▲殺害




「ああ、いらしてくれたんですね」


寒さの底に届こうかという2月に入った直後、他人目を凌ぐかのように夜半に弱弱しく電話が鳴った。
職業柄、電話には直ぐに出られるように寝床の隣に置いてあるので、腕を伸ばせば、呼び出し音は2、3、上げたのみで途切れた。 受話器からは、出る前から何となく漂っていた申し訳なさと違わず、電話に出られてしまった事を躊躇するような、 動揺を滲ませた微かな声が、「宮田医院で間違いないだろうか?」と訊ねてくる。声には覚えがあった。 もっと正しければ、この電話は直通の宮田の本家の方の電話であると言う前に、院長である宮田は、体を起こして、 声の主に何かあったのかを尋ねた。


「救導師様でよろしいでしょうか? 神代の方から何か?それとも教会から?」


ひゅっ、と喉が鳴る音が電話口でした。

生々しく、不快な音に眉を潜めていると、場違いに笑い声が耳に届く。朗らかで、しかし、どこか硬くて。
もしかして酔っているのか?と、宮田は思った。 まだ、へらへらとしているようで途切れ途切れの聞き取りにくい言葉に「もしもし」と強い口調で申し付ける。 すると、応答はあった。だが、要領を得ない。

「いえ、……いえ、そうですね。ちゃんとしなければ。……番号は間違えなかったわけだ」

「はあ、」

「……可笑しいものでしょう? あ、貴方の所に妹が嫁いだのに。
 20年も。20年もあったのに。兄妹で電話も碌にしなかった。
 ……性別が違う兄妹は、そんなものだと、む、村の人が言っていたのを聞いた気がします。
 でも、けれど……幼い頃は、それなりに一緒に遊んだり……なんの問題もなく……
 それなのに……私達は……どうして……」

声がそこで途切れ、息遣いだけがある。
宮田は再び切り返しを試みた。

「何か用があったのでは? ―――涼子にですか?」

「…あ…。

 違うんです。
 違う。そうではなくて……。

 ……れ、連絡は、今だに手紙ばっかりで。
 毎回、橋渡しをするのは、面倒ではありませんか?
 こうやって電話を使えば、そうすれば、貴方も、態々使いなどしなくて済むのに」

「……うちに決定権はないはずです。決めるのは“神代”と“教会”では?」

神代。

宮田がその名前を口にした途端、明るく保とうとしていた声がひび割れる儘に力を失った。

「……ああ」

暫く鼻をすするような音が続いて、息を詰めると、声を絞り、電話の相手は正気付く。


「夜遅くに申し訳ない。これは私個人の頼み事です。
 夜になってから体調が悪くて。今から来て頂けないでしょうか?」


多分、直ぐに良くなる、と思う。
男は言った。

だから大事にしたくはなく、ほかの人はいらないから一人で来て欲しい。
寝ている涼子や司郎君を起こすのも可哀想だ。 私も、慶や、救導女を起こさないように、教会の隣の納屋のなかで待っている。
だから、―――お願いします。と。



宮田は闇の中、静かに車を出した。棚田脇に沿って伸びる村道を走り、教会近くの空き地に停める。
予感があって、決まり事のように持ち出した診察鞄が滑稽に見える。
それだから、鞄を片手に持ち、車から降りて、黒い空に建つ教会の傍、訪れた裸電球がゆれるだけの粗末な納屋に訪れた時、 宮田は驚きもしなかった。天井から吊るされたロープの輪を背後に、見慣れない白いシャツを着た男が立っている。

その納屋は広いもので、掃除用具に加えて小さな作業場があり、机や丸椅子まで置いてあったが、 どれもが異様な雰囲気に息を潜めている状態で収まっている。 宮田は殆ど体裁を整える為だけに持ってきた診察鞄を軽く持ち上げ、「具合はいかがですか?」と訊いた。ロープには気が付かない演技した。

「幕引きくらい自分でしようと思いまして」

しかし、意にも介さず、男は淀んだ目で宮田を見つめた。髪や着衣に乱れはなく、普通な井出立ちなのがかえって薄気味悪い。 宮田もロープをチラッと確認して、男の行動と言葉の意味を悟ったという遅すぎる合図を返し、 まだ、嘘に出来たはずの、診察鞄を上げていた腕からぶらんと力を抜いた。
すると、男の口端が上がる。

「だとしても、そうだとしても、私は、最善の最後にしたいと思いました」

村の信仰を集める救導師が自殺だなんて、村人に知られれば信仰を揺るがす事態になるだろう。
だから、自分が死んだら診断書に病死と書いて欲しいのだと、男は言った。

「救導師は、持病があって長患いをしていた。
 そして、昨日の晩、急に具合が悪くなって、他の誰にも言わずに医者を呼んで、
 ここで診察を受けて、そのまま死んでしまった、と、して欲しい。駄目でしょうか?」

そうして、申し訳なさそうに伺いを立てる男が、しきりに、短く白く濁った息をする。 それを眺めていると、不思議な気分になる。死の望みを口にするが、その息に体温が宿っている不一致。 宮田が、自分の口を開くと、同じように白い息がスッと出た。

「さあ。宮田は、神代と教会には是を唱えなければならない、と、しておりますから」

そうか、と男は、頷く。
この返答を、宮田は自分の言う通りにしてくれると捉えたらしかった。
なんて短いやりとりだ。

「では、慶達にはこれを」

差し出された白い封筒は、遺書だ。
納屋の中に踏み入り、受け取ると、宮田の手に渡った手紙に、執着する視線が追いかけてくる。

「慶や、救導女には、私が病気でなかった事がわかってしまうでしょう。
 だから、この死が、私が了解して起こったものなのだと知っておいて欲しくて用意しました。
 
 もう、おわかりでしょうが。
 ……貴方をここに呼び出したのは、私の遺体の始末をして欲しいんです。

 私を発見するのが慶や救導女では……あまりにも……可哀想で。
 しかし、村人では、病死だと誤魔化せないでしょう。だから……
 それに……、

 あ、……貴方なら、慣れているのでは……と」

宮田は無言で手紙を白衣のポケットに入れると、足を踏み出した。すれ違い、吊るされたロープの奥へと回り込む。 追いかけるように、振り向き、納屋の入り口に背を向けた男が「すみません」と謝ったが、 何に対する謝罪なのか、宮田も、謝った本人すら、漠然とした哀れみだけを含んでいた。 輪の向こう側、梁や椅子を眺める振りをした宮田に、この夜、押さえていた栓を無くした男は一人で語りだす。

「私は、儀式は失敗してしまいました。
 でも、これは、……これだけは、最善を尽くしたつもりなのです」

「最善?」

「儀式の失敗を望んだわけではありません。でも、動かないんです。その事実は」 

罪悪感だろうか。
しかし、それは不自然に思えた。儀式の失敗からすでに10年以上の時間が経っている。 一番それに囚われるのは、失敗の直後から数年になるんじゃないか。 目の前が真っ暗になるそれを堪えたら、あとは往々にして人は鈍くなる。 日々は過ぎ、欠けたものを少ない代用品で塞ぎ、遅すぎる時間をかけながら、 今はひたすらに穏やかで静かな日々が続くのを願う。

「最善とは、儀式を失敗させて村人を死なせた罪滅ぼし、に、という事なのですか?」

返って来たのは、沈黙だった。宮田はロープの頑丈さを確かめる手を止め、男を眺める。
ゆらゆらと危うく彷徨っていた視線がうっそりとこちらを見つめ、
「わかりません」と救導師の服を脱いだ男は、呆然としたままそう言うのだ。

「……私は、救導師ではない自分がわからない」

けれど、あの日、儀式は失敗してしまった。

「そんな救導師が、一体どんな顔をして村人と接すればいいのか。
 ……跡目が成長するまでという名目だけです。
 村人はもちろん、私も、それがあるから、今まで、なんとかやってこれた。
 「ああ、代わりがいないのならしょうがない」そう言って、諦めてこれたんです。

 でも、慶は、……慶は、だんだんと大きくなっていきました。
 慶と救導女と一緒に過ごす日々は穏やかで、あの子の成長に時折、怯えはしましたが、
 それでも、救導師ではなく、父親の役目を、私などができる事が嬉しくもあったのです。
 だからこそ、起伏無い毎日が続いて行くのが永遠に思えました。
 
 でも、

 花嫁がもうすぐ産まれるそうですね?」

神代家の二人目の娘の誕生は刻々と迫っていた。
産婆は神代の屋敷に泊まり込み、宮田も連絡を受ければ、何を置いても駆け付ける命を受けている。
教会も例外なく知らせの手紙があって、宮田はそれを届けた。しかし、その封筒の内容は知らない。

そういえば、と、宮田は思う。
この男は、神代に疎まれている。この救導師は、儀式の失敗をどうしようもなく匂わせ、不吉を呼ぶからだった。 普段の些末な祭儀には、この男に行わせるが、男に次の神の花嫁を触らせるかというと、神代は潔癖になっている。 赤ん坊が産まれて、直ぐに受けるはずの洗礼も、男が呼ばれたか今思うと定かではない。

次の花嫁の誕生、次代の成長、この男は節目に立たされて、今日、決心を形にしようとしている。

「次が出来れば、村人も私をようやく見捨てられる。
 それでいいんです。彼等が私を見捨てるのは当然だと思えます。
 あの儀式が失敗した直後から、本当ならそうしてくれなければならなかった。

 今の形はとても歪です。
 村人は表面だけの敬いをして、私も、彼等に神の代弁として威厳を持って接しなければならない。
 でも、本当は、違う。私はひたすら怖かった。
 仮面をつけてやって来る村人が、その下でどんな思いを抱えてこの教会にやって来るのか。

 だってそうでしょう?」

 家族を返せ。家を返せ。お前など救導師であるものか。

「普通、そう思って当然なのに。……でも、誰も、私にそう言ってくる者はいませんでした。
 朝、教会にやって来た者は、おはようございます、と私に挨拶をします。
 昼には、穫れ過ぎた作物をおすそ分けだと、良かったら食べてくださいと私に言います。
 晩には、こんばんわ、また明日もよろしくお願いします、と頭を下げます。

 これが本心なわけが、ない。
 
 でも、だとしても、
 村人達は、己の信仰と村の掟の為、生活の平穏の為にそれをしなければならない。
 儀式を失敗した救導師に頭を下げなければならない疑問や、
 苦痛を押さえつけなければ、村での日常を取り戻せないんです。

 酷い事です。

 ……そこに、別の救導師が立てば、「ああ、やっと普通に頭の下げられる救導師ができた」と、
 村人たちは喜んで、幼い救導師を受け入れて、私の事など過去の見苦しい異物にでもするのでしょう。
 それは、正しい。村人はやっと心から平穏になれるのです。 

 ―――そして、いざ、そうなった自分の命に、
 私自身、なんの執着も持てない、そう、気づいてしまったのです」

可笑しな話ですよね。と男は笑う。

普通、生きる喜びなんかは自然と出来るものだろうに。
仕事を生き甲斐にする者が居る。仕事が駄目でも趣味を楽しむ者がいる。二つが駄目でも恋愛にのめりこんで生を謳歌する者もいる。 しかし、そのどれもが気が付くと男にはないのだ。 かつて、一番近かったのは、仕事を生き甲斐にしていたというものなのかもしれない。 でも、それを失って、次に夢中になれるものが彼には残されていなかった。何にも、心からの喜びを持てない。 儀式の失敗がいつも頭にちらつき、生活の全てが灰色で、全てに痛みを感じた。穏やかな幸せにさえ、蝕んてくる罪悪感があった。

村から離れればいいのだろうか?と考えもする。だが、儀式を失敗して自分はこうなったのだ。 村を見捨て、教会を捨て、数少ない純粋に自分を慕ってくれているだろう少年を置いて、そして得た外の生活になんの喜びを見つけるというのか。 それこそ、自己をバラバラにしてしまうだろう。だから、今日、この日まで、跡目の教育という義務だけで生き永らえて来た。 自分の命の意味をそれだけに見出した。
だが、それも、近々、失うだろう。

村人が慶を救導師と慕うのなら、男は不必要で、男自身も自分の命に何の価値も見出せない。
次の花嫁が産まれ、花嫁の洗礼に、神代が次代の救導師を望んだのならば―――。

「もう、ここまでです。

 神代からすれば儀式の内容も、揺るがない信仰の仕組みも知っている、
 権力も利用できないただの人間は邪魔でしょう。

 ……私はもう疲れた。
 跡目を教育するという役目に砕身しながら、
 時間切れに怯え、闇に怯え、村人の目に怯え、

 ……貴方が、神代の命で、いつ私のところに来るのかに怯え……」

「……」

「お願いです。どうせ同じ最後なら最後くらい救導師でなく、人間として自ら死を選ばせてください」

告白を終え、後は審判を待つ場面になって、男はまっすぐとした視線を向けた。
全ての上辺を捨てて、ただ一人の牧野怜治という人間が選んだ道なのだと。


「私が口を出すことではない」

「そう、ですか」

簡潔な返答に、落胆のような、安堵のようなものを抱えて、怜治は笑う。
元よりそのつもりだったのだろう。

宮田は納屋のもっと奥へと入って、ロープの下を指し示した。
願いを叶えてやろう、自分はここに居る。そういう仕草だった。
怜治はいくつかの震える息を吐いて、丸椅子を踏み台に選んだ。


開けっ放しの納屋の暗い入り口からは、雪片交じりの風が吹いていた。電球が揺れる。
震えながら縄の輪っかを引き寄せ、顎の下に噛むように当てさせると、足が意志とは関係なく、がくがくと揺れ、力が抜けそうになる。 何を考えているのか、続きを静かに見つめる宮田の視線から逃れるように目を閉じる。


閉じた瞼の裏でも、やはり、自分の生存は祈れなかった。

でも願いがないわけではない。
最後の瞬間、怜治は、幸福を描く事にした。


どうか、どうか、

慶は、慶の儀式は、滞らないように。

どうか……。











【尊厳死】
人間が人間としての尊厳を保って死に臨むこと。
近代医学の延命技術などが死に臨む人の人間性を
無視しがちであることへの反省として認識されるようになった。
しかし、生存権を脅かしかねない、殺人や自殺幇助であるとして、警戒する意見もあり、
尊厳死は、現代において答えの出ない問題を抱えている。

















▲名前



2002年



神代昼子という子供について。

考えてみれば神代昼子という子供が宮田家に来て、その印象は変異してきた。
始めは感情に乏しく、回りに無関心で、不気味な子供であるというもので、 それは直ぐに覆され、産まれや境遇からすると普通過ぎる人格を持ち合わせていると分かり、 そして、昼子は妹の美耶子と同じく、自分の役目へと抵抗を示し、静かに策を巡らせているのだと宮田は知った。

しかし、そのまともな人格の発生源はいまだに掴めなままだ。
殆ど閉じ込められて育ったというのに、会話に言葉の不足はやはり無く、日常生活に支障ない常識も足りている。 それどころか、倫理を持って善悪に苦しむ人間独特の苦悩すら持ち合わせ、自分は死にたがりなのだと、恥じて目を伏せた。 目の前にすると、これは誰なのか、自分は誰と会話しているのか、わからなくなり、 黒衣を外すように言い、家の中では晒されるようになった幼い造りの顔立ちが、中身と符合してないのだと思うようになった。

誰が、否子にこれらの事を教え、与えたのか。
それがもともと産まれた時からあった記憶なのだと答えたのは、その子供自身だった。
宮田は考えてみる。幼い頃から自分が知るはずもない事を知っているという、その経験。

早々に行き当たったのは、宮田自身、物心つく前から夢に聞こえてくる女の切願の声だ。
あの声に気が付いたのと、言葉を覚えたのは、どちらが先だっただろうか。
言葉を知った後にあの声が聞こえてきた気もするし、言葉を知る前から聞いていて言葉を知った後に意味を理解したような気もした。 それくらい、子供の頃の記憶は曖昧で、不確かで、触る度に形を変えて変形してしまうものなのだろう。

それを、今もしっかりと有し、喋ってみせる昼子のほうがやっぱり異質なのだ。
柔らかすぎる粘土のようではなく、紙に印字でもして貯蓄してあって、必要な情報は索引して取り出してくるような明瞭さ。 民話集を諳んじたのもそうだ。記憶能力が優れているのか、と思うが、いつもの様に夕食の折に訊ねてみると浮かない表情で、 「そういう訳ではないと思う」と言い、自分の記憶力は至って普通の人と変わりないと答えた。 その普通の定義ですらどうやって定められたのか知れないが、新しく聞いた事、見た事を忘れ、 通常な範囲で、思い出せない事に苦労する事もあるそうだ。

ただ、一種、異様な、一部の記憶だけ、
自身も可笑しいと思うくらいに事細かに覚えている。

代表例として、
異界という場所に飲まれた村の中で、人として彷徨う村人達が何時何分何十秒、どこにいるのか、や、
屍人と呼ばれる化け物がどこにいるのか。何が必要で、どこに行けばいいのか、
という異界と呼ばれる場所の情報。

そして、それを昼子は手紙として書き起こし、異界で人間として彷徨う予定の村人に渡そうとしているらしい。

その手紙は自分の分もあるのか、訊こうか迷ったが、迷った末に、まだそこには踏み込まずにして置いた。 起こるという災厄の予定日まで時間があって、身を乗り出すには多く信用されたのだと子供に誤解されるのを宮田は許さなかった。
関係して、自然と、村を歩き回る理由も明かされていた。
村の実際の土地勘を得ようとしていたのと、
その手紙を該当する村人に渡せるように面識を作りに訪ねて回る為、だと言う。

しかし、後者は自身の“否子”という立場から、うまくいってはいないのだと、
不意に昼子が弱って零したのを宮田は聞いた。そして、その時、沸き上がった疑問は、自覚ないまま外で弾けた。


「美耶子様になりたいと思ったことはありませんか」

半歩遅れて理解をし、顔を顰めた。余計な事を。失言だ。 しかし、気まずく答えの必要性が無い事を告げる前に、昼子と名付けられた子供は、一瞬動きを止めると、ややあって口を開いてしまった。

「生贄の子供に、ですか?」

「……それは、行くつく先です。
 美耶子様が生贄の子供なら、貴方は不必要な子供で、行き先は同じ。
 でも、過程は違う。

 周りの者の認識といった点で、貴方達は、……区別されているでしょう。
 美耶子様は神の花嫁ですから、普通とは言えなくても、大切にされている。
 貴女は否子だ。誰に望まれる事もなく必要とされず、恰好を強要され、そういう名前を付けられた。
 理不尽で……自分が美耶子様の立場だったなら、とは、考えたりはしませんか」

後はほぼ衝動的にだった。自分の口が自分のものではなくなったかのように言い、意識はかえって浅く、世間話のように装っていても、< 喉から続く臓腑は重かった。言葉が出尽くすまで昼子は見つめ、最後まで聞くと、馬鹿正直に答えを落とす。

「……想像はしても、なりたいとは、思えません」

ずるずると結局言ってしまって、打ち返された答えに隠しきれていない不満の表情が浮かんだだろう。
くだらない事を訊いたものだ。その時、宮田は、余計な興味は捨てると決意したはずだった。
けれど、潔く立ち去ろうとした言葉の裾を捕まえて、慌てたように子供は余計に言うのだ。

「……立場を甘んじているわけではないですけど、
 美耶子の苦しみは美耶子自身にしかわからないものです。
 私の苦しみだって、きっと私にしかわからないでしょう」

息を吸う。その一拍の癖は産まれた時から持っていた記憶を取り出すときに少女は良くする。

「美耶子の“耶”という漢字は“耶蘇”、つまり、眞魚教が取り入れた宗教の“救世主”を表す漢字です。
 彼は創世記の知恵の実から連なる人間の罪を身代わりに負って自ら磔となった。
 この行為を……自己犠牲と言い、“大きな愛”とも“最も尊い行為”とも言われています。

 結局、古事記の“ヒルコ”と同じように、“美耶子”という名前にも、
 村を救う為、罪を清算する為、自らを差し出すように、という願いが込められている。
 皆、そうです。

 ……私が美耶子に成れたとしても。
 心が私のままなら、私の苦しみを持ったまま“神代美耶子”という名前の苦しみの両方を受け、
 心すら美耶子になったなら、美耶子の苦しみを知るだけで、成れた実感はないでしょう。
 苦しみを持たない人間は居ないと思う」

「……」

「でも、」

落とした視線が足元に彷徨う。
言うか言うまいか、そういう迷いは、崖の傍ギリギリを注意して歩きながらも、瞳は宮田の目へと注がれる。
その目が自分の内側を掠めていったような気がした。

「幸せになりたいと望む意味でなら、私も、
 誰かになりたい、と、思う事はあります」

そういうのは不快だ。

誰もそんな話はしていない。
怪訝で不快さ表す宮田の意思を感じるのか、昼子はその場になんとか踏みとどまろうと体を硬くしていたが、
宮田のほうからその場を去った。

自分は、死にたがりだと言いながら、かつては、誰も不幸になりたくて産まれたわけがない、と叫び、またも、幸せになりたい、などと言う。 矛盾している。心の中で子供を詰ってはみるものの、反響のように、幸福を望むという単純で原始的な欲求が、繰り返される。 幸せとはなんだ。苦しみが個人の中で完結しているというのなら、幸福もまたそうなるのか。

そんなわけがあるか。
今、考えてもそう思える。

苦しみには確かな優劣がある。
ほんの少しの傷と、骨まで達する傷となら、痛みの度合いが違うように。 風邪をひいて自分でやって来た患者と、重病で運ばれて来た患者、どちらを先に診るべきなのかは明らかだ。 例え、その病が一生治らず享受して生き、最後は同じ年齢で死ぬのだとしても、享受するものが少ない方が良いに決まっている。 難病患者が花粉症と引き換えでその病を完治できると聞いたら、返事を迷うか? 痛みの少ない者は幸福だ。痛みにのたうつ者を見て、我が身の幸運を自覚できるのだから。

……だが、あの子供の事だから、妹が軽んじられたと思って、
神の花嫁の苦しみを主張したかっただけかもしれない。

「嫌なものだ」

病院の診察室で、ポツリ、呟いて宮田は余計が渦巻く頭を振るった。

神代昼子という名前の子供の印象は、移ろい、矛盾する。 あがき、もがきながら、その姿は拙くて苛立ちも唾棄もする。 けれども、根ざした芯に、忘れられないのは、あの時、自分に向けた救済を求める者の目だ。 あれだけは、今も自分の中のなにかを焼き、会話を止める事はあっても、ずっと拒絶し続けるような事はなかった。

熱を求めるように気づくと口を開き、揺さぶるように質問をする。
それに違和感を感じなくなりつつあった。


羽生蛇村には、雪がちらつくようになり、
否子が宮田の家に転がり落ちてから、二つの季節を超えていた。









 

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あとがき


牧野怜治を病死にするのなら村人の死亡診断書を書く宮田(先代)も一枚噛んでるんじゃないか、という個人的な拡大解釈からこうなりました。 自殺を隠すだけの噂止まりなら、宮田は嘘の診断書を書く必要もないので、殆どこじつけですね。 ただ、儀式を失敗してしまった牧野怜治が、自分の都合だけで何もかもを捨てたとは思いたくなかったので、 自分を思い、慶という少年を思い、村を思った結果、自ら宮田を呼んだ。という感じにしました。 これはゲーム内でも、異聞にもない設定です。
(ネットで流布している考察でも見ないくらい捻くれた独自解釈なので注意してください)

漫画版SIRENでは、現場は教会の中で、朝やって来た慶が見つけた、になってますが、 この話では、現場は納屋で、怜治は救導師の服は着てません。 怜治は、祭壇や教会を汚すべきではないと考え、救導師の服は慶が着るだろうから、と、脱ぐ事にしています。 自分が死ぬんだとしても救導師としての思考に囚われている、という設定です。 そのせいで進退窮まってしまったというのに、その思考以外を持てない人でした。悲しい事に。 漫画版の怜治さんは、最後の場所に教会内を選んで、どんな心境だったんだろう。 眞魚教への無意識な憎しみとかあったりしたら、あー……、辛い。

名前の話。
代々花嫁の名前は美耶子だけど、次の実を産む姉のほうも真ん中に「矢」の字が入っているっぽいです。 美耶子と亜矢子の母親の名前は佐矢子。「矢」の漢字は、まっすぐ直進するという意味や、 連ねる、まっすぐ直線状に並べる、という意味があるので、神代の直系の血を産んでいくという意味ではピッタリです。 こういう設定の細かさがSIRENはたまりません。

宮田が昼子の言動に感じる違和感は、昔の芦田○菜を見るような違和感。実年齢と言動の不一致さ。
しかも芦田○菜と違って本当に中の人が子供じゃないから、主人公は他人から見たら凄い変な感じだと思う。
演じるつもりもないもんな主人公。

(自分が忘れないようにメモ)
 異聞、27年前の病弱だった前の代の美耶子は、
 離れの座敷牢(多分、本格的)で軟禁生活。地下通路は知らなかった。

 漫画版、盲目の美耶子は、離れの座敷牢(本格的)+ケルブと一緒に軟禁生活。
 地下通路使用。村の外に行こうとはしなかったのか?

 イエリコ、盲目妹属性持ち美耶子は、基本、ケルブと一緒に離れの座敷牢にいるけど、
 今のところ屋敷内なら、うろうろする許可もでる。全体的に緩め。
 地下通路使用。村の外には自発的に出ないようにしてる。


はー…、次だ…。あー