今日も今日とて彼は頭の痛みに顔をしかめる。今日はいつもよりも酷かった。
入室時には挨拶のようにグラスが飛び、報告には相槌のように、何かしら飛んでくる有り様。最後の極めつけには椅子が飛んできた。
地球の引力なんだと思ってんだ。そう思うほどザンザスの執務室では軽々しく物が宙を舞っていた。
だが、着陸の時はそうもいかず、骨をも砕く勢いで落ちてくる。一般人ならば昏睡ものだが、さすがはプロである。
スクアーロは椅子の当たった鼻を赤くして、悪態をつくのに留めている。
ちなみになんのプロなのかは彼の人権に関わるので、言わないでおく。
いつもなら、このままストレスの発散のために鍛錬に向かうところだが、最近できた、彼の癒やし、
もとい、に「お疲れ様でした」と言われるために、スクアーロは足取り軽く彼女のもとへと向かう。
その姿をみたらとある王子はまた、辛辣な言葉を彼に投げかけるだろう。暗殺者らしからぬ鼻歌でも歌いそうな有り様だった。
スクアーロが彼女の任務に手を出すようになって早一週間。
は仕事のほとんどを本部での事務作業にあてられていた。まるで本当の事務員のようだ。
彼は、机に座り、慣れた手つきでさらさらと文字を書く彼女の姿を捉えると、ずれた棚の商品を人知れず、
あるべき場所へ戻した時のような小さな満足感を得る。
そのままスクアーロは彼女の後ろへ、毎回、大きめに足音を響かせて通る。すると、
「あ、こんにちは」
彼女はその足音に気づいて振り返り、人のいい笑顔をみせる。
普通に声を掛ければいいじゃん、と彼以外の人間は突っ込むだろうが、
毎度毎度のことだと、怪しまれると思った、それは彼の精一杯であった。
彼に倒された、剣帝がこのことを知ったら泣くのではないか。だか、その討議は空しいのでしない。
彼女は普段、おろしていた髪の毛をひとつにまとめて邪魔な前髪をピンで止め、
どこからもってきたのか、灰色のアームカバーをしていた。
これぞ、正しき事務員の姿だ。彼は満足気に「お゛お」と返す。
そして、あと、あとすこしだと、期待に胸が膨らませる。
そんな彼を前に、彼女は、少し視線を上にやって、思い出すような素振りをみせた。きたきた、と彼の心が弾んだ。
「確か、北の方の任務でしたよね。お疲れ様です。今、お帰りですか?」
くぅ、
湧き上がるこの実感をどうやって表現しよう。腹の下から熱がグーと上がってきたと思えば、今までの心労が報われた開放感。
もう、病み付きだった。こんな小さなことに一々感動して執着しだしたスクアーロの今までの心労を慮ってほしい。
この男、慣れはするものの諦めることはないのだ。
そんな彼に向けられた、彼女の「お疲れ様」は、いうならば、仕事に疲れた日本のサラリーマンの、夜のビールの一杯目に似ていた。
(この為に仕事してる!)と背後で、手を握りしめ必死に周りに悟らせないように勤める彼の背中には、20代前半にして哀愁がただよっていた。
そして、彼女は彼女で、自分の上司の変な“間”には気づいていたが、何も訊かず、彼の顔を見つつ首を傾げていた。
無言の美徳である。
それで、彼女は気づいたらしい。
「やっぱり、北の方は寒いんですか?」
「あ゛ぁ?」
主語、述語と、わかりやすい話しかたをする彼女にしては突拍子もない話題の切り替えに違和感を感じた彼は、
機から聞けば喧嘩を売っているような返事を返してしまった。
それでも気にせず、失礼します、と彼女は手を伸ばし、スクアーロの赤くなっていた鼻を指した。
そして、頭を傾げて、再び、寒かったんですか?と訊ねる。
ああ、寒くて“も”鼻が赤くなるよなぁ。
「違う、これは自分の上司が投げた椅子にぶち当たっただけだぁ、」と、スクアーロは反射的に言おうとしたが、
彼はふいに口を閉ざして考えた。事情もちで、弱い彼女はきっと自分がいる組織のボスがそんな暴君だと知ったら
怖がるんじゃないか?任務でもきっと銃弾飛び交うなか、腰を抜かして、強面の同僚に怒鳴られたりしてたんだろうし、
そんな話をしたら、書類の提出のときに怯えてミスでもしたら大変だ。
自分の指示で事務専門となった彼女のせっかくの平穏を壊すわけにはいかない。
注意すべきは、この話の大半が彼の想像であるというところだ。彼は想像逞しい。
だが、暗殺者である彼にそう思わせる雰囲気が彼女にあったことは確かだった。
「あ゛あ、寒かったぜぇ」
得意げである。
そんないくら北の任務といっても、途中の移動で何時間も暖かい飛行機やらに乗るのだ。
本部まで帰って、まだ凍えている奴なんかいるか、馬鹿だなぁ、コイツ。
異様に元気なスクアーロは普段、馬鹿(カス呼ばわり)にされる立場であるから、ご機嫌であった。
そんな上司に、は今お時間、ありますか?と微笑む。
今まで、お疲れ様と言われて、そのまま丁寧な会釈で会話が終わるばかりだったが、このパターンは彼は初めてだった。
驚きながら頷くと、彼女はすぐさま立ち上がり、給湯室に消えて行く。
なにか分からないままに、手持ち無沙汰になったスクアーロは彼女の書いていた書類にざっと目をやった。
それは一目で丁寧でわかりやすく記入されていることがわかった。
そのなかには、上司である自分に渡されるぶんもある。今度は耐えることなく、よし、と呟いた。
また一つ、“もし”が叶ったのだ。無性に廊下で彼女とぶつかりそうになった、前の自分を誉めてやりたい。
そうスクアーロがにやにやしているとが戻ってきた。
それは人生に何回かある、ラッキーな日だったのかもしれない。
「どうぞ、よかったら」
彼女が戻ってきて、その手から差し出されたのは入れ立てのホットミルクティ。
自然に渡されて、それこそ自然に「あ、それ、スクアーロ隊長に提出する書類なんです。後で提出しに行きますね。」と、
見ていた書類を示された。
しかし、その言葉は彼には届いていなかった。彼の視線は両手のなかでほかほかと湯気を上げる存在に一心に向けられている。
お茶…だと…?
タイミングと中身は違えども、である。
思わず両手で受け取ってしまったマグカップは、じんわりと熱を伝え、
赤くなり鈍痛に悩まされる鼻には甘くて優しい匂いが漂ってくる。
それと同時に湧き上がるこの感情。
音にするなら、そう、
じわり。
彼は耐えきれずに後ろを向いて目を覆った。
もし、これからも任務から帰って来たら、こんな風に笑顔で「お疲れ様でした。」と労わられるとしよう。
もし、野郎ばかりで汚い報告書をわかりやすいように、処理しやすいように、と振り分けて、渡されたとしよう。
もし、疲れてきた、そんなベストタイミングに、「どうぞ、コーヒーです。」と温かいコーヒーを出された、としよう。
それはとても―――
今日、この日、彼のすべての“もし”が早くも叶った瞬間だった。
度重なる様々なハラスメントで、最近、優しさには涙腺がめっきり弱くなった暗殺部隊、幹部、スペルビ・スクアーロである。
彼女はといえば、いきなり後ろを向いて、マグカップ片手に目を覆っている上司に、眉を寄せ、首を傾げていた。
スクアーロはもう、底なし沼に嵌った獲物のごとく、ずるずると嵌っていくことになる。