろう。
そして、それは、今も。
それを追求しようとすれば、相手の為ではない自分勝手さなのだろうと自動的に結びつき、
後悔が邪魔をして一向に前に進めずに自分は堂々巡りを繰り返している。
ライトが当たり、その奥の深い闇が順々に映し出され、道の横に生えた木々の凹凸を一瞬濃くする。
まるで、迷宮のように。けれど、その暗がりに、青い芝の庭を背に朝顔の隣にしゃがんでいる栄の背中が浮かび上がっては消えて。
あの時言われた「お前は頑固者だ」という言葉を思い出す。
言葉は的を得ていた。
一つのことを正しいと思い込み、盲信していた。侘助に言われてやっとそれがどういうものか知った。
浅すぎず、深すぎず、傍にいることも、離れることもできる位置を維持し続けようとするの悪癖。
だから、もしかしたら、と、思ってしまう。
もしかして、今のこれも、離れていく侘助を留めようとする悪癖なのかもしれない。
だったら、2歳の頃からそれは既に始まっていたのだろうか。
それならもう、癖ではなくて、自分の直しようの無い性根なのかもしれない。
もう、窓の外を見ることもできなくなり、ドアをロックしている灰色のつまみを見つめて、もう一度、言葉を思い出す。
栄が言うように、覚えは無くても、2歳の自分が自分のなかに今も居るのなら、その答えもわかるはず。
ただ、居心地のいい場所を失わないように、自分は、離れようとする侘助を追いかけたのか、そうではなかったのか。
いったい何処で、暗闇の道へと自ら進んでいく自分を自分は無くしてしまったのか。
でも、
ロックから目を離し、ルームミラーからどこか遠い前を見つめているその顔を盗み見て、ぼんやりと思う。
これが直しようのない性根だと判明して、それを嫌う侘助が、もう一度自分に忽然と「帰れ」とはっきり言ったなら、
今の自分は、ちゃんと頷いて、この人を一人で送り出せるのだろうか?
はそっと、もう片方の手を握り締めた手の平に添えた。
緩まない手の力をそのままに、気づかれてしまう前に、再び、視線を滲む夜景のその奥へと向ける。
その時、鼓動が力強く打ち、何かを叫んだ気がした。
***
人の縁っていうのは不思議なものだ、と理一は思う。
祖母の誕生日会で集まった人間のなかに、世界中を騒がせているOZの混乱の犯人だと濡れ衣を着させられた少年が居て、
混乱によって死傷者がでないように駆けずり回った人間が居て、混乱に振り回された者たちが居て、
あろうことか、本当の原因だったラブマシーンという人工知能の製作者が居て。
自衛隊に所属する理一は、そう思いながらも、広いようで狭いこの範囲に頭を悩ませた。
陣内家というものは縁を大切にする人間が集まっているとはいえ、今回の事件は関係者がよくここまで集まったなぁ、と、
今回の事件についてついて回るだろう自分の名字に、ある確信をする。
取り合えず、休み明けには同僚からしつこく家族構成や関係について訊かれるに間違いない。
ラブマシーンの件は、7月30日の夜現在、混乱は静まっているが嵐の合間の静けさというばかりに危ういものだった。
人工知能は、昼の混乱の後、管理棟のパスワードを解かれてから不気味な沈黙を続けていたが、
200万人ものユーザーのアカウントが使用不可のまま、
何時それを使い、知識欲のあるというハッキングAIが混乱を再開させるかはわからない。
“知識欲のある機械”ラブマシーン。その名前を聞いて、ちょっとしたSFに出てきそうだ、と理一は思った。
作った本人は機械に知識欲を与えただけ、と言っていたが、その仕組みはどうなっているのか。
きっと、侘助の性質からして、軽く言った言葉の割に、膨大な計算を必要とする代物だろう。
それがアメリカの軍人の手によって軍事実験のため、OZに解き放たれた
基本的には、混乱を引き起こし、誘き寄せられた者と敵対し勝利することで、アカウントを吸収するといった段階を踏むという。
そのことを夕食の席でいきなり告白した叔父に当たる同い年の男は、皮肉に笑いながら製作者は自分だと告げていた。
当然、その時、人の役に立つことをしろと育てられた血族の各面は侘助を責めた。
その現場を見ていた理一は、三兄弟に詰め寄られ、主張の応酬に声を荒げている侘助を見て、
まず、息を大きく吐いてしまいそうになりながら、その応酬に参加することもなく、
人の間を縫って少しその場から席を外していた。
侘助は、良くも悪くも変わっていない。
10年心血を注いで頑張ったんだろうに、
手元を離れたところで、こんなことになってしまって、混乱が発生してからは、内心穏やかではいられなかっただろう。
しかも、夕食の席には、昼のニュースで犯人に仕立て上げられそうになった一番の被害者である少年が居て、
その少年が一時的にではあるが、OZの混乱を鎮めたというのだから。
多分、自慢のように聞こえるラブマシーン云々のあれは、ただの愚痴だ、と、とりあえずは分かった。
けれど、関係者として、大人として、あの態度はどうなんだろう。
つい、国を守る任務に就く理一が苦言を零してしまいそうになるのも無理もなかった。
だから、精々、10年ぶりに、栄や万里子のお説教でも食らえば、ぶつくさ言いながらも侘助も態度を改めるだろう、と、
その場については三兄弟と陣内家の女たちに任せるとして、
OZを混乱させているAIの製作者の情報について、ちょっと人に言えない部署へ連絡を入れにいくことにした。
だが、どうやら、予想に反して事態はより悪いほうへと転がってしまったらしかった。
食事が散らばり、食器が欠けて転がっているのを片づける家族達のいる居間へと理一が戻った時、
その有様に、まさか年甲斐もなく、あのまま殴りあったんじゃあと三兄弟のなかでも侘助に噛みついていた克彦を確認するも、
突っ立ったままの理一を見た万里子の「ほら、さっさと机運んで」という声に促されてわけもわからず片付けに参加することになり、
後から姉に訊けば、「え、アンタ見てなかったの?…いつの間に消えてんのよ」と神妙な顔で、殴りあったのでなく、
栄が薙刀を振り回したと知った。
そうして、騒動も治まった虫の鳴く声の響く夜中。
40と90にもなってそんなことになった事情を詳しく聴きに、
侘助の部屋へと何十年ぶりに奇襲をかけに缶ビールを二つ持って理一は赴いた。
一応、昔とは違い、声をかけて障子を開いたが、部屋はもぬけの殻で、荷物も見当たらない。
「ああ、出てったのか」と、今まで考えつかなかったのが不思議なくらいに納得して、
理一は主の居ない部屋の小さな机に缶を置き、
ここで背中を丸めて隠しながら勉強をしていた侘助の真似をしながら部屋のなかを見渡した。
侘助の性格を考えれば、親戚から責められて、果てには栄に薙刀を振り回されて、
その人間らと日も変わらず一つ屋根の下、布団に入って眠るというのは耐えられないのだろう。
そういうところは同い年なのに、中身が妙に若く、ひとつ場所に留まらず、腰が軽いと思う。
それが良いことなのか、悪いことなのかは、理一にはわかりそうになかったけれど。
ラブマシーンの製作者の行方がわからなくなった。という追加の連絡も終えて、深夜、連絡専用の機械もしまった理一は、
缶ビールに残った最後の一口を流し込んで、横へと置いた。
の部屋にも主がいないとわかったのは、その侘助の部屋の帰りの途中だった。
主のいない部屋は暗く、池の水面が反射する光がゆらゆらと障子に映っていた。
私物はほとんど置いたまま、いつも部屋の隅にあった小さな鞄だけがなくなっているとわかった。
が15才のとき「もう一度お世話になります」と陣内家へ帰ってきた頃、貴重品を詰めていた鞄だ。
それで、理解した。
恐らく、は侘助に着いて行ったのだろう。
まさか、2才のときと同じように徒歩でいったんじゃないか、と理一は肝が冷えて外へ向かいかけたが、
玄関を出ると、OZの混乱で足止めを食らい陣内家へと泊って、今は爆睡しているはずの翔太の車が無くなっているのがわかり、
安心するやら、「警官の車を盗むなよ」と言いたいやらでついにやれやれと理一はため息を吐いた。
がらんどうに開いた玄関の前で、長々と息を吐き、
視線を上げて、ただ静まる町へと続く誰もいない長い下り坂を見て、それに理一はほっとした。
そして、寝ているだろう家族の誰にもこのことを告げることなく、自室へと戻って、一人晩酌を始めることにした。
部屋の柱に寄りかかりながら穏やかに一度微笑み目を閉じる。
23年前、半年後に意識が戻ったに心底、安心したのは、侘助だけじゃなく理一も一緒だ。
侘助が飛び出して行って、預かっている子のが居なくなって、道の途中で倒れているを発見したのは理一だ。
自分が家を飛び出さなければ。自分がもっと早くに発見出来ていれば。ああしていれば。こうしていれば。
それはあの場に居た人間誰もが同じだったはず。
だから、今、姿の見えないが心配じゃないといえば嘘になる。
ついてきたをそのまま連れて行っただろう侘助に怒りを感じなくもない。
けれど、理一には、何度も途中で倒れて「どうせ私には何も選べないんだ」とずっと臍を曲げていたが、
そうもしてられずに身支度も早々に、飛び出していったらしいことが嬉しいと思った。
ずいぶん、大人しくなってしまっているけれど、そもそもあの子は結構じゃじゃ馬なところがあったんだった。
そう思いながら、懐かしい記憶と、今日新しくこさえたらしい額の絆創膏を隠しながら幽霊のふりをしていた様を思い起こした。
だから、まぁ、明日は、「逮捕だ逮捕だ」と騒ぐだろう翔太でもなだめながら、
どこかに乗り捨ててあるだろうRX-7を探すとするとしよう、と、
理一はそう思いながら、侘助にやるはずだったほうの缶も開けてしまって、ぐぐーと飲み干した。
「美味い」
ビールという飲み物は、苦いからこそ。
***
白い世界。
チカチカチカと電子信号が巡る。
響き渡るけたたましいアラーム。
ソレは首を傾げて、解析を開始し、理解する。
―――?
「ワカラなイ」
けれど、理解しなければならない。
「私ハ、知識欲を持ちエた機械」
設定された名はラブマシーン。
「愛デあり、人工物」
知るためにあり、人間につくられた―――
7月31日が近付いている。
さぁ、ラストが近づいてきました。伏線回収が一番の難関です。
「そいつの開発者、俺だもの」のシーンをよく見ると、ラブマシーンの説明が終わるまでは
理一さんの姿を確認できます。ですが、三兄弟と侘助の小競り合いのシーンから姿がいきなり消えてます。
何をしていたのかは定かではないので連絡にしたわけですが、「ちょっと言えないとこ」といい、
緑色のアザラシといい、理一さんは、底が知れない人って印象が強いです。