数時間前。
健二のアカウントを盗み、なりすまして、OZをめちゃくちゃにした犯人を調べていた佐久間からの連絡が来たのは、
思いのほかすぐのことだった。興奮した様子の佐久間から告げられた犯人は、健二の予想を遥かに裏切るもので、
そもそも、犯“人”ではなかった。
「AIだよ!AI!人工知能!ピッツバーグのロボット工学研究所から開発中の実験用ハッキングAIが脱走したらしい!」
「脱走…?」
耳慣れない言葉に戸惑った。AIなんて日常生活ではほとんど聞かない。
聞いたとしても、映画やゲームのなかでの設定など、それはフィクションのものという印象が強い。
なんだか、これ以上ないという出来事の大きさが、今でさえ、膨らみ続けているように健二には思えた。
子機の向こう側から、佐久間の声が続いている。
少し興奮が収まったらしく、噛みしめるように低くそのAIの名前を言った。
「通称“ラブマシーン”」
それは、知るために生まれてきた機械の名前。
そして現在。
健二は、少しホッとした気持ちと、とても申し訳ない気持ちの両方を持って、
床の間のある座敷で正座をしながら、自分の先輩とともに、万里子に「なんでこんなことしたの」と叱られていた。
東大で、
旧家の出で、
留学経験あり、
という嘘が、役所に勤めている理香によって悉く陣内家の人々にバレた。
自分は年下で、高校生で、普通のサラリーマンの息子で、日本から出たこともない。
それは仕方のないことだ。と思う一方で、警察官である翔太によって、
OZの混乱に関わっている重要参考人になっているということもバレてしまい、健二は身を縮める。
自分がそんなことやっていないということは、恐らくしかるべきところで話を聞いて貰えれば納得し、誤解も解けるだろうと思う。
けれど、それにはこの陣内家を出ていかなくてはならないし、納得して貰うまで誤解は続くだろう。
健二にはそれがなんだか嫌だった。
一日目の夜。
健二は、陣内家にきて、自分の怠慢さを見つけて恥ずかしくなったあと、
“知らない人に囲まれるのは苦手だ”と電話をしてきた佐久間に憎まれ口をきいた。
二日目の朝。
自分に身に覚えのない罪を見つけて、お世話になった人達にそれがつまびらかになることを恐れ、
さっきまで、その事態を解決しようと行動を起こしていた。
そして、今が二日目の昼。
太助の息子である警察官の翔太に手錠を掛けられ、
栄に、本当にやったのはお前か?と聞かれ、先輩の初恋のことも含め、様々なことが白日の下にさらされた健二は、
自分の思いを素直に打ち明けてみることにした。
「僕は無実です」
言葉にしてみると本当に悲しくなってきてしまった。
無実の罪を被っているということをさきほどとは違った意味でじわじわと理解していって、気持が沈んでいく。
「あの…こんなことになってあれですけど、ここにこれて凄く楽しかったです」
沈んでいく気持ちは、同時に本心もあらわにさせていく。
ずりずりと手錠に結んであるロープの端をもった翔太を引きずりながら、
尋ねてくれた栄の正面へと行き、健二は言う。途中の翔太の喚き声は栄によって黙らされた。
「うちは父が単身赴任中ですし、母も仕事が忙しくて、…家ではたいてい一人です。
…大勢でご飯を食べたり…花札やったり。こんなに賑やかなのは初めてっていうか…」
嬉しくて。
恥ずかしくなったのは、こんな人たちが居たことを知ったからで、
バレたくないと思ったのは、この人たちに失望されたくなかったからで、
今では、ここを離れたくないと思っている。
本当は、健二は人に囲まれるのは得意じゃなかった。
人が集まり、近い場所に居ることになれば衝突が起きる。
そうして、決定的な亀裂がひかれて離別を繰り返すくらいなら、曖昧な距離のまま、
一線を守って一緒にいることで孤独を遠ざけるほうがいい。そう思っていた。
けれど、そのままじゃ、いつまでも寂しいのは変わらない。
触れることができないまま、ほんの近くを擦れ違うだけ。
それがわかっていたから、この家族に憧れた。
距離が邪魔しようと、時代が邪魔しようと、手を繋いでいるようなこの人達に。
それを一つ一つ理解していく中で、健二は、自然と頭が下がっていく。
ココにこれて本当に良かった。
「…とにかく、お世話になりました」
栄に深く頭を下げて、続いて、ほかの陣内家の人たちにもむけて、頭を下げた。
悔いは残るけれど、あとで誤解が解けることを願って、感謝だけはちゃんと伝えられるように。
そして、誤解が解けたら、できればでいい、
また、この家に戻ってきたい。
その後、健二は、職務を全うし始めた翔太に従って、彼の自慢の車であるRX-7に乗り、警察署にむかうことになった。
遠くなっていく陣内家を振り返りながら見つめる。途中、追いかけてきてくれた夏希に感激したが、
それが面白くない、夏希のまた従兄の翔太に叩かれ、感激の涙なのか痛みの涙なのかわからないまま、
健二はぼやけた景色を見続けた。
警察署で、自分に起きたことを隠すことなくすべて話切ろう。
信用を取り戻して、戻ってくるために。健二はそう決めた。
しかし、その願いは予想に反して早く叶うことになる。
OZの混乱による信号トラブルにより、長蛇の渋滞が起こり、通行が不可能となり、
バイクに乗って迎えにきた、夏希と理一とともに陣内家へと戻ることになったのだ。
そして、戻ってきた健二は、一日目の夜の“ビックリ”の前にやったのと同じ行為をして、これもまた早く、信用を取り戻すことになる。
2056ケタという数字に対して途方もない計算を必要とする暗号を、
“数学が得意”な少年は、レポート用紙を散らしつつ見事に解いたのだ。
***
なんとか、混乱が収束を迎え始めた夕方。栄は、電話の前に座り込みながら、
電話番号をなぞり続けて、熱を持っている目頭を揉んでいた。
その周りには部屋を埋め尽くすように様々な年代の手紙や写真が散らばっている。
先ほどまで、興奮した様子の夏希がこの部屋を訪れていた。
「すごいの!なんだかよくわかんないんだけど、ずらーっと並んでた数字をね、
レポート用紙を何枚もつかってバーっと計算しちゃうの!でも、どうやって計算してるんだろう?
だって、ただ数字が並んでるだけなんだよ?足すとか引くとか書いてなくて、なんでそれで、計算できるんだろう?
…あとで、やりかた教えてもらおっと」
ひとしきり言うと、まるで昼間のことなんか忘れた風に、だからね、と、本当にうれしそうな様子で夏希は言った。
「健二君が頑張ってくれたから、もう大丈夫みたい」
小磯健二。
夏希と共に陣内家にやってきた、夏希の婚約者と名乗っていた少年は、実は夏希の高校の後輩で、恋人という真柄でもなかった。
付き合っていて、婚約者という関係まで名乗っておいて、なんとなくぎくしゃくしているとは思っていたが、
事の次第が分かれば、やっぱり、と栄は肩を竦めて、敢えて何も言わなかった。
他人に恋人の役を頼むような子だが、ここまでしてしまったことを反省しないほど夏希は大馬鹿ではない。
しかし、その話を聞いて栄は考えた。
健二という少年は、一見、頼りなく、押しに弱そうだが、根性はあるようだし、
命の代えても?と訊いたときの返事に悪いものは感じなかった。
加えて、様子をみるに、どうやら夏希のことを憎からず思ってくれているらしい。
そこまで考えて、栄はお茶を一口飲んだ。電話越しに散々喋ったせいか、喉が渇いた。
栄がここまで夏希の恋人のことを心配するのは、夏希の初恋が、夏希の中で“良い思い出”として消化できていないことにあった。
その原因は様々だが、根本に、自分と、息子の一人である侘助と、家の居候であるとの関係が影響しているのは確かだった。
だから、恋人を連れてきたという夏希の言葉に「よかった」と返して、ほっとしたし、夏希も夏希で、
心配している栄のことを無意識に感じ取っていたのだから、「恋人を連れてくるから、元気でいて」という条件を提示したのだろう。
やりかたは奔放で乱暴だが、優しい子。
あの子には、穏やかでその奔放さを受け止めてくれる人が良く似合う。
あの時、偽りとはいえ、婚約者として紹介された少年を認めたのは冗談でも嘘でもなかった。
栄には、あの若い二人はとても似合いみえたのだ。
やれやれと思いながら、栄はあたりに散らばった葉書きや写真を
一枚一枚を拾い集め、カルピスの空き箱に仕舞っていくも、
どうにも、時間がかかってしまっていた。随分長く生きたものだ。そう思う。
年代に応じて顔見知りは減るどころか増えていき、家族も両手両足の指なんかずっと足りないくらいになった。
戦国時代のころから受け継いだお宝はほとんど残ってはいないが、それがなんだ。と栄は思う。
今でも十分すぎるくらいの財産がここにある。
一枚一枚、その人の文字を見るだけで顔が浮かび、先ほどまで電話から聞こえてきていた声を思い返す。
誰々は元気そうだった。誰々は声が父親そっくりなった。それを思う度に、
ついつい昔を思い返してしまい、動きが止まってしまう。
そのうち、栄の手に赤と青の縁取りのエアメールが触れた。
表の住所はココ、長野県上田市伊勢山2179。
今まで穏やかだった栄の表情が曇り、手紙を持ち上げると、憮然とした表情で息を吐いた。
「まったく、何をぐずぐずしてるんだい」
怒ったように言いながらも、栄の手は丁寧で、その手紙も箱のなかへと大事にしまわれたのだった。