さっきまでとは打って変わって、誰もが口を噤み、黙々と作業を繰り返していた。
庭から聞こえる虫の声と、食器のすれるカチャカチャという音、そして、畳を擦る足音。
床に飛び散った料理をまず拾い上げ、
畳に吸い込んでしまったビールやジュースを雑巾で覆い、ポンポンと叩く。
なんで、こんなことになってしまったのか。
万里子は割れてしまった皿やコップの破片に気をつけるよう注意し、小さい子供らを部屋から遠ざけ、
男たちに机を運ぶように指示し、女達と物を拾い上げながら、
先ほど発見した畳の上に転がっていた真っ二つになってしまった大皿を手に、ため息を吐いた。
この大皿は、万里子がまだ若い頃、家族が増え、親戚の集まりで食器が不足したときに買い足したものの一つだった。
家族が集まるたびに食卓に並び、おかずがよそられた。
それがもう、竹が割れるように無残にも真っ二つ。ほかの食器も、無傷じゃないものが多そうだ。
奇跡的に皿にのっていた、まだ手のつけられていないおかずも、
食器が割れたところにあったとなっては、破片が入り込んでいるかもしれない。
小さい子供もいる。潔く、捨てなくてはならないだろう。
なんでこんなことになってしまったのか。
そう考えると、戸籍上は母の養子だが、年齢的に、自分の息子に近い侘助の顔が浮かぶ。
まったく、もう少し言い方とタイミングというものがあるだろうに。
大皿の割れてしまったかけらの両方を持って、不器用な男の背中を思い出す。
幼い頃から知っている侘助の皮肉な性格は、口煩い母親役だった万里子は十分に承知済みだった。
***
引き取られたその日から、妙に捻くれていた侘助は、意外にも、“正論”しか言わない子供だった。
けれど、その正論というものがやっかいで、本人の性格を反映してひねくれている。
大人の言葉の裏を探り当てては、嫌な笑みを浮かべてるようなどうしようもない悪ガキで、
大人の神経を逆なでるようなことを言っては、正論じゃないか、とニヤニヤしていて、
その笑みを見ながら、何度、ほっぺたが痙攣したか、万里子は覚えていない。
そのくせ、自分の本音は綺麗に隠し、こちらをのらりくらりと煙に巻く。
考えが大人びているくせに、意地っ張りで、子供っぽく、静かかと思ったら、
こっちが怒鳴って叱るようなことを平気でニヤニヤとしながら言う。
「アイツのことはよくわからん」そう言ったのは万里子の弟のどっちかだった。
母親代わりの万里子も、侘助の真意を汲むのはなかなかできず、
まず、その態度で頭に血が上って、叱ってしまって、後であれはああだったんじゃあ…と思いつき、
謝ろうと思うのだが、その度に、本音を隠そうとする侘助がその気配を感じ取って、
新たに皮肉を言うのだから謝ることができない。
東大に行きたいと言い出したときも、思い返せばそうだった。
その言葉を聞いた万里子が、学費について一瞬でも悩むそぶりを見せると、侘助は、
「今年は理一も居るし無理ならいい」とニヤッと笑って言った。
当時の陣内家の経済状況からすれば、それは正しく“正論”だ。
けれど、親心からすれば行かせてやりたい。そういう親の葛藤を見定めた上で、
侘助はニヤニヤと笑いながら「うちは貧乏だから」と馬鹿にするみたいに、わざと神経を逆なでして、
“さっきの行きたいは嘘。自分は行けなくてもなんともない。だから諦めろ”と手のひらを返す。
そして、その時の笑みは、本当に、素晴らしく、憎たらしいのだ。
けれど「いらない」と言ってしまった子のひねくれ具合を、とうに知っていた万里子からすれば、
その子供が「欲しい」と自分に声に出して言った時点で「譲れないほど欲しい」のだから、
金を借りることになろうと、叶えてやろうと思う。
だが、結局のところ、いつだって、距離を取ろうとするのは、侘助のほうなのだ。
万里子のその決意を知ってか知らずか、頭の良いこの天邪鬼は、ついには自分で奨学金を勝ち取り、
足りない分はアルバイトをして稼ぎ、東大へと向かうと言い、実際にそうなった。
まるでそれが当たり前のように。表面上は涼しい顔をしている侘助に対して、
歯がゆいような憎たらしいような感情を強くもてあました。
その後、何度か仕送りを侘助に送ったが、音沙汰なく。
果たして十分だっただろうか、と、今でも万里子はそう思う。
けれど、音沙汰なく黙っているのなら、きっとそのお金は何かの足しにしたのだろうし、
プライドの高さは一級品なので、返してこなかったということは、それなりにギリギリだったのだろうとも思う。
捻くれ者。
家の山を勝手に売って、どこかへ行って、10年も経った後に、ふらっと帰ってきて、
そして、良い意味でも、悪い意味でも、変わっていなかった。
けれど、
万里子は不安に思う。
理一が防衛大学に行くと言って、今まで積み立ててきた理一の分のお金が余り、
侘助に「東大に行ってもいい」と理一が告げに行ったあの時のようであって、今日はもっと酷い。
侘助は大丈夫だろうか。
万里子は、侘助が世界を混乱させているラブマシーンの製作者だと知って初めこそ驚いたが、
今ではそんなに気にはなっていなかった。ただ、心配だ。この状況があまりにも昔に似てるから。
割れた皿を静かに重ね、万里子は思い起こしながら不安を窘める。
侘助は、今日、駅から此処までバスで来て、あとは歩きで来たはずだ。
持ち主の分からない車は、家にはなかったし、もうこの時間にバスは来ない。
なら、朝のバスの時間まで、侘助がこの家を出ていくことはないだろう。そのはずだ。
まさか、昔みたいに、歩きで出ていくなんて無茶はしないだろう。
侘助が家を出て行って、
がついて行って、
侘助が町に出て、
は道の途中で倒れて、
それを繰り返すはずがない。
意識が戻らないに向けて言葉にできない謝罪を繰り返しながら日常を過ごす姿も、
山を売る直前に、を迎えにきた侘助がに向けて、いつもの捻くれはどこに行ったのかとても素直に謝っていたことも、
昨日、家に帰ってきたあとから、ちょくちょくを気にかけていたことも、それを見てきたから、万里子は余計に思った。
侘助は繰り返すことはしない。それだけは絶対に。
それはあの時、追いかけようとしたに振り返り、自分から手を掴んで連れて行ったあの行動にも表れていた。
だから大丈夫だ。
万里子は、胸を撫で下ろす。大丈夫。きっと。
大皿は割れてしまったけれど、また、おかずを並べられる大きな皿を買ってこようと万里子は思う。
***
深夜。
誰もいなくなった居間に行くと、電気も消されて、静まり返り、
あの時のひっくり返った料理も机も綺麗に片づけられていた。きっと皆が率先して片づけたのだろう。
親類でもなく自分が連れてきた健二も、何も聞かずに、片づけを手伝ってくれていた、と思う。
それを申し訳なく思うけれど、夏希には、皆が沈黙したまま、黙々と動くその場の空気が耐えられなかった。
だから、呼びかけられた健二の声に振り返ることもなく自室へと戻り、
時間が経つのと、自分の心が落ち着くまで待つことを、最優先することにした。
あの時、
自分が、悲しいのか、苦しいのか、わけがわからなくなっていた。
侘助が帰ってきた時や、が縁側に座って声を掛けてきた時、栄の声や、親類達の笑顔や喧騒が、
ぐるぐると頭の中を繰り返し駆け巡って、何をしていいのかわからずに焦燥に駆られながら、考えていた。
ただ、このままじゃ、きっと、誰かに八つ当たりしてしまうというのは確実で、それが嫌で一人になりたかった。
結局、そう思う通りに、無視をして歩いて行った自分に、心配してついてきてくれた健二に向って声を荒げてしまって、
余計に自分が情けなくて部屋へと向かう足を速めた。
そして、陣内家に来ると必ず借りるいつもの部屋に着き、襖をぴったりと閉めたあと、
押し入れから布団を引きずり出し、整えることもなく、夏希はそこに倒れこんだ。
すぐに閉じたはずの瞼に映るのは、侘助に連れられて行くと、
彼女の後を引くように部屋の明かりを反射して闇に溶け込む長い黒髪だった。
何度も何度も写りこむその光景に、顔を寄せていた布団からずらして、
目を開き、自分の頬と布団にかかる髪をじっと見つめた。
少しうねって布団の上でゆるい円を描く。夏希は思った。―――別に、これだって、嫌いじゃない。
そのままぐるっと体制を変え、天井を腕越しに見た。
自分のなかで整理しきれない感情が渦を巻いているのを自覚する。
不思議と涙は出ない。あの部屋から去ろうとした侘助が、振り返り、戻ってきて、の手を取ったとき、
目の後ろが重くなり、胸がギュッと締め付けられて、そのまま泣いてしまうと思った。
けれど、涙は出ず、蓋を押し込められてしまったかのように、一向に苦しいままだった。
これで二回目だ。
侘助が夏希を置いていった一回目である10年前は自然に泣くことができた。
侘助がいけない事をしてしまい、陣内家にもう帰ってこないかもしれないと聞かされて、
同時に、侘助がを連れて行ったと知ったとき、羨ましくて、恨めしくて、そんな感情を抱くことが厭で、
もっとも純粋なところでは寂しくて、せっかく、夏休みで陣内家に来たというのに、わんわんと泣いた。
そして、向こうで病気が悪化したらしく、陣内家へ戻ってきたに対して、苦手に思うようになってしまった。
再び、ぐるっと体をひねり、額に布団を付け、うつ伏せになり、夏希は目を閉じて思い返してみる。
長い髪。掴まれた腕。鼻の先と目の下がじんわりと熱くなった。汚い感情が湧き出しそうでこれは嫌だ。
はいつも笑ってる。優しげに。静かに。全然苦しそうじゃなく。辛い病気で。皆に大切にされて。ああ、これも嫌だ。
のっそりと起き上がり、夏希はの部屋の方向を見た。今はいるんだろうか。それとも侘助の部屋にいるんだろうか。
侘助はまた陣内家から出ていくのだろうか。―――せっかく帰ってきたのに。
どうしてだろう。ラブマシーンを作ってしまったから?
けれど、侘助は言っていた「まさか、OZをつかった実験とは思わなかったよ」
だったら本当はおじさんは全然悪くないんじゃないの?
それを問いかけに、侘助の部屋へと行って、そこにが居たらと思うと、力が抜けて、
頭から布団へと再びダイブする。
ちゃんと説明すればいいのに。侘助も…も。
夏希はギュッと布団に抱きついて思う。
あんな風に悪びれずに、ちゃんと弁解して説明して、謝れば、きっと皆わかってくれる。
10年前だってそうだ。お金が必要だったなら、それを説明してお願いすれば大丈夫だったんじゃないの?
だって、ずっと長い間侘助の傍にいて、その事情だって知ってるんじゃないの?
それをなんで説明しないの?なんで独り占めするの?
皆も皆だ。ちゃんとおじさんの話を聞いた?
作った人だからって安易に責めて、訳だって、話も訊かないで、それぞれの不満をぶつけて、
栄お祖母ちゃんも―――「死ね」なんて。
「…死ね、なんて、言わなくてもいいじゃない」
ぐりぐりと布団に顔を押し付けると、じわっと涙がやっと滲んだ。
死ぬっていうのは、一番悲しいし、苦しいことなのに。
もう会えない。今までずっと一緒に居たのに。話もできないし、
お葬式が済んだら触ることだって二度とできない。
ましてや、家族の一人がそうなったら、とても、とっても悲しい。
夏希は布団に顔を押し付けるのを止め、摩擦で腫れぼったい眼を開き、のろのろと左手を動かして右手の小指をギュッと握った。
こうすると、心が温かくなるような気がする。夏希が悲しくなるとやる癖みたいなものだった。
けれど、本当なら、自分ではなく誰かほかの人に小指を握ってもらったほうが、
効果があるのだが、家族に不満を抱いてしまった今は、誰にも会いたくなかった。
小指を包み込む体温が、だんだんと広がり、全身を包んでくれているような気持ちになって、
呼吸が落ち着いて、本当なら、ゆっくりと落ち着いていくはずなのに、
なんだか今回は苦しくなるばかりだということに夏希は気がついた。
そして、思い出して、すぐに指を離した。
ああ、そうだった。
―――「こうしたら、悲しいことは、もう、終わりだ」
そう教えてくれたのは侘助で、
眠らずに泣き続けていた、幼かった頃の夏希は、
大好きだった祖父が亡くなってから行われたお葬式の途中で、やっと眠ることができたんだった。
―――おじさんは、ずるい。
そして、泣かない抵抗もできずに、さめざめと泣いて、夜も更け、
水分が出尽くしたような頭はあることを思い出し、夏希は、誰も居ない時間だと確かめたあと、再び、居間に訪れていた。
シン、とした部屋は、まるでさっきの出来事なんて嘘みたいに整然となっていて、不安になり、
夏希は痕跡を探すかのように、見渡して、廊下から、部屋へと入ってみる。
すると、少しまだ、畳が湿っていた。やっぱり、夕飯での出来事は夢なんかじゃないのだ。
だったら、恐らく…と、目線を畳の上へと滑らせると、確信通り、四角いフォルムのものが、転がったままだった。
あっ、と、それを拾い上げ、夏希は反射的に侘助の部屋の方向へと目線を走らせたが、思い直してじっと手に持ったソレを見つめた。
泣いて少しはすっきりしたとは言え、これからコレを届けにいくのは、この泣き腫らした顔を見せることも含めて気が咎め、
少し眉を寄せたあと、明日にしよう、と夏希は侘助の携帯をポケットに仕舞った。
困ればいいんだ。
泣き終わった夏希は投げやりに思う。
困って、どうしようもなくて、
コレを探しに、この部屋に足を運べばいいんだ。
そこを私が捕まえて、皆を連れてきて、もう一度話し合う。そうしよう。
さんも引っ張り出して、話して、事情も教えてもらって、それで、私のことも話して、
それから…
…八つ当たりしちゃったこと、健二君に、謝ろう。
夏希はそう心に決め、居間を後にした。
夏希の、あの「小指を握って」のシーンと、侘助が引き取られたとき栄さんの小指を握って歩いてるシーンを
関係させたいなぁと思って、膨らませた話を挿入。妄想です。
でも、夏希のアレを教えたのは侘助だといいなぁと思ってます。
あと、夏希が侘助に恋したきっかけとかも入れたかったので、二つをまとめて、こんな感じに。
夏希の恋心は、難しいです。話の最後には気持ちを変化させないといけないので。
あんまり根が深いと後々響きそうで…とりあえず、念頭に置いているのは、
夏希にとって、侘助は涙を止めてくれる人で、健二は泣かせてくれる安心させてくれる人ってとこ。
そいでもって、女子高生に好かれるおじさんがずるくないわけがない。