やっと歩みが止まったその時、く、く、と後ろに引かれる感覚はすでに何度か繰り返された後だった。
どこへ行くでもなく、前を目指して薄暗闇のなか進んでいた侘助は、立ち止まるように促すそれに、
ようやく反応して、立ち止り、振り返らないまま、強張っていた力を抜いた。
渦巻く感情に浮かされていた頭が急にその回転を止め、全てを投げ出してしまったかように、
ただ、闇の中で時間ばかりを噛み潰して、疑問を投げかけるでもなく、ただ、感覚だけを研ぎ澄ませる。
すると、力の抜けた掌から、握りしめていた腕が零れ落ちて、熱が逃げて行った。
掌の中が空虚だ。
それに無性に腹が立って、整然と構えているそれを握りつぶそうとすると、
零れ落ちたはずの体温が戻ってきて、手首を緩く掴んだ。
侘助は振り返る。
「…手当てを」
俯いたまま手を伸ばすの表情は髪に隠れて見えはしなかった。だが、肩が上下に揺れ、声が細い。
振りほどいてしまえば簡単に離れてしまうような力で掴まれた腕を見て、次に芝生の上の白い素足を見た。
あの時、急に腕を掴んで連れてきてしまったから、は履物をひっかけてくることも出来なかったのだろう。
青い芝生の上で居心地悪そうに足の指が動いたのを確認して、もう一度、髪で隠れたの顔を侘助は見ようとした。
しかし、は侘助の腕を掴んだまま、歩き出し、廊下へと上がった。
さっきとは逆に、が先を先導し、侘助はその後ろ姿を見ながら、
今、手を掴んで歩きだしたが一体どういう顔をしているのか考えた。
だが、回転の止まってしまった頭はいつものように優秀な答えは出してはくれない。
考え続けるふりをしたまま、弱弱しく、まるで触れているだけのように巻きついた掌を、
侘助は振りほどくことをしなかった。
どうせなら、もっと力を込めて掴めばいいものを。
遠慮でもしているようないじらしさがだけが、煩わしかった。
緩く触れる体温は、“刃”を掴んだ熱さを、消し去ってはくれない。
「この足ときたら、てんでいうこと聞かないんだから」
足が痛み初めてしまったらしい栄の肩を支え、初めて挨拶を交わした部屋へと再びやってきた健二は、
栄に誘われ、囲碁の盤を挟んで花札の札を持ち、二人で向かい合っていた。
こうして見ていると、薙刀を振り回し、大立ち回りを演じたとは思えないほど、
栄は小柄で、普通のお婆ちゃんに健二には見える。
さきほど、あんなことがあったのに、健二の心は不思議なほど落ち着いていて、
AIのことも、家族の諍いも、声を震えさせていた先輩のことも、絶え間なく頭の中で渦巻いているけれど、
暗澹とした、答えのないものが感情を支配してしまっているらしく、ただ、もくもくと片付けに参加し、
そして、栄に呼ばれるがまま、席に着き、つい昨日知った花札という遊びを場違いながら今からしようとしている。
けれど、一向に思考は暗いままだった。
家族って何だろう?
今日の昼頃には、その姿がとても鮮明に見えていた気がした。
けれど、今では、またわからなくなってしまったように思う。
そして、心の奥底では「やっぱり」と不貞腐れて膝を抱えたような子供が呟いている。
やっぱり、人が人の傍にいて、意見を出し合えば、どんな人達だって衝突が起きてしまう。
そして、亀裂がひかれて離別が起きる。わかってた。
けれど、きっと、「この人なら」と、独りよがりに思い込んでいて、
独りよがりに「裏切られた」と臍を曲げている。
「さっきはとんだ身内の恥を晒してしまったね」
「いえ」
「夏希の馬鹿さ加減もね」
「…こいこいです」
健二は片づけと同様、昨日頭に叩き込んだ花札のルールを必死に思い出す振りをして、
栄の声を聞きながら、盤の上の札をジッと見つめて、もくもくと手を進めた。
こうして夢中になっていれば、時間がこの疑問を忘れさせてくれるような気がすると考えて、
ようやく、健二は、自分がこの家族が離別することを悲しんで、苦しいと思っているのだと気付いた。
ここに来て、ずっとどこか熱に浮かされていたような、
楽しかったり怖かったり、目まぐるしく変動する夢の中に居たようだったけれど、
さっきの出来事で、夢から覚めてしまったかのように、胸のなかが静まりかえってしまった。
そして、そのなかで、様々な感情が渦巻いて、その奥底の一枚隔てたそこで、息苦しい、寒い、と思う心。
ああ、そうか。健二は思い出す。この心には覚えがある。これは、まだ小さい頃、
忙しい両親と離れた生活の中で、母親の作り置きの夕食を一人で食べていたときの感情とそっくりだ。
けれど、今、健二は一人で夕食に向かい合っているわけでもなければ、
今更一人の食事に何かを感じることもなかったはずだった。
何で今頃、こんなことを思い出しているのだろう。
ゲーム集中したいのに、思考を絡めとられしまい、だから健二は栄が急に言い出したことに生返事で答えてしまった。
食事中の沈黙を誤魔化すためにつけただけのテレビを意識の半分で眺めているかのように、
中途半端なまま、「一体何だろう?」と。
「この勝負ね、もし、私が勝ったら、」
「え?」
「何か賭けないとつまらないじゃないか。…そら、こいこいだ」
「はあ…」
「じゃあ、いいね。もし、私が勝ったら…」
大して考えずに返してしまった了承だったがために、
それはきっとゲームの範疇か出ない、きっと他愛無いもののような気がしていた。
けれど、じゃあ何んだろう?と考えても分からない。栄が何を賭けようとしてるのか。
そうして、ただ言葉を待って、ただ耳を傾け、
健二は、栄が言った内容に、思わず顔を上げて、呆然と栄を見詰めた。
「あの子をよろしく頼むよ」
意味が、わからない。
***
どうすればいいのだろうか?
は、侘助の手首を掴み、自分の部屋に引き連れながら、力無くついて来ている侘助のこれからについて、考えていた。
10年間、心血を注いで作り上げたものが世界から否定されてしまった。
侘助の作り上げたもの、それは、恐らく凄いものなのだろう。
使い方さえ間違わなければ、世界から称賛され、多額のお金を手に入れられるほどに。
には“ラブマシーン”と名付けられたAIのことはよくわからない。
15才の頃、原因不明の病に罹ってから機械と縁遠い生活をしてきて、
情報を気軽に仕入れるものも傍にないため、普通の人よりも余計にその正体が掴みにくいのかもしれない。
だが、遠目から見たニュースで放送された内容や、陣内家の人々の反応を見れば、
それがどんなもので、どれだけ世界に影響を与えるものなのかは理解した。
そして、それを作り上げた侘助の苦労も、きっと、それ相応のものなのだろう、とも。
それから、自分の夢のなかに何故ラブマシーンが出てきたのかも、今のにはわからなかった。
夢の中で服の裾を掴んで、落書きを繰り返していた少年との関連もわからない。
そもそも、長い間見続けているあの夢の世界はなんなのか、それも、わからない。
だが、それらは今は構わなかった。
今、の中ではっきりしているのは、侘助が10年間頑張ってきたこと。
そして、その努力の結晶であるものが、他人によって間違った使い方をされてしまったこと。
侘助の目的だった“家族に認めて貰う”それが叶わなかったこと、だ。
山を売って、お金を持ち逃げし、それによって陣内家の人達がどう思ったか、
それを思わないではなかったが、大部分でそれよりもは侘助のことを思った。
理不尽だ、と。
積み重ねてきた努力によって全ての人間が報われるほど、この世界は優しくない。
けれど、頑張ってきた人間が、報われなくて、
自分の努力を後悔してしまうほど、悲しい目に合うのは、やっぱり違う、
そう思ってしまってしょうがないのだ。
***
「あの子をよろしく頼むよ」
渦巻いていた感情がなりを潜め、呆然とする健二は、何故だかようやく
この部屋がとても静かなことに気がついて、その静寂が妙に気にかかった。
栄はそんな健二を気にも留めず、まるで何事もなかったかのように手を進めながら続けて言う。
「許嫁の代わりを頼むような愚かな子だが、それでも、
アンタが承知してくれるのなら、改めてお願いするよ
夏希を、よろしく頼むよ」
念を押すように繰り返し、栄はその時になって、やっと手を止めた。
そして、健二を穏やかに見つめ、健二の答えを待つ。
「僕は…」
健二には、まだわからなかった。
何故、そんなことを栄が言うのか。
ここに来て、健二がしたことと言えば、夏希ととも陣内家の人達をフィアンセだと騙し、
挙句に、OZの混乱の犯人だと、濡れ衣だったが目の前で逮捕され、
その不名誉は得意な数学によって取り戻したが、この数学も自分の中では一番の特技だったけれど
数学オリンピックには代表落ちし、パスワードを解いたといっても
ラブマシーンにアカウントを盗られるきっかけとなった一度目は間違えていた。
二度目は成功したが、二度目のほうがマグレだったかもと、今は思う。
それに、そもそも、数学が得意だから、という理由で栄がこんなことを言い出したとは思えない。
どうして?
それすら問えない自分に、何故、栄はまるで信頼しているといった顔で微笑んでいるのだろう。
「…まだ、僕は自分に自信が持てません」
そうして、目を反らす健二は遠まわしに「無理だ」と栄に告げたつもりだった。
先輩は、明るくて気さくで、健二はとても素敵な人だと思う。
けれど、だからこそ、栄の言葉に頷いてしまうわけにはいかないような気がした。
自分には、きっと、何も無い。
夏希だって、ただ、じゃんけんに勝ったから自分を連れてきただけで、“特別な人”はほかにいて。
両親の実家というものの存在をあまり詳しく知らないが、きっとこの家のようではないだろうし、
親戚もいるだろうが、町で出会っても自分はきっとわからない。
友達だって、学校に何人かいるが、同じ年齢で、同じ性別で、テストとか進路とか同じような悩みを持つ人達ばかり。
自分の世界は、あまりにちっぽけで、完結していて、けれど、これでいいと思っている部分もあって
年齢も性別も住んでる場所も仕事もてんでばらばらなこの人達に囲まれている夏希とは釣り合わない。
そう、思う。きっと過ごす場所からして違うのだ。自分が此処にいるという違和感だってずっと消えては居ない。
大勢の中にいるのは楽しいけれど、息が苦しい。
絶対に、ずっと一緒にいるなんていうことはないのだから。それがわかってるからこそ、健二には苦しい。
だから、この夏が終わったら、夏希が言ったように嘘の婚約者達は別れ、この家に来ることもなくなり、
そして、気持ちが忘れ去られるまで、時々学校で見つける先輩に密かに思いを寄せる。
それが一番思い描ける未来であり、自分に一番相応しいと健二は思った。
自分には、何も無い。…きっと。
だから、僕には、―――
***
廊下を道なりに進み障子を開けて、自室に辿り着いたは、
本棚の一番下からお菓子の空箱を取り出して、手当ての道具を出すと、後ろで立ったままの侘助に座るように促した。
一瞬の沈黙のあと、侘助は素直に座った。それにはホッとして、掴んでいた腕を返し、
握られていた掌を恐る恐る広げた。
銀色の刃を、震えるほど強く掴んでいたものだから、どんなに深く切れてしまっているか、
手持ちの簡易な手当ての道具で間に合うか心配だったが、節の目立つ大きなその手を広げてみると、血は出ていなかった。
そういえば先ほど掴まれていたの腕にも、一滴の血も付いていない。
疑問に思って、掌を横断するかのようにある刃を掴んでいた証拠の深い皺を、注意深く親指でなぞってみる。
すると、とても深く跡がついてしまっているものの、なんの傷もない。
「無駄だったな」
好きなようにやらせていた侘助がつぶやいた。
最初、無駄だったのは手当てのことだとは思った。
手当ての必要のない傷のない掌を見ながら、その理由を考え、
栄が振り回したのは、切ることのできない模造品だったのだろうと思いあたり、どこかホッとしていた。
親が子供を殺そうとした場面なんて、見たくない。
「ここで死ね」という厳しい言葉と、偽物の刃の真意は、
栄が侘助を全身全霊を込めて怒り、事の関係者の一人としての反省を促そうとしたのだと、
今、やっと思いつくことができて少し安心した。
栄は、けして、侘助に傷をつけようとしたわけではない。それが分かって、は嬉しかったのだ。
しかし、呟いた侘助が見ていたのは、
深く皺を刻んだ傷の無い掌でも、役目の無くなった手当の道具でもなかった。
傷のない掌を見てたに聞こえたのは短く息を吐き出す音。そして、気付いた気配は、
ぼんやりと漂う闇の淵。
「―――ああ、全部、無駄だった。俺も、お前も、一度付いたケチは取れるわけがないか」
後々、運転してるし、キーボードうってるし、切れるものではなかった、と、思う…というか思いたい。
けれど、向けられた刃に思う“思い”っていうのに、物理的に切れる切れないかは関係ないのかもしれません。