目を閉じれば闇がある。


眠りに落ちれば闇すらなくなる。




それは無だ。




それは死に似ていると思う。


そして、私は、無と夢の読み方が同じことを少し面白く思う。














真夏の夜の夢










2010年、7月29日。




健二が初めてその人を見かけたのは、陣内家の現当主である夏希の曾祖母のところまで案内されているときだった。 古めかしいけれど堂々とした佇まいである陣内家の中は広く、 夏の空気を取り込むように襖や障子が開け放たれていた。 その家を縁取るように広がる軒下は、磨き抜かれた木目がヒンヤリとして涼しい。

同じ夏だというのにまるで違う。

健二は、町にある家の、空気が揺らぐような蒸し暑さか、 凍えるようなクーラーの効いた室内を思い出していた。 それはおそらく、この家の、木や紙を使った日本伝来の作りにあるのだろうか、と、きょろきょろと、物珍しくて室内を見渡しながら、 夏希の曾祖母のところまで、曾祖母の長女である万里子に案内されていた健二は思った。 まるで、京都の古いお寺に赴いたときのような心意気だった。 中学の頃の修学旅行を思い出す。


              ・・
ここが、先輩の家の、本家と呼ばれる場所。

おおよそ、いつも仕事で忙しい両親の所謂実家というものを知らず、 ずっと町のアパートで過ごしていた健二にとって、それは未経験なものであり、 今、自分のいる場所が、テレビのなかや、物語じみた場所に思えるのだった。

見れば、畳張りの部屋の奥の小さなスペースに、頭から足まで揃った甲冑や、刀、そして、掛け軸が掛けてある。 あれが、床の間というものだろうか。日本史の資料集で見たそのままの顔ぶれに、素朴な都会っ子は、戸惑った。 室町時代からのお墓があるという、この家のこと、あれは、一体、どういう謂われがあって、飾ってあるのだろうか。



***



憧れの先輩、篠原夏希に呼び出された健二は、自分がなんだか場違いなような気がして、 上田についてからというもの腰が引けてばかりだった。

東京にある高校のパソコンを使い、仮想世界OZの簡単なアルバイトに勤しんでいたときやってきた先輩の “私と一緒に田舎を旅行するアルバイト”しない?との頼みに、すかさず立候補して、 同じく立候補した友人をジャンケンで蹴散らせてきたが、 あらためて先輩にアルバイトの内容を詳しく窺っても、まぁまぁ、と言葉を濁すばかり。 そんな感じでも、健二は、憧れている、好意を抱いている夏希先輩の頼みとあって、遥々上田の地を踏んでここへとやってきた。 そんなものだから、具体的になんのアルバイトなのか、健二は未だによく分かっていなかった。


ずっと、自分の立場が定まらない、宙ぶらりんの健二は、 道々で夏希の親戚に会うたびに、曖昧な身の振り方をして、常々考えた。 そして、この家について、やっと、 もしかしたら、自分は、“田舎に行って帰ってくるまでの荷物持ち”という、アルバイトで呼ばれたのかもしれない、と、 今のところでは、自分の立場をそう踏んで置くことにした。

妙に多いし、何に必要なのか、ウクレレのネックが飛び出した先輩の鞄を持った健二は、 部外者であるのにもかかわらず、夏希と一緒にいて、親戚たちに問われない自分の存在について、 そんな感じの人物であろうと、歴史を感じる日本家屋に関心しながら軒の下に立っていたのだ。

そして、

案内をする万里子と慣れた風に歩いて行く夏希の後ろで、ぼうっと、甲冑に目を止めていた健二が呼ばれ、 健二は、甲冑を横目に、道なりに曲がり、朝顔の鉢が置かれた縁側に目を向けた。

その時。

自然と飛び込んできた陽に焼かれるような白を見て自然と目が細まった。 その人は、こちらに目をやると、顔に陰る髪を分けながら薄く笑った。

「夏希ちゃん、こんにちわ」

青紫の縮んで頭を垂れた朝顔の鉢に囲まれるように、縁側に腰を掛けている女の人がいる。

白い浴衣を着て、長い黒髪を流すように一つに結び、背中に垂らしていた。 陽に焼かれるような白は、この人の浴衣と、少し、健康とは言い辛そうな肌の色だったのだと、健二は気付く。 それが陽の光を反射されて余計に白く見えたのだ。 その人を見た瞬間、健二はドキリとした。むしろ、ギクリと言ってもいいかもしれない。 今では、ただ儚げで希薄な印象を感じる人だが、目を向けるまで、そこに人がいるとは思っていなかったせいか、 幽霊か何かを見てしまったような、その場に居てはならないものを見てしまった気分になってしまった。

そう思ってしまったことを健二は申しわけなく思い、自然と、光るような浴衣の白から目を反らせた。 廊下の床に目を向けた健二の耳に、ただ挨拶をしただけの女の人へ、夏希が答える声が聞こえる。

「こんにちわ、さん」

静かな返答だった。
健二はなぜか、前にいる先輩の顔を窺いたくなる気分になった。 けれど、実行に移して顔を覗くまえに、万里子が、そのと呼ばれた女の人の額に手のひらを置く。 それと同時に、驚いたような、少し怒っているような顔で問いかけた。


「ああもう、こんな段差があるところに出て…大丈夫?」

「今日は大分調子がいいみたいですよ」


額に置かれた手のひらが擽ったそうな表情で、浴衣の女の人が笑った。
どこか、悪いのだろうか、とまず健二は思い、その裏で、ホッとした。 意図せず、幽霊と思ってしまった女の人の表情が活き活きとして見えて、 万里子の手に、確かに触れているという事実が健二にそう思わせたのかもしれなかった。

それが、小磯健二がという人物に出会った、最初だった。







小説TOP/