チッチッチッ
時計の音がやけに耳につく日がある。忙しい日なんて特にそう。
何をしてでも秒針の音を見つけてしまって、つい、堰き止められない流れをぼんやり考え込んでしまう。
考え込んでしまうと言っても、何か特別悩みがあるわけじゃない。
その正体の掴めない、大きくて、重くて、恐ろしい、気配を感じながら頬杖ついて、
気がついた時には、自分が何を考えていたか覚えていない不思議な時間の空白が残るような感じ。
でも、一度そう思うとこういうことっていうのは何かに気を取られるまで続いちゃうから気をつけないといけない。
時計の秒針が二度と戻らない時間を知らせ続けていると思うと焦って。
逆剥けが指と指との間で引っかかっているのに気づくと後で痛いくせにひっぱって。
服に気付かない内に出来たらしいシミを見つけて気分が落ち込んで。
それに……まだ本当かどうかわからない曖昧な頭痛だとか。
**
ヴィネガー・ドッピオは牢獄にいる。
捕まったとかいうドジを踏んだわけじゃあないし、彼の生業から看守になるための資格をパスしたわけでもなかっただろう。
気がつくと並ぶ牢獄を繋ぐ廊下を歩いていて、耳に張り付くような時計の音に追われていた。
頭が痛いような気がして、手首の内側についた泥のはねが気になって、爪の横には血が滲んでいた。
でも、すっぽりとどうして自分が牢獄の中の廊下を歩いていたのかの記憶が抜けていた。
「えっ?」と声を上げて急いで口を押さえた。
薄暗くて隧道のような岩の壁が剥き出しの誰もいない古い牢獄に自分が小さく驚いた声がぼおっと音を濁して広がっていった。
(こんなところ知らないぞ)
内心呟いて考えた。
(なんだってこんなところに入りこんじまったんだ?どこなんだここは?)
混乱しながらとにかくドッピオは声を潜めることにする。
幻でもなんでもなく、目の前にある今も使ってるのかわからない昔の牢獄に自分のほかに人がいるのかわからなかったが、
見つかりでもしたら酷く叱られるか、本物の牢獄行きになるかもしれない、と、思った。
そうなる前にきっと“ボス”が助けてくれるだろうという予感はあったけれど、
こんなところに自分から迷い込んで余計な世話をかけるのは申し訳なかった。
だから、まず、
この静かな牢獄でようく考えて記憶を探り起こさなくちゃならない。
(確か、どこかへ向かっていたはずだ。)
どこかへ。
(―――ええっと、なんだっけ?)
不安を抱きながら少年はうんうんと唸って考えた。
考えれば閃きは落ちてくる。
「ああ、そうだ!“ボス”からの命令なんだった!」
また、ぼおっと音が濁って広がっていく。
目を瞬かせて口を押さえたドッピオはその場からそそくさ動き出す。
石を穿つ冷たい足音を響かせて古い空の牢獄の鉄格子の並ぶ廊下を進む。
頭のなかは、ようやく思い起こした目的に沸いている。
(いかなくちゃ、いかなくちゃ、早く、いかなくちゃ。)
何をおいても独房の女に会わないといけない。
**
カツン、カツン、と靴底が床に打ちつけられて鳴る。
独房の女のことは思い出したけれど、その女がどこにいるのかは知らなかった。
けれど運良く進んだその先に、人気のない、恐らく前時代に作られうち捨てられているのだろうこの牢獄のなかで、
酷く目立たないが比較的新しい扉を見つけることが出来た。
ここばかりは頑丈にできている。ここが今も居るという“独房”の女がいる部屋だろう。
これで“ボス”からの命令を果たすことができる。
(ああ良かった)、とドッピオは細く息を吐く。
少年は手早く鍵を取り出して開き始めた。手を掛けてみて初めて気づく。
その扉は普通とは逆に手前に引かなければ開かない作りになっていた。
これなら部屋の中にいる人間がドアの後ろに隠れるセオリーが出来ないな「へぇっ」と関心しながら躊躇いもなく開け放った。
しかし、その先にドッピオは本当にびっくりして扉から手を離してしまった。
出鼻をくじかれる、っていうのはこういう事なんだろう。
少年はこう思っていたからだ。
当然、その一枚開いたその先には鉄格子か、悠々自適な“蛸”が住むところのように強化されたガラス、
そうでなくても独房への何か仕切りがあるんだろうな、と。
中は暖かく、その空気が境界のなくなったところから流れ落ちてきた。
空気だけじゃなく部屋のなかは床の隅から隅まで敷き詰められた絨毯があって、
飴細工のような赤い硝子で作られた複雑な形をしたテーブルランプがある。
青と花の絵付けがされた焼きものの白いタイルが壁に貼ってあり、
それが絵に描いた家庭の舞台のように見えて、その雰囲気そのものが隧道を進んできて冷えた体に傾れ込んでくる。
まるで踏み入れるべきところを間違えたような気がしてドッピオの足が一歩ばかり下がる。
そこに、きし、きし、という音がして、見ると、部屋の隅で一人の女が車いすに乗って両手で車輪を回している。
そのままかちゃかちゃと食器をいじっていてようやくこちらを見たと思うと手で、どうぞ、と、女はこまねいた
**
女と遭遇して、思い出すのに大事だったのは女がいる場所ではなくて、そこでするべき内容であると気づいた時にはお茶が差し出されていた。
刺繍がほどこされてたっぷり綿の詰め込まれたクッションを押し潰しながら座りこんだドッピオは再び曖昧な痛みをチラつかせる頭を回転させている。
女に会って、それでどうするんだったか?
(えと、なんだったっけ、ボスはどうしてここに行かなきゃならないって言ったんだったっけ?)
それは、いくら考えても一度目とは違って不明のままだった。
少年は強い不安を感じていた。
(なんでぼくそんな重要なこと忘れてるんだろう)
もしかして、体の具合が悪いのかも知れない。なんだかここに来てから寒気がするし。
車椅子の女は器用に部屋の中を動き回っているが、最初から一言も声を出さなかった。
(居心地が悪いなぁ。)
ただ、ドッピオはそれでも辛抱強く待つことにした。
何も言わなくても迎えてくれたのだから女は何か事情を知っているんだろう。
ドッピオがどうしてか忘れてしまった本当の事を彼女は知っていて、ボスも彼女に何かしらの連絡をしているのかもしれない。
女の行動をそれとなく窺いながら出されたお茶のカップに口をつけ、そして傾ける前に暫く考えてみる。
(毒、とか)
彼女が敵だったりしたら。
口のなかに流し込みながら、探る舌が考えとは裏腹に協力的に液体を食道へと運んでいって、
ドッピオはそれを呑み込んでから「あっ」と声を上げる。
「え、あ、美味しいです!」
声に首を傾げた女が見たので急いで言って置き、それからもう一度口に含む。
「……なんか、好みです。この紅茶」
「そう」
女が初めて喋った声は独り言よりももっと小さく、そして、掠れていた。
**
ドッピオがそれからなかなか情報を打ち明け始めない彼女にむかって、とりとめもなく話をし出した。
自分が用事を忘れてしまった事をまず言ってしまうと、彼女にも“ボス”にも呆れられ、叱られてしまうだろうと思ったからだ。
少しでも情報があれば思い出せるかもしれない。そう思って喋り出したのは、この部屋の内装の事だった。
いかにも興味ありげにあれやこれを持ち出して「良いものだなァ」「いいなァ!」「それは?どこで手に入れたんですか?」と捲し立てて尋ねた。
紅茶の時と同じく、けして嘘ではなかったけれど、大事なボスからの命令のさなかに話す内容でないことは百も承知だった。
とにかく、相手の無口な口を暖めて喋り出してくれるように、尻に敷いていたクッションまで引き抜いてその細かい刺繍を褒めた。
一つ一つ手作りでなければ作れない精巧な柄をしていて綿も入れたてて座るのが困難なくらいふかふかで。
その間に気がついたことだが、家具も良い。
重厚で古めかしいけれど彫刻がカッコイイし、しっかりとした作りであと半世紀経ったって現役で主人に仕えられるほど上質な物だと一目でわかる。
けれど、その部屋の主人たる女はとにかく無口だった。一言二言、掠れた小さい声で喋ると黙っている。
しかし、ドッピオが困り果てて「とても牢獄の中だとは思えないなァ……」とこぼすと、女はひとまず長く喋った。
「私、犯罪者じゃないもの」
ギク、と、ドッピオは肩が震えた。
(―――あ、ああ。……そうだったっけ)
女の名前すら思い出せない少年は何故だかそれだけは“前に知った事がある”と思い出せた。
女は犯罪者じゃない。マフィアではない。考えて、(うん?)とドッピオは首を傾げて、さぁっと青くなった。
自分が忘れていることが用事だけでなく、女のプロフィールも含まれていることがおぼろげに分かってしまったからだ。
(……オイ! なんなんだこれ! これってもう、記憶喪失って奴なんじゃあないの?)
これじゃあ次に考えていた名前を名乗りあう自己紹介も出来なくなっちまった、ちくしょう。そう、ドッピオは考える。
一体、自分が女のことを何処まで知っているはずだったのか、女は自分のことを知っているのか?
「あの、どういう事なんでしょうか? 実は……ここに来なければならないことは覚えているんですけど、
ぼくは何のためにこなければならなかったのか、覚えて……ないんです」
ついに本音をあげることにしたドッピオに、女は十分喉を潤してから言った。
「貴方のボスから話を事前に聞いてるから慌てなくていいよ。
それに、貴方がここに来ることが目的だから、託された仕事はもう済んだと言ってもいい。
だから、もう貴方の好きに過ごして。……話の続きでもする?
貴方はなんでだと思うの?犯罪者じゃあない看守でもない私が独房でこうしてるわけは?」
後半は殆ど掠れるような声で言って女はカサカサに乾いた喉に水を滲みらせるみたいにまたお茶を口にする。
そうして湿らせた喉で「チョコは食べる?それとももう少しお腹にたまるものを食べたい?」と、まだ茫然としているドッピオに尋ねる。
「もう、済んでいる?」
呟くドッピオに背を向けて女は巧みに車輪を回して食材を用意し始める。
水道も冷蔵庫もコンロも車いすの高さに丁度良く、女の為にしつらえられたものだとわかった。
女は足を患ってから長いのか何の不自由なく動き回って紙袋のなかからパンを取り出している。
それを見て慌てて少年は椅子から飛び降りて、女の手伝いをした。
袋を受け取って、ゴミ箱を指されたので捨てに行く。
「無実の罪を着せられたとか?―――あ、このパン屋さん知ってます。ぼく、ここの大好きで。ここってぼくの家から近い、のかな」
「そう、―――いいえ、別に罪を着せられたわけじゃない。それに着せられた罪があるのならこんな風に過ごせてない」
赤く皮に張りのあるトマトとピンピンとしてツヤのある緑の葉を洗う女がしれっと言う。
「じゃあ……うーん、事情があって保護されているとか?」
曖昧に足の事とは言わずに尋ねたつもりだったが女は二つに切ったパンに具を挟んで横目でドッピオを見た。
「いいえ。この足になってからのほうがここで過ごしている年数より長い。
私は、観光用のお土産やお祭りの衣装に使うレースを編むただの貧乏な職人だった」
「……貴女はここから出られない?」
「ええ、そう。出てはいけないことになっているし、決められた相手以外口を利くのもいけない」
「ぼくは“許可”されている?」
尋ねたドッピオに口の端っこを少し上げるようにした彼女は「さあ、できた。簡単なものだけどお食べ。自分で運びなさいね」と、
いつの間にかハムとチーズも加えたパニーノの皿を押し付けた。
自分は車輪を回しながら移動し、置きっぱなしだったお茶を手に取りまた口に含む。
「……失礼ですが、喉はどうかしたんですか?病気?」
「昔にね、村を巻き込むような大きな火事の煙にやられてしまった」
「足も?」
「これはもっと昔の話。こっちのは自業自得で、お転婆が過ぎて窓から落っこちて治らなくなってしまった」
だから、火事の時、一人では逃げられなかったの、と、脈略なく女は言う。
「そう……」
ドッピオが言うと仕方がなさそうに足を撫でて少しだけ女は微笑んだ。
少年は、彼女のぼんやりと明るい頬に髪が少しかかったのをただ見つめていた。
**
ドッピオは戻ってきてパンを咥えて考えた。
この女をここに入れているのは“ボス”なのかもしれない。
それが組織の為なのか、ボス個人の為なのかしれないけれど、部屋の様子や女の様子を見るに手厚く扱っているように思う。
しかし、どうして僕をここに寄越す命令をして何をさせたかったのかが一向にわからない。
女はもう仕事は済んでいると言ったけれど、本当にそうなのか?
(わからないんです。ボス。どうか、何か具体的な指示をオレにください)
もやもやとしながらきょろきょろと部屋を見渡して黙っていると、彼女が言う。
「電話ならあそこ。でも今はかかってはこないわ」と出口の傍の壁に取り付けられた電話を指して言う。
「……あの、ぼく口に出してた?」
「いいえ、でも……違わないでしょう?」
急に、本当に急に。
ドッピオは伏せられていたカードがバタバタとひっくりかえるように、
気になってしかたのない疑問の正体が自分が触れるべきでないものなんだと分かった。
女は笑っている。けれど、その目は暗闇を歩き続けているかのように疲れてしまってとうの昔に諦めてしまった目をしていた。
分かって、もうここに居座ることに耐えられなくなった。
「えっと、もう、ぼくがすることは何もないんでしょうか?」
「取り立ててして貰うことは今日はないよ」
「……じゃあ、これを頂いたら帰ります。それでも、構わないですよね?」
うん、と彼女は頷いて、きし、きし、と車輪をこいで、ドアの横につけた。
「さあ、お戻りなさい」
急いでパンを腹に詰め込んだドッピオが部屋を出て行く時に「またねドッピオ君」と女は手を振った。
部屋を出て扉を振り返った時、それを見て、ドッピオはようやくぴったり記憶の回路が繋がって身震いをした。
思い出した。
なんて、恐ろしい。なんで忘れていたんだろう?
来たときには気づかなかった入り口の傍の壁のタイマー。
24時間で一周するタイマーは既に20時間を刻んでいた。それをストップさせてゼロに戻す作業に慌てて取りかかった。
(ぼくはこれをしにここに来たんだ。)
24時間分しか記録されないタイマーが再びゼロから時間を記録し始めるのを見て、息を吐く。
忘れたまま部屋の中であと4時間もぐだぐだしていたなら女と一緒に並んでいつのまにか“墓の中”だ。
心底肝を冷やしたドッピオは、タイマーと電話線と共にこの石の壁のなかに埋まっている仕掛けられた“毒”に震えながらそこを後にする。
命令を果たしたドッピオは独房を去った。
……少なくとも、その時の彼は記憶の中でそう思ったはずだ。
**
タイマーの戻す方法は電話だ。
こちら側からコールをし、電話が壁の向こう側で取られると壁に付いていたタイマーがゼロに戻る。
ここでなくてもいいのだが実際目で見るのとは比べられない実感がある。
これで確かに繋がった。そうして満足そうに閉じた独房を見る。
彼女と少年のやり取りを見ていた男だけが知っていた。
ここにあって男が確かめなければ本当に消えてしまうちっぽけな命があるということ。
電話の向こうからもう何度も逃れられないと自ら知っている声がして、男が本当に幸せそうに目を細めて女の問いに答えてやっている。
「ああ、いつもの、とても好みの味だった」
チッチッチッ……
ボスマジしまっちゃうおじさん