不思議だった。
目の前の光景が酷く現実離れしているのに焦りばかりが募っていく。 薄い壁を一枚隔てたように混乱のざわめきが遠い。けれど、確実に聞き取れるところに自分がいる。 声が聞こえる。焦った声だ。けれども、やっぱりどこか隔てている。

崩れる。倒れる。整頓が乱される。

混乱を作り出している首謀者は、振り返り、かなり下のほうにいる私に向かって首を傾げた。


―――笑ワナイノ?


その彼に、空気を噛むように自分は何と言ったのか。

いつの間にか掴んでいた腕を視界に捕えながら、霞んでいく目の前に、自分の声は聞こえなかった。




真夏の夜の夢




が目覚めると、溺れた後のように拙い息が次々に喉を通り、その苦しさに背を丸めて、蹲った。 咳と一緒にひゅうひゅうと鳴る喉を押さえこみながら、自分の手が片方、何か温かいものを掴んでいることに気がついた。 涙で滲んだ目をそちらに向けると、「大丈夫か?」という声と共に、昨日久しぶりにあった人の、 珍しく皮肉染みた笑みのない表情が見える。パクパク、と名前を呼ぼうとすると、掠れて音がでなかった。


「…また、アレか?」

早く回復しようと、目を瞑り、唾を喉に送って飲み込んでいると、低い声がした。


「…寝ていただけです」

やっと整った喉でそう返しながら、掴んでいた掌を離した。 一体、いつの間に掴んでいたんだろう。血の気の引いた白い手の平が力の入り具合を物語り、 は「すみません、もう、大丈夫」と未だに中途半端に此方に手のひらを差し向けているような姿勢をしたままの侘助に言う。 侘助がなんでもないような素振りで、姿勢を戻して、上からこちらを眺めると、 覚醒する寸前まで見ていた夢の内容がの脳裏にフラッシュバックした。 夢の中のが手を掴んだ相手は、座っているところから立っている人間を見上げるくらいに、随分と身長が高かった。 けれど、現実で掴んでいたのは、褐色の手のひらではない。符合していようとやはり夢を夢だ。

「寝ていただけね」

落胆したかのような息をついた自分にハッとして、呆れたような物言いの侘助を見上げた。 の言い分は間違ってはいない。だた、その睡眠をコントロールできないという点を除けば、単なる“睡眠”なのだから。 ぽかんと、わからないまま見上げるの額に、侘助は無言で指をさし、憮然な表情で言い放つ。

「どんな寝相だよ」

指示した額にの感覚が集中すると、そこは熱を持ち、ヒリヒリという痛みを伴っていた。すりむいている。
見えはしないが、自分の額を見るようなしぐさをしてから、侘助のほうへと、苦笑いをする。それに侘助は短くため息をついた。




人が意識を失ってもっとも怖いことは、転倒し、頭を強打することだ。 意識があれば転んだ人間は、まず、頭を守ろうと両手を地面に着こうとする。 本能的に一番守らなくてはならないものと体が判断するから。 だが、意識がない人間はそれができず、倒れると一番重たい頭から倒れることになる。 は、畳の自室にいたため、そこまで酷い怪我はしなかったらしい。 もし、倒れた場所が廊下の床だったり、縁側などの段差のある場所、コンクリートや石のある場所だった場合、 絆創膏では間に合わない怪我をしていただろう。
まるで、体のバランスがまだ整ってない小さな子供のような怪我に、 絆創膏を貼りながら、はなんとか、この絆創膏が前髪で隠れないものかと鏡の前でいろいろと試してみる。 すると、廊下に座りそれを眺めていた侘助がの手元の箱を示して訊いた。

「それ、お前のか」

「そうです」

万里子さんには内緒にしておいてくださいね、と、 手当の終わったは、本棚の一番下に救急箱として、消毒液や傷薬、絆創膏などを詰めたお菓子空箱を戻しながら言った。 その小さな見栄に、皮肉な笑みで侘助は吐き捨てるように笑い飛ばす。

「優等生の振りは相変わらずか」

「そうですね…癖みたいなものです」

万里子はの体調に敏感だ。だから、一々倒れたことを伝えていたら、万里子のほうが気疲れしてしまう。 倒れるのは日常として、それに付随してできる小さな痣や擦り傷程度なら、一人で手当てはできる。 だから、空箱に簡単な手当の道具を詰めて自室に置いておき、倒れて怪我をしたら自分で手当てをして、 バレなければ、倒れたことも万里子には黙っておく。 いつものことなのに、倒れるとこっちが心配になるほどオロオロする万里子を見るくらいなら、 嘘をついたとしても、今日は体調が良いみたいねと、自分のことのようにニコニコと喜んでくれるほうがいい。
そういう嘘をつく癖は、侘助にとって、鼻につくらしい。 今だってとても嫌そうな顔をしている。けれど、侘助が不機嫌になればはそれがとても嬉しい。

「ほら」

「?」

侘助は、庭のほうを眺めたまま、棒付きアイスの袋を摘まんでつる下げる。

「どうせ、いつもみたいに引き籠ってんだろ。熱中症になるぞ」

自分にも、袋を開けて、いつの間にやら食べているらしい。
ガリガリと氷を削りながら言う侘助の皮肉はにはとても優しく聞こえた。

「侘助さんこそ。研究ばっかりで陽に当たったの久しぶりなんじゃないですか?」

「うるせ」

「頂きます」

腕を伸ばし、アイスの袋を受け取ってみると、熱い外気に当てられて随分汗をかいてしまっていた。 中身もきっと柔らかく食べごろだろう。一体いつ、侘助はここに来たのだろう。眠っていたにはわからない。 その疑問をアイスを齧ることで塞ぎ、二人で縁側に腰を掛けた。夏の日差しが軒の影から飛び出した両足を焼く。 けれど、蒸すような空気を乾燥させるようで気持ちがよかった。

乱暴な息によってささくれたような痛みと熱を持つ喉を、冷たい甘い液体が包んでいく。 やっと元に戻った喉で、は侘助に訊いた。

「昨日の。開発に成功したっていうものの実験はどうなりました?」

その問いかけに、侘助は見えはしないものを見定めるかのような視線を庭のほうへ向け、ごくん、と冷たい水を飲み込んだ。

***



昨晩、10年振りに帰ってきた侘助がの部屋を訪れ、挨拶を交わしたあと、 は、侘助に問いかけた。

「お金を持ってきたんですか?」

あまりにストレートな言い方に、侘助が笑うと、は自分は何か変なことを言っただろうかと首を傾げる。 至極あたりまえのように。別に変なことは言っていない。 けれど、陣内の人々が腫れもののように触れなかった話題を、普通に訊いてきたので、 驚いたし、侘助には気分がよかった。

「いや」

「え、じゃあどうして?」

「まだ、持ってきてはいないが、8月になったら嫌でも大金が入る予定だ」

陣内家に帰ってきて、まだ、誰にも言っていないことをさらりと侘助はに言う。 それは、が普通に訊ねたことに対するお返しのようなものだったこともあるし、 侘助が帰ってくるなら、持ち逃げした金を持って帰ってくるだろうという考えがにあったことへの感謝でもあった。 そして、気分良くニヤリと笑うと、は暫く考えたあと、もしかして、と呟いた。

「研究が終わったんですか?」

その問いに侘助はこう言った。

「まぁな、今はある場所で実証実験中だ。これが上手くいけば、高く買い取ってくれるそうだ」

***


いつも、表情を皮肉で隠してしまう侘助が、珍しく素直に嬉しそうに言っていた。 だから、は、自然と「よかった」と言うと、侘助はすぐに慌てて眉間に皺をよせ「上手くいけばだけどな」と立ち上がり、 昨晩の会話はいい方向に物事が進んでいるというところで終わったはずだ。

は、無言のまま、もう一口とアイスを頬張り、どこかへと視線を向けている侘助を見て、 なにか上手くいかなかったんだろうか、と、自分も倣ってアイスを一口頬張った。うまくいかない。 侘助がなにかの研究に没頭していることは、15歳の頃、がアメリカに行くときに聞いていた。 山を売り払い、金を持ち逃げしたことを聞いたのはそれよりずっと後、が原因不明の夢をみる昏睡を起こすようになり、 空気が悪いからか持病の喘息の方も悪化して、謝る両親に導かれるままに、日本の陣内家へと戻ったその時だった。

言いづらそうに言う陣内家の人々の話と、アメリカでの夢を語る侘助の話を結び合わせみれば、その金の使い道は一目瞭然で、 山を勝手に売ったのは確かにいけないが、侘助の研究にかける信念と目標を思うと、 陣内家の人々と侘助の気持ちのすれ違いがもどかしくて、侘助が悪いなどとは簡単には言えなかった。

だから、侘助が早く研究を終えて、世界の名声と、持ち逃げした分の金をきっちり持って、陣内家に現れることをは願った。 せめて、この家族達には繋がりというものをいつまでも大事にして欲しい。―――けれど、 どうしてか、願うことはいつだってうまくいかない。


は項垂れるようにして膝を抱きしめて、そこに顔を埋めた。 アイスはとうに食べきって、ハズレと書かれた木目が見えている。 そうしていると、耳が冴え、セミの鳴き声を縫って聞こえる声に気がつく。 家の中がなんだか騒がしいらしい。遠い場所で喧騒と電話の音が聞こえてきた。

なにかあったんだろうか。そう思いながら、混乱に似たその音にはさっき見ていた夢を再び思い出す。


次々に変わってしまう道路標識に、

ドミノ倒しのデータ達、

奇妙なキャラクター達の悲鳴。


それをに見せながら、首を傾げる背の高い影。


―――     ?



「眠いのか?」


侘助が、伏せたの髪を掬って、訊く。それに、は首を振った。


「ううん、なんだか昔に戻ったみたいで懐かしい気がして」


遠い場所からの騒ぎ声は昔よく聞いた。 閉めた障子の向こうで、病室のカーテンの向こうで。 そうが言うと侘助は、立ち上がり、アイスの棒を放り投げて、その軌道を追っていたに向けて言った。



「戻らない。戻らせてたまるか」


去っていく背中を見ながら、はもどかしい感情を持て余した。 侘助は未来が欲しがっているのだ。はそう思う。 けれど、その欲求は途切れない時間の向こう側から続いている鎖に繋がれているものであり、 未来を求める限り、過去は今を苦しめる。そのジレンマが、また、侘助が未来を求める原動力になる。

「……」


未来というものは過去無くしては成立できない。 それを理解して置きながらも、にだって、無くなって欲しい過去というものがあった。 昔はあんなに欲しかったものが、酷く歪んでいる。もっといい形だってたくさんあっただろうに。 はやり切れない思いを抱き、重く確信する。




―――侘助は、今でも、自分に強い罪悪感を持っているのだろう。



一人っきりになったは、棒を無意味に片手でいじりながら、自室へと戻ることにした。
陽が、段々と降下をし始めている。






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あとがき


心底どうでもいいことですが、侘助さん本日アイス二本目。